・基礎有機化学
【目次】
(1) 有機化学とは何か?
伝統的に「有機化学(organic chemistry)」は、「炭素を含む化合物の化学」と見なされています。1807年、スウェーデンの化学者であるイェンス・ベルセリウスは、生命力を持つもの、つまり有機体の産物である砂糖などの物質を「有機化合物(organic compound)」とし、無生物界の産物である水や食塩などの物質を「無機化合物(inorganic compound)」と呼ぶことを提案しました。19世紀初頭までは、有機分子は生物と密接に関係していると考えられ、それ故に「有機(organic)」という言葉が用いられたのです。この頃、有機化合物は、生物由来の分子からしか作ることができないという考えが広く受け入れられ、炭素を含む化合物には、「生命力」があるという観念が提唱されていました。このような考え方を「生気論(vitalism)」といいます。そのため、化学者たちは、有機化合物を実験室で作ろうとは、あえてしなかったのです。
1773年、フランスの化学者であるイレール・マラン・ルエルは、尿から白い結晶性の物質を単離し、それは相応しくも「尿素」と呼ばれるようになりました。尿素は、ヒトの尿中にタンパク質分解物として、1日当たり約30 gが排泄されています。最も簡単な窒素化合物はアンモニアNH3ですが、アンモニアNH3は人体に有害なため、安全な尿素(NH2)2COとして蓄えられ、水溶液にして排泄されているのです。この物質は、体内で合成されたものであるから、明らかに有機化合物であり、実験室で合成するのは不可能だと考えられていました。ところが、1828年にドイツの化学者であるフリードリヒ・ウェーラーは、無機化合物であるシアン酸アンモニウムNH4OCNの水溶液を加熱して蒸発させ、白い結晶を作ることに偶然成功したのです。ウェーラーがその結晶の性質を調べると、天然の尿素(NH2)2COと全く同じであることが分かりました。これは、当時では絶対に考えられない反応でした。
NH4OCN → (NH2)2CO
興奮したウェーラーは、恩師であるイェンス・ベルセリウスに、「犬や人間など、いかなる動物の腎臓も使用せずに、尿素の合成に成功したことをお知らせしなければなりません」と手紙を書きました。ウェーラーは尿素を合成することで、有機物には何らかの生命力があるという理論を覆し、有機化学と無機化学とを結ぶ永遠の橋を架けたのです。突然、化学に無限の可能性が広がりました。尿素を研究室で合成することができるのなら、他の有機化合物も合成可能であるかもしれません。
図.1 ウェーラーは、無機化合物から初めて有機化合物の尿素(NH2)2COを合成した
ウェーラーの発見によって、「合成物質と天然物質は違う」という、それまでの化学界の古い考え方は葬り去られました。合成尿素が天然尿素と何から何まで同じだったため、化合物の性質はその「組成」によって決まるのであり、「祖先」によって決まるのではないことが判明しました。現在では、一酸化炭素COや二酸化炭素CO2、炭酸塩などを除く「炭素を含む化合物」を一般的に有機化合物と呼び、「炭素以外の元素からなる化合物」を無機化合物と呼んでいます。ウェーラーの合成尿素は、天然のものと同様、どの点を取っても肥料として優れていました。ちなみに、現在では尿素(NH2)2COは、工業的に二酸化炭素CO2とアンモニアNH3から合成され、合成樹脂や肥料に使われています。
2NH3 + CO2 → (NH2)2CO + H2O
(2) 有機化合物の特徴
有機化学は、炭素の化学です。たった1つの元素の化学であるにもかかわらず、炭素の化学は「有機化学」と名付けられ、その他の元素の化学は「無機化学(inorganic chemistry)」としてまとめられています。100を超える元素の中で、なぜ炭素の化合物だけが、特別に取り上げられるのでしょうか?その理由は、炭素には他の元素にはない、独特な性質を持っているからです。炭素には、他の元素と比較して、次のような特徴があります。
(i) 炭素原子は最高で4つの原子と結合できる
炭素原子の原子番号は6であり、炭素原子は6個の電子を持っています。6個の電子は、エネルギー準位の低い電子軌道から順に配置されていき、最も安定な「基底状態(ground state)」では、炭素原子は最外殻電子に2個の不対電子を持ちます。しかし、このままでは、炭素原子は4つの原子と結合することができません。そこで、化学結合は、炭素原子を一度「励起状態(excited state)」にして、4個の不対電子を作ったあとに行うのです。
炭素原子は励起状態になると、不対電子が4個できて、多くの結合エネルギーが獲得できるようになります。これによって、励起に要したエネルギーを十分に補うことができるようになります。さらに、炭素原子はただ励起するだけではなく、「混成軌道(hybrid orbital)」を作って結合します。この理由は、混成状態の方が、原子価状態よりも軌道同士の重なりが大きく、重なった部分の電子密度が大きくなって、より安定な化学結合が形成されるからです (混成軌道を参照)。
図.2 炭素のsp3混成軌道
また、炭素原子のσ結合の電気陰性度は2.5であるので、共有結合性の化学結合を作ります。炭素原子1つが、最高で4つの原子と共有結合で結合できることは、炭素の化合物が、非常に多いことの第一の要因です。
(ii) π結合を作ることができる
π結合は、p軌道が重なることによって作られます。ただし、このときに原子半径が大きすぎると、p軌道同士が離れてしまい、軌道の重なりが少なくなるので、安定なπ結合ができなくなってしまいます。π結合が、原子半径の小さい第二周期の炭素Cや窒素N、酸素Oによく現れるのは、このためです。
図.3 エチレンC2H4のσ結合とπ結合の形成
ところで、π結合の電子は、σ結合の電子に比べると、原子核からの引き付けが弱いので、自由電子的な性質を持っています。さらに、化合物中にp軌道が平行して並んだ構造は、一般的に「共役系(conjugated system)」と呼ばれます。共役系をπ電子が動き回ると、π電子が非局在化して、分子全体が安定化します。「黒鉛(graphite)」は、典型的な共役系を持つ物質であり、π電子が自由電子のような役割をするので、非金属でありながら、高い電気伝導性を持ちます。
図.4 黒鉛の各層の面内では、p軌道にあるπ電子の重なりが大きいので、電気伝導率は高い
しかしながら、原子半径が小さくなり、電気陰性度が大きくなりすぎると、π電子を自身に引き付ける強さが大きくなるので、このπ電子の自由電子的な性質も失われてしまいます。これはすなわち、化学反応性が減少することを意味しています。
例えば、第二周期の原子の電気陰性度はC<Nなので、C=CとN≡Nの反応性を比べると、N≡Nの方が反応しにくいのです。π結合を持つはずの窒素N2の化学反応性が低いのは、このためです。さらに、酸素Oのように電気陰性度がもっと大きくなると、原子核とのクーロン力が大きくなりすぎて、π結合は切れがちになります。酸素O2は、一般的に知られている二重結合を持つ構造の他に、不対電子を持つ構造を作りやすいために、反応性が高くなります。炭素Cは、このようにπ電子の反応性がちょうど普通程度であるため、二重結合や三重結合を形成して、いろいろな反応性と構造を持った化合物を作ることができます。
表.1 π電子の反応性
元素 |
炭素 |
窒素 |
酸素 |
電気陰性度 |
2.5 |
3.0 |
3.4 |
反応性 |
普通 |
低い |
高い |
構造 |
C=C、C≡C |
N≡N |
O=O ↔ O-O |
(iii) 原子が連続して結合することができる
炭素Cの電気陰性度は、大きすぎも小さすぎもしないので、炭素のσ結合は、共有結合が鎖のように連続して繋がっていけます。この性質を「カテネーション(catenation)」といいます。また、それに伴って、π結合も連続させることができます。
一方で、電気陰性度の大きい酸素Oや窒素Nでは、非共有電子対間の反発が大きいため、連続した結合は形成しにくくなります。ペルオキシ基(-O-O-)やアゾ基(-N=N-)の構造が不安定なのは、これが理由です。過酸化水素H2O2は、ペルオキシ基(-O-O-)の構造を持つため、結合エネルギー的に不安定で、反応性が非常に高いです。
図.5 過酸化水素H2O2は不安定で、酸素O2を放出しやすい
炭素Cは連続した結合を作ることができるため、炭素Cと水素Hのみでできる化合物は、事実上無限にあります。一般的に炭素Cと水素Hのみでできた化合物を「炭化水素(hydrocarbon)」といい、これはすべての有機化合物の基本となっています。炭化水素のうち、炭素原子間がすべて単結合のものを「飽和炭化水素(saturated hydrocarbon)」、二重結合や三重結合のような不飽和結合を含むものを「不飽和炭化水素(unsaturated hydrocarbon)」といいます。また、分子が鎖状構造のものを「鎖式炭化水素(chain hydrocarbon)」または「脂肪族炭化水素(aliphatic hydrocarbon)」、環状構造を含むものを「環式炭化水素(cyclic hydrocarbon)」といいます。直鎖状構造のもの以外にも、枝分かれがある構造のものもあります。
図.6 炭化水素の分類
鎖式炭化水素のうち、飽和炭化水素を「アルカン(alkane)」(脂肪族炭化水素(アルカン)を参照)、不飽和炭化水素で二重結合1個を含むものを「アルケン(alkene)」(脂肪族炭化水素(アルケン)を参照)、三重結合1個を含むものを「アルキン(alkyne)」(脂肪族炭化水素(アルキン)を参照)といいます。また、環式炭化水素のうち、芳香環(ベンゼン環など)を持つ環式不飽和炭化水素を「芳香族炭化水素(aromatic hydrocarbon)」(芳香族炭化水素を参照)といい、特有の性質を示します。
さらに、芳香族炭化水素を除く、環式炭化水素を「脂環式炭化水素(alicyclic hydrocarbon)」といい、そのうち、飽和炭化水素を「シクロアルカン(cycloalkane)」、不飽和炭化水素で二重結合を環内1個含むものを「シクロアルケン(cycloalkene)」といいます。
(iv) いろいろな方向に他原子と結合することができる
炭素はsp3混成軌道・sp2混成軌道・sp混成軌道をとって、それぞれ正四面体・正三角形・直線方向に原子と結合するため、いろいろな形を組み立てることができます。炭素Cと水素Hからなる炭化水素に、酸素Oや窒素N、リンP、フッ素Fなどのいくつかの元素を組み合わせるだけでも、考えられる構造は膨大に増加し、いろいろな反応性や構造を持った分子が、自由自在に作り出せます。無機化合物と比べて、有機化合物を構成する成分元素の種類は少ないのですが、このような性質のために、化合物の種類は極めて多くなるのです。炭素が複雑な分子から成り立っている生命有機体の中心元素であるのは、まさにこのような炭素の独特な性質によるところが大きいです。もし炭素という元素がなかったならば、きっと生命は誕生していなかったでしょう。
図.7 炭素の立体構造
(3) 官能基
原子団の中には、それらが結合している分子骨格の種類には、あまり影響されない化学的性質を持つものがあります。これらの原子団は、一般的に「官能基(functial group)」と呼ばれます。「ヒドロキシ基(-OH)」は官能基の一例であり、この基を炭素骨格に含む化合物は、「アルコール(alcohol)」と呼ばれます。
有機反応では、ある種の化学的変化が官能基で起こっても、分子の残りの部分は、もとの構造を保持している例がほとんどです。このように化学反応では、構造式の大部分が変化しないで保持されるので、有機化学の学習は、非常に単純化されます。したがって、私たちは種々の官能基の化学に注目して、勉強すれば良いということになります。化合物1個ずつについて学習するのではなく、分類した一群の化合物ごとに学習する方が効率的です。代表的な「官能基」の名称、構造式、その官能基を含む化合物の一般名とその特徴は、次の表.2の通りです。
表.2 代表的な官能基の名称、構造式、その官能基を含む化合物の一般名とその特徴
官能基 |
一般式 |
一般名 |
具体例 |
特徴 |
アルコール性 ヒドロキシ基 |
R-OH |
アルコール (alcohol) |
CH3OH メタノール |
中性 水素結合する |
チオール基 |
R-SH |
チオール (thiol) |
CH3CH2SH エタンチオール |
中性 特異的な悪臭がある |
アルデヒド基 |
R-CHO |
アルデヒド (aldehyde) |
HCHO ホルムアルデヒド |
中性 還元性がある |
ケトン基 |
R-CO-R’ |
ケトン (ketone) |
CH3COCH3 アセトン |
中性 |
カルボキシ基 |
R-COOH |
カルボン酸 (carboxylic acid) |
CH3COOH 酢酸 |
弱酸性 |
アシル基 |
R-CO- |
アシル (acyl) |
CH3COCl 塩化アセチル |
中性 |
エステル結合 |
R-COO-R’ |
エステル (ester) |
CH3COOCH2CH3 酢酸エチル |
中性 良い香りがする |
エーテル結合 |
R-O-R’ |
エーテル (ether) |
CH3CH2OCH2CH3 ジエチルエーテル |
中性 |
スルフィド結合 |
R-S-R’ |
スルフィド (sulfide) |
CH3SCH3 ジメチルスルフィド |
中性 特異的な悪臭がある |
シアノ基 |
R-CN |
ニトリル (nitrile) |
CH3CN シアノメタン |
中性 |
ニトロ基 |
R-NO2 |
ニトロ化合物 (nitro compound) |
C6H5NO2 ニトロベンゼン |
中性 爆発性がある |
スルホ基 |
R-SO3H |
スルホン酸 (sulfonic acid) |
C6H5SO3H ベンゼンスルホン酸 |
強酸性 |
フェノール性 ヒドロキシ基 |
Ar-OH |
フェノール類 (phenols) |
C6H5OH フェノール |
弱酸性 水素結合する |
アミノ基 |
R-NH2 |
アミン (amine) |
C6H5NH2 アニリン |
塩基性 水素結合する |
アミド結合 |
R-NHCO-R’ |
アミド (amide) |
C6H5NHCOCH3 アセトアニリド |
中性 水素結合する |
アゾ基 |
R-N=N-R’ |
アゾ化合物 (azo compound) |
C6H5N2C6H5 アゾベンゼン |
中性 色素が多い |
(4) 元素分析
有機化合物の性質や反応性を知るためには、その化合物の構造を決定する必要があります。一般的に有機化合物の構造式は、次のような手順で決定されます。
@ 試料を分離・精製して、目的の化合物を純物質として取り出す。 A 有機化合物の構成元素の種類や割合を調べ、組成式を決定する。 B 有機化合物の分子量を測定し、それに基づいて分子式を決定する。 C 有機化合物の物理的な性質や化学的な性質に基づいて構造式を決定する。 |
図.8 構造式の決定手順
試料の分離・精製には、「蒸留(distillation)」や「昇華(sublimation)」、「再結晶(recrystallization)」、「抽出(abstraction)」、「クロマトグラフィー(chromatography)」などがよく利用されます。
さらに、有機化合物の構成元素の含有量は、「元素分析(elementary analysis)」によって求められ、通常は「核磁気共鳴スペクトル(NMRスペクトル)」や「赤外吸収スペクトル(IRスペクトル)」などの電磁波を用いた方法によって行われます。物質は特定の波長の電磁波を吸収すると、エネルギーの低い基底状態から、エネルギーの高い励起状態に変化するようになります。試料に特定の波長の電磁波を照射して、この様子を観測することで、分子構造を解析できるのです(NMR(核磁気共鳴)分光法の基礎を参照)。
また、有機化合物の分子量も、「質量分析計(MSスペクトル)」によって求めることができます。気体試料に高エネルギーの電子線を照射すると、分子がイオン化されます。分子から電子が1個だけ取り除かれた分子イオンと、分子が分解されて生じたフラグメントイオンの質量分布を測定することにより、化合物の分子量や構造を知ることができるのです。ただし、この方法は、大学などの研究機関で行われる最先端の分析技術であり、高校化学では、未だに「元素分析」として、次の図.9のような古典的な方法が行われることが多いです。この方法は、1834年にドイツの化学者であるユストゥス・リービッヒが初めて考案してものです。
図.9 古典的な元素分析
炭素C・水素H・酸素Oからなる有機化合物の組成式を決定するためには、まず精製した試料の質量を精密に量ります。次に、乾燥酸素中で試料を完全燃焼させ、生じた水H2OをU字管中の塩化カルシウムCaCl2に吸収させ、二酸化炭素CO2をU字管中のソーダ石灰に吸収させます。なお、このときの酸化銅(II)CuOは、不完全燃焼物を完全燃焼物に変えるための酸化剤として加えてあります。酸化銅(II)CuOは、酸化剤として働くと銅Cuになりますが、導入される酸素O2によって酸化され、酸化銅(II)CuOに再生します。
CuO + CO → Cu + CO2
(2Cu + O2 → 2CuO)
そして、塩化カルシウム管とソーダ石灰管の質量増加分を測定することにより、生成した水H2Oと二酸化炭素CO2の質量が、それぞれ求まるのです。ここで、試料の組成式CxHyOzは、次のように求めます。原子量をH=1、C=12、O=16とすると、完全燃焼物の質量wCO2、wH2Oより、
各元素の質量をその原子量で割ると、その比が物質量の比になります。このようにして、試料の組成式を求めることができるのです。また、注意として、塩化カルシウム管とソーダ石灰管の順序を逆にしてはいけません。ソーダ石灰は、酸化カルシウムCaOと水酸化ナトリウムNaOHを焼き固めたものであり、二酸化炭素CO2も水H2Oも吸収できるのです。ソーダ石灰管を先にしてしまうと、ソーダ石灰が二酸化炭素CO2と一緒に水H2Oまで吸収してしまい、別々に質量が測定できなくなってしまいます。
また、元素分析の問題では、試料の元素別質量%が与えられていることも多く、この場合は、次のようにして組成式を求めます。試料のうち、炭素Cをa%, 水素Hをb%, 酸素Oをc%含んでいるとすると、
さらに、未知化合物の分子式を決定するためには、組成式を決定したあと、その化合物の分子量を測定する必要があります。分子量は、組成式の式量の整数倍に相当するので、分子量が分かれば、組成式から分子式を求めることができるのです。分子量は、問題で与えられていることが多いので、それを利用して下さい。分子式は(組成式)nと書けることから、
なお、分子式が決まっても、有機化合物には異性体が多いので、構造式を決定するためには、その化合物の物理的な性質や化学的な性質を調べる必要があります。実際の研究では、有機化合物の融点や沸点などの物理的な性質を調べることが多いのですが、高校化学では、構造決定などの問題で、有機化合物の化学的な性質を問うことが多いです。
例えば、分子式C2H6Oの有機化合物には、エタノールC2H5OH(m.p.-115℃, b.p.78℃)とジメチルエーテルCH3OCH3(m.p.-142℃, b.p.-25℃)の2種類の異性体があります。もし未知の化合物がエタノールC2H5OHであれば、ナトリウムNaと反応して水素H2を発生させます。しかし、ジメチルエーテルCH3OCH3であれば、ナトリウムNaを加えても反応しません(アルコールを参照)。このような化学的性質の違いを利用して、有機化合物の構造式を決定していくのです。
(5) 立体化学
ある分子について、それを組み立てている元素の種類と数を表したものが「分子式」です。しかしながら、同じ分子式であっても、各原子同士の結合の種類や方向、すなわち分子構造が異なると、互いに物理的、および化学的な性質の全く異なった分子となります。
このように、同じ分子式でありながら、構造が異なるものを「異性体(isomer)」といいます。また、ある分子が異性体に変化することを、「異性化(isomerization)」といいます。異性体には、大きく分けて「構造異性体(structural isomer)」と「立体異性体(stereoisomer)」があり、一般的に次の図.10のように分類できます。立体異性体は、さらに「エナンチオマー(enantiomer)」と「ジアステレオマー(diastereomer)」に分類されます。
図.10 異性体の分類
(i) 構造異性体
原子の結合順序が異なる異性体を、「構造異性体」といいます。構造異性体には、炭素骨格の異なるもの、官能基の種類の異なるもの、官能基の位置の異なるものがあります。次の図.11に、主な「構造異性体」を示します。
図.11 主な構造異性体
(ii) 立体異性体
「立体異性体」とは、原子間の結合順序は変わらないものの、空間的な原子の配列が異なるために生じる異性体のことをいいます。立体異性体同士の構造上の違いは、構造異性体同士の違いに比べると、はるかに微細なものではあります。しかし、それでも異性体分子の化学的性質には、重要な違いを生じる原因になります。
特に、医薬品の効き目に関していえば、立体異性体のどれが使われるかによって、効き目や副作用の有無に、顕著な差が現れることが多いです。これは、ヒトの体内にある受容体がが、化学物質を立体特異的に分子レベルで認識しているからです。例として、「サリドマイド」という西ドイツのグリュネンタール社が販売した薬物を考えると、サリドマイドのR 体は、睡眠導入剤や乗り物酔い止めとして有効な薬です。しかし、サリドマイドのS 体は、非常に強い催奇性を持っています。市販のサリドマイドは、R 体とS 体が1:1に混合した「ラセミ混合物(racemic mixture)」になっていたのです。
図.12 サリドマイドのS 体には、強い催奇性がある
サリドマイドのS 体には、あらゆる動物の胎児ばかりか、植物の胚にまで奇形を生じさせるほどの強い催奇性があったのですが、妊娠中の動物を使った実験は行われていなかったのです。サリドマイドを服用すると、母体の中にいる胎児の手足の成長を促すタンパク質の機能が阻害され、手足の長さが極端に短い新生児が産まれてしまうようになります。この症状は、手足がアザラシの肢のようになることから、「アザラシ肢症」といわれます。日本では、その対応が遅れたことから被害が拡大し、1981年までに309人が被害児と認定されるに至りました。
なお、サリドマイドのR 体だけを投与しても、直ちに体内でサリドマイドのS 体に半数が変化し、「ラセミ化(racemization)」するという報告があるので、サリドマイドを睡眠導入剤や乗り物酔い止めの薬剤として使うのは、難しいようです(サリドマイドの科学を参照)。
(iii) エナンチオマー(鏡像異性体)
右手と左手は鏡像の関係であり、平面上で重ね合わせることができません。このように、鏡像と重ね合わすことのできない分子を「キラル(chiral)」といいます。「キラル」というのは、ギリシア語の「手(cheir)」に由来する言葉です。キラルな分子を「キラル分子」といい、キラル分子は右手と左手のように、互いに鏡像である一対の立体異性体です。これら2つの異性体の関係を、「エナンチオマー(enantiomer)」もしくは「鏡像異性体」といいます。
また、互いに異なる4種類の原子、または原子団と結合した炭素原子を、「対称(symmetry)」を否定する「不斉(asymmetry)」という言葉を使って、「不斉炭素原子(asymmetric carbon atom)」といいます。分子中の不斉炭素原子は、記号の「*」を使って表します。多くのキラル分子は、不斉炭素原子などの「不斉中心(asymmetric center)」をその分子内に含みます。しかし、不斉中心の存在は、必ずしもキラルであることの必要条件でも十分条件でもありません。
図.13 不斉炭素原子を含む化合物は、キラル分子であることが多い
一方で、その分子の鏡像と重ね合わせることができる分子を「アキラル(achiral)」といいます。アキラルな分子には、「対称面」や「対称心」があり、このような特徴を持つ分子は、すべてアキラルです。これに対して、キラルな分子は、対称面や対称心を持たないので、対称面や対称心を探すことで、その分子がキラルであるかアキラルであるかを識別することができます。アキラルな分子とその鏡像は、平面上で重ね合わせることができるので、これらはエナンチオマーには分類されません。
図.14 アキラルな分子には、対称面や対称心が存在する
2つのエナンチオマーのほぼすべての物理的性質は等しいです。融点や沸点、密度、溶解度、屈折率、熱伝導率などの物理的性質は、両者を区別するのに役立ちません。しかし、物理的性質の中で、やや曖昧ですが、ただ1つだけ違いがあります。それは、2つのエナンチオマーが、面偏光の偏光面をそれぞれ同じ角度だけ、逆方向に回転させるという性質です。偏光面が回転する現象を「光学活性(optical activity)」といいます。偏光面を時計回りに回転させる分子は「右旋性(dextrorotatory)」であるといい、回転が反時計回りであれば「左旋性(levorotatory)」であるといいます。回転方向を表すには、右旋性の場合は(+)または(d)を、左旋性の場合は(-)または(l)を化合物の名前の前に付けます。
図.15 エナンチオマーの旋光性
また、右旋性と左旋性のキラル分子が等量混在していると、旋光性の効果が相殺され、偏光面の回転が観測されなくなります。そのような混合物を「ラセミ体(racemate)」といいます。「ラセミ」とは、「racemic(ブドウの)」という意味の言葉から来ています。これは、フランスの生化学者ルイ・パスツールが、ブドウ果汁から得られた酒石酸塩の研究からラセミ体を発見したからです。また、エナンチオマーのラセミ体混合物であることを表すのに、化合物名の前に(±)を付けることがよくあります。
(iv) ジアステレオマー
天然に存在する数多くの化合物は、2つ以上の不斉炭素原子を持つことが多いです。このような場合、異性体の数を決めたり、異性体間の関連性を明らかにしたりすることが、大変重要になってきます。分かりやすいように、天然分子ではありませんが、「2-ブロモ-3-クロロブタン」を例として考えてみましょう。この分子には、「*印」のついた2つの不斉炭素原子があります。この2つの不斉源に対して、それぞれにエナンチオマーができるので、異性体の数は合計で2×2=4つになります。一般的に不斉源がn個ある場合、その化合物の異性体は、合計2n個できます。また、ここで注目して欲しいことは、エナンチオマーの組み合わせが、2組できることです。すなわち、AとBは重ね合わせることができないエナンチオマーであり、同様にCとDも別のエナンチオマーです。
図.16 2-ブロモ-3-クロロブタンの立体異性体
ここで、有機化学において、大変重要なもう1つの立体化学について説明する必要があります。図.16の立体異性体のAとCの関係を調べてみましょう。これらは、重ね合わせることのできない立体異性体でありながら、鏡像関係ではありません。つまり、これらが立体異性体であることは確かですが、エナンチオマーではないのです。このような関係にある立体異性体を、「ジアステレオマー(diastereomer)」といいます。したがって、ジアステレオマーとは、互いが鏡像の関係にない立体異性体の組み合わせのことです。(A, C)・(A, D)・(B, C)・(B, D)の関係は、すべてジアステレオマーです。
さらに、エナンチオマーとジアステレオマーとの間には、極めて重要で、明白な相違があります。エナンチオマーは、互いに鏡像体であるから、偏光面を回転させる性質だけが異なります。しかし、融点や沸点や溶解度などの物性は全く同一であるから、再結晶や蒸留といった物性に基づく分離法では、エナンチオマーを分離できません。しかし、ジアステレオマーは、互いに鏡像体ではないから、キラリティーに関係なく、すべての物性が異なっています。すなわち、ジアステレオマーは、互いに異なる融点や沸点、密度、溶解度、屈折率、熱伝導率などを持っており、ジアステレオマーは、2つの異なる化学物質として見なすことができるのです。
また、ジアステレオマーには、注意するべきことがあります。これは、不斉炭素原子を持っていながら、アキラルな分子が存在するということです。例として、「2,3-ジクロロブタン」の立体異性体を考えてみましょう。この分子には、不斉中心が2つ存在することが分かります。
図.17 2,3-ジクロロブタンの立体異性体
ここで、EとFは互いに重ね合わせることのできない1組のエナンチオマーであるのに対して、残りのGとHは互いに鏡像の関係にありながら、同一の化合物です。これは、GとHが不斉炭素原子を持ちながらも、その分子に対称面が存在するからです。このように、分子に不斉中心がありながらも、同時に対称面や対称心を持つためにキラリティーを示さない構造を、「メソ化合物(meso compound)」といいます。
高校化学では、不斉炭素を持つ化合物は、すべてキラル分子であるかのように扱います。しかし、メソ化合物のような例外も存在するのです。メソ化合物では、不斉中心の立体配置は、互いに逆の関係になっていて、分子全体としてアキラルであるから、光学不活性です。
また、ジアステレオマーには、二重結合を含む化合物で、立体配置が異なるために、立体異性体となっているものがあります。このような立体異性体は、一般的に「幾何異性体(geometrical isomer)」と呼ばれます。有機化合物の場合では、特に「シス-トランス異性体(cis-trans isomer)」と呼ばれます。これらの立体異性体は、二重結合の軸まわりの回転が束縛されているために立体配置が異なり、対称面や対称心が存在するためにアキラルです。
図.18 2-ブテンの立体異性体
幾何異性体のうち、同一の原子、または原子団が同じ側にあるものを「シス形(cis)」、反対側にあるものを「トランス形(trans)」といいます。幾何異性体はジアステレオマーなので、立体異性体同士の物理的、および化学的な性質は、それぞれ異なったものになります。
(6) 不飽和度
鎖状飽和で、炭素C・水素H・窒素N・酸素Oからなる有機化合物について考えてみます。炭素Cがn個、窒素Nがx個、酸素Oがy個だとすると、H-Hを出発して、次のように組み立てることができます。
図.19 鎖状飽和で、炭素C・水素H・窒素N・酸素Oからなる有機化合物
つまり、この有機化合物は、H2+(CH2)n+(NH)x+(O)yであると考えられるので、分子式はCnH2n+2+xNxOyと表すことができます。したがって、Cがn個、Nがx個、Oがy個からなる有機化合物の水素原子数が2n+2+x個なら、この分子は鎖状で飽和であるといえます。
一方で、分子中に、多重結合や環状構造がある場合はどうでしょうか?すべての有機化合物には、水素原子数が2個減ると、不飽和結合か環状構造が1つ増えるという法則があります。
図.20 多重結合や環状骨格の形成と水素原子数の関係
そこで、鎖状飽和の場合と水素原子数を比べることで、多重結合や環状構造の数を予想することができるのです。これは、有機化学の構造決定の問題を考えるときに、非常に役に立ちます。一般的にπ結合の数と環状構造の数の和を「不飽和度(degree of unsaturation)」といいます。不飽和度は、炭素C・水素H・窒素N・酸素O・ハロゲンXからなる有機化合物の場合では、次のようになります。
この式で、Cは炭素原子の数、Hは水素原子の数、Xはハロゲン原子の数、Nは窒素原子の数を表します。酸素Oや硫黄Sのような第16族元素の原子数は、通常カウントしません。ハロゲン原子(F, Cl, Br, I)は、水素原子Hと同じく原子価が1なので、水素原子Hと同じ扱いになります。
このようにして算出した不飽和度を用いることにより、分子式からπ結合の数と環状構造の数が分かるのです。構造決定の問題で、最初に分子式が与えられたときは、まずは一度、不飽和度を計算してみることをお勧めします。
図.21 様々な有機化合物と不飽和度(U)
(7) 有機化合物の分離
特定の溶媒に対する溶解度の差を利用して、混合物のうち、その溶媒によく溶けるものを溶かして分離する方法を「抽出(extraction)」といいます。有機化合物を抽出によって分離するには、混ざり合わない2つの溶媒として、水とジエチルエーテルを利用することが多いです。これは、ジエチルエーテルは安価で多くの有機物をよく溶かし、揮発性が大きいため低温で除去できるからです。この際、2つの溶媒を分液ろうとに入れ、有機化合物を分離します。
図.22 有機化合物の分離
これは結局、酸塩基反応を利用した分離になります。多くの有機化合物は、そのままでは疎水性で、水に溶けにくいです。そこで、酸塩基反応で、イオン結合性の塩にすることによって、有機化合物は親水性となり、水に溶けやすくなるのです。
図.23 有機化合物の酸塩基反応
ただし、ここで注意しなければならないことは、安息香酸とフェノールの分離です。安息香酸とフェノールは、どちらも酸性を示す化合物ですが、フェノールは、炭酸水素ナトリウムNaHCO3で水溶性の塩にすることができません。この理由は、フェノールと炭酸水素イオンHCO3- の反応で、生成する物質が二酸化炭素CO2だからです。二酸化炭素CO2は、水に溶けると炭酸H2CO3となり、炭酸H2CO3とフェノールの酸性度は、炭酸(pKa=6.4)>フェノール(pKa=10)です。したがって、フェノールと炭酸水素イオンHCO3- が反応しても、生成してくる炭酸H2CO3によって反応が押し戻されてしまい、結局のところ、フェノールと炭酸水素イオンHCO3- はほとんど反応することができないのです。
図.24 安息香酸とフェノールの酸塩基反応
通常、有機溶媒は水よりも密度が小さく、二層に分かれたときに、上層にくるのが有機層であり、下層にくるのが水層です。例えば、ジエチルエーテルの密度は0.71 g/cm3、ヘキサンは0.65 g/cm3、トルエンは0.87 g/cm3であり、いずれも水よりも比重が小さいです。ただし、ハロゲン系溶媒である四塩化炭素CCl4の密度は1.6 g/cm3、クロロホルムCHCl3は1.5 g/cm3、塩化メチレンCH2Cl2は1.3 g/cm3であり、いずれも水よりも比重が大きいので、これらの溶媒を用いたときには、有機層が下層になります。また、多量の有機物を溶かした場合には、本来上層に来るべき有機層が下層になることもあります。
・参考文献
1) 石川正明「新理系の化学(上)」駿台文庫(2005年発行)
2) 齊藤烈/藤嶋昭/山本隆一/他19名「化学基礎」啓林館(2012年発行)
3) ジョー・シュワルツ「シュワルツ博士の化学はこんなに面白い」主婦の友社(2002年発行)
4) 鈴木勉「毒と薬【すべての毒は「薬」になる!?】」新星出版社(2015年発行)
5) トレヴァー・ノートン「世にも奇妙な人体実験の歴史」文藝春秋(2012年発行)
6) H.ハート/L.E.クレーン/D.J.ハート 共著「ハート基礎有機化学」培風館(1986年発行)
7) メートランド・ジョーンズ「ジョーンズ有機化学(上)」東京化学同人(2000年発行)