・NMR(核磁気共鳴)分光法の基礎
【目次】
(1) NMR(核磁気共鳴)分光法とは?
有機化学の研究が黎明期を迎えた頃、新しい有機化合物の構造を決定することは、非常に大変な仕事でした。フラスコの中に何が入っているのかを、どうやって決めるのかということは、極めて専門的なことだったのです。初期の頃は、このような疑問の解明方法は、すべて「化学反応を用いた分析法」に頼っていました。例えば、「オゾン分解法」や「加水分解法」などを用いて、複雑な構造を持つ分子を、構造決定が容易な単純な分子に変換していきます。そして、試料を官能基の定性反応にかけ、特定の官能基の有無を推測するという過程を繰り返すことにより、次第に矛盾のない構造が仮定され、さらにこれを次の反応でテストするといったことを幾度も繰り返し、ようやく化合物の構造が決定されました。この手法には、膨大な知識もさることながら、卓越した実験技量が必要とされました。また、この手法は、構造を決定するのに数週間から数カ月、ときには数年もかかることがありました。
しかし、今日では、定性反応の結果と化学構造との関連付けは、「分光的同定」に取って代わられています。この意味で、すべての現代の化学者は、「分析化学者」であるといっても過言ではありません。しかし、これは決して「分析化学者」の専門性が失われたということではありません。むしろ、すべての化学者を含みこむまでに拡大したということです。「紫外・可視分光法(UV/VIS)」が最初に出現し、分子量を測定できる「質量分析法(mass spectrometry:MS)」、そして結合している原子の振動を検知できる「赤外分光法(infrared spectroscopy:IR)」がそれに続きました。そして、1950年代の終わりには、「核磁気共鳴(nuclear magnetic resonance:NMR)分光法」が現れ、有機分子の構造決定の真の革命が始まりました。
図.1 プロトン共鳴周波数400 MHzの超伝導磁石(大阪教育大学で撮影)
「分光的な分析法」には、「化学反応を用いた分析法」にはない多くの長所があります。まず、測定試料の量がごく少量で済み、必要ならば、その試料を測定終了後に回収できることが挙げられます。また、測定は迅速に行えて、数分間で終了するものも多いです。さらに、「化学反応を用いた分析法」よりも、分子構造に関する数多くの情報が、スペクトルから得られます。ここでは、現代の有機化学を支える「NMR分光法」が、分子構造の決定方法として、どのように利用されているかを説明しましょう。
(2) NMRの理論
すべての原子核は、電荷を持っています。しかし、ある原子核では、この電荷が原子核の軸上でスピン運動し、この核電荷が回ることによって、軸方向の「磁気双極子」を生じます。つまり、原子核は陽電荷を持っているので、これが回転すると磁場を作り出すことになり、この回転する原子核は、あたかも「微小な磁石」のような振る舞いをするのです。このような挙動を示す原子核のうちで、有機化学に最も重要なものが、「1H」と「13C」の原子核です。原子核がスピンを持つかどうかは、陽子と中性子の数に依存します。有機化学の代表的な構成原子である「12C」や「16O」の原子核は、スピンを持たないので、NMRスペクトルを示しません。水素原子では、天然に存在するうちの99%以上が核スピンを有する「1H」であり、NMRでの観測に最も適した元素です。
NMRの現象は、次の図.2のようにして起こります。スピンを持った原子核は、磁場を発生するので、このような原子核は、1個の「棒磁石」として見なせます。通常、この「棒磁石」は、でたらめにあらゆる方向に向いています。しかし、ここに「強力な外部磁場」が加わると、原子核は外部磁場の方向に沿う方向か、あるいは逆らう方向に配列します。外部磁場の方向に沿う並び方(α状態)は、逆らう並び方(β状態)よりも、エネルギー的にわずかに有利であり、平衡状態では、このエネルギーの低い有利な配向(α状態)に、より多くの原子核が分布します。このことを、「ゼーマン分裂(Zeeman splitting)」といいます。
図.2 バラバラに並んでいる「棒磁石」に外部磁場が加わると、「ゼーマン分裂」が起こる
そして、ここに「ラジオ波領域の電磁波」を照射すると、原子核が励起されて、核スピンが低エネルギー状態(α状態)から高エネルギー状態(β状態)へと押し上げられます。このときの電磁波の役割は、核スピンの配向を変化させるのに必要なエネルギーを供給することです。また、このときを「原子核が電磁波と共鳴している」というので、「核磁気共鳴(nuclear magnetic resonance)」の名称は、ここからきています。そして、吸収された電磁波のエネルギーが、熱として周りに逃げれば、乱された平衡が再び元に戻ります。
図.3 共鳴周波数の電磁波を照射すると、α状態からβ状態への原子核の励起が起こる
外部磁場に沿う配列(α状態)と、逆らう配列(β状態)の2つの状態のエネルギー差は、加えた外部磁場の強度や、原子の結合状態によってわずかに異なります。また、一般的に外部磁場が強いほど、そのエネルギー差も大きくなり、NMR測定の検出感度と分解能が良くなります。一般的に使用される範囲の外部磁場の強さ(1.4〜14 T)に対して、1Hの核スピンの2つの状態間のエネルギー差は、60〜600 MHzの電磁波が持つエネルギーに相当します。この2つの核スピンのエネルギー差を、化学者に親しみやすい別の単位で表すと、25〜250 μkJ/molという非常に小さな値になります。NMR分光法では、このわずかなエネルギー差と平衡状態に戻るまでの時間変化をコンピューターで分析し、「フーリエ変換(Fourier transform:FT)」という手法により、シグナル強度を表すスペクトルへと変換するのです。有機化学者は、このNMRスペクトルを読むことで、有機化合物の構造を決定していきます。
@ スピンを持った原子核を磁場中に置くと、ゼーマン分裂が起こる。 A そのエネルギー差に相当する電磁波を照射すると、α状態の原子核がβ状態へ励起する。 B そのエネルギー差と平衡状態に戻るまでの時間を測定することで、有機化合物の構造が分かる。 |
(3) 1H NMRの試料調製
1H NMRスペクトルの測定は、一般的に次のようにして行われます。まず、測定したい数ミリグラムの試料化合物を、約0.4 mLの溶媒に溶かして、外径5 mmのガラス管(NMRチューブ)に入れます。溶液では、試料分子は多量の溶媒分子の中に分散し、それぞれランダムに動き回りながら存在します。NMRは、こうした状態の集合の平均化されたものを観測しています。400 MHzの装置で測定するときには、1 mg程度の試料化合物でも、十分な1H NMRスペクトルが得られます。ここでは、試料化合物が、溶媒に対して完全に混和していることが重要です。
図.4 試料化合物を溶媒に溶かして、NMRチューブに入れる
ただし、溶媒もまた1Hを含むため、普通の有機溶媒に溶かして測定すると、溶媒のスペクトルが大きく観測されてしまい、測定したい化合物のスペクトルがそれに埋もれてしまいます。1H NMRで理想的な溶媒は、プロトンをその構造に含まず、さらに高価でなく、沸点が低く、無極性であり、そして不活性であることです。四塩化炭素CCl4は、それに試料が十分に溶けるならば、理想的な溶媒です。また、重水素化クロロホルムCDCl3は、最も広く用いられる溶媒です。この中に不純物として含まれることが多いクロロホルムCHCl3から生じるスペクトルが、甚だしい妨害をすることはほとんどありません。ほとんどすべての溶媒が、98〜98.8%の同位体純度(D原子%)で重水素化された形で入手できます。また、これら1H NMRスペクトルの測定で用いられる溶媒は、一般的に沸点が低いので、測定が終わったら溶媒を留去して、試料化合物を回収することもできます。
(4) 化学シフト
水素原子を含む1つの化合物に対して、たった1本の吸収が観測される訳ではありません。分子中のすべての異なる水素は、それぞれ異なる位置に吸収を示し、各水素に対する共鳴周波数(電磁波のエネルギーと対応する)は、その水素に置かれた「化学的環境」に強く依存するのです。ここで、分子内で水素の置かれた化学的環境の違いによる共鳴周波数の変化を、「化学シフト(chemical shift)」と呼びます。化学的環境の違いが、一体どのように化学シフトに影響するのか、考えてみましょう。
分子内の水素は、分子軌道によって、決められたある一定の空間を占めています。そこに外部磁場B0が加えられると、電子はその空間の中で円運動を起こし、外部磁場に逆らうような磁場Biを誘起します。
図.5 円運動をする電子は、核の「反磁性遮蔽効果」をもたらす
したがって、水素が感じる正味の磁場(B0±Bi)は、分子内のすべての異なる水素について少しずつ異なり、共鳴周波数もまた違うはずです。誘起された磁場のために、ほとんどの水素が、外部磁場よりも弱い磁場(B0-Bi)を感じます。このようなとき、その水素は「遮蔽(shielding)」されているといいます。遮蔽の程度は、円運動をする電子の「密度」に依存し、一般的に電子密度が大きいほど、遮蔽効果は強くなります。すべての有機物質の示す「反磁性現象」は、この効果によって説明されるのです。
また、1H NMRでは、共鳴位置を基準物質のシグナルに対する相対位置で示す必要があり、共鳴周波数の差の1/106 (ppm)を単位として表示されます。基準物質としては、一般的に「テトラメチルシラン(Si(CH3)4:TMS)」が選ばれます。この化合物には、いくつかの長所、すなわち、化学的不活性、磁気等方性、揮発性(b.p.27℃)、および大部分の有機溶媒への可溶性という優れた性質があります。TMSの12個の水素原子は、化学的に等価であり、化学シフトにおいて1本線で現れるので、その鋭いシグナルを基準点として用いると、非常に都合が良いのです。さらに、TMSは低沸点であるから、測定終了後は容易に除去できます。なお、重水素化クロロホルムCDCl3に予めTMSが0.05wt%程度含有されたものが市販されているので、TMSを測定の度に用意する必要はありません。
図.6 「内部基準物質」として用いられるTMS
化学シフトにおいて、TMSは1個の鋭い吸収ピークを持ちますが、これは、ほとんどすべての有機化合物のプロトンよりも「高磁場」で吸収します。すなわち、TMSの水素は電子密度が非常に高く、強く遮蔽されているので、普通の有機化合物に比べると、「強い磁場」が必要となるのです。したがって、次の図.7のように、TMSは一般的にスペクトルの最も右側(0 ppm)に現れます。
図.7 1H NMR尺度
図.7のように1H NMR尺度を作り、右端の0 ppmにTMSピークを定めましょう。多くの有機化合物は、一般的にプロトン周囲の電子密度がTMSよりも低いので、「低磁場側」に共鳴ピークを示します。したがって、その位置をプラスの「δ値」で示す約束になっています。例えば、δ=1.00とは、TMSピークから1 ppmだけ、低磁場の位置に共鳴ピークが現れることを意味しています。つまり、400 MHzの電磁波を照射しながら測定した場合の1 ppmとは、TMSから400 Hzだけ低磁場の位置を指します。
つまり、プロトンの化学シフトとは、TMSを基準としたプロトン種のδ値のことなのです。化学シフトと呼ばれる理由は、δ値が、その水素原子を取り巻く化学的環境の違いにより変化する量だからです。また、この化学シフトは、「外部磁場の強さ」に正比例する値なので、「共鳴周波数」にも正比例し、「測定装置の違い」に無関係の量です。したがって、異なる分子であっても、似た化学的環境にある水素は、どんな測定装置で計測しても、似た化学シフトを示します。二重結合に付いたメチル基(-CH3)の吸収は、どれもほとんど同じ位置であるし、芳香族水素は、それに特徴的な位置で吸収を起こします。次の表.1に、様々な水素の吸収位置をまとめてみました。ただし、表に示された値は、概略の値であり、ここで示した数値は、飽くまで目安であるということに注意してください。
表.1 1H NMRの様々な化学シフト
|
1Hの種類 |
δ (ppm値) |
メチルプロトン -CH3 |
CH3-CR3 |
δ=0.8〜1.3 |
CH3-CR2X |
δ=0.8〜2.0 |
|
CH3-C=C |
δ=1.4〜2.4 |
|
CH3-C=O |
δ=1.8〜2.8 |
|
CH3-ハロゲン |
δ=2.2〜4.3 |
|
CH3-芳香環 |
δ=2.2〜3.0 |
|
CH3-NR2 |
δ=2.2〜3.9 |
|
CH3-OR |
δ=3.3〜4.3 |
|
メチレンプロトン -CH2-
|
R-CH2-CR3 |
δ=1.2〜1.7 |
R-CH2-CR2X |
δ=1.2〜2.0 |
|
R-CH2-C=C |
δ=1.8〜2.4 |
|
R-CH2-C=O |
δ=2.0〜2.8 |
|
R-CH2-ハロゲン |
δ=2.2〜4.4 |
|
R-CH2-芳香環 |
δ=2.4〜3.3 |
|
R-CH2-NR2 |
δ=2.4〜3.8 |
|
R-CH2-OR |
δ=3.4〜4.4 |
|
メチンプロトン -CH- |
R2-CH-CR3 |
δ=1.4〜1.6 |
R2-CH-CR2X |
δ=1.5〜2.0 |
|
R2-CH-C=O |
δ=2.3〜3.0 |
|
R2-CH-ハロゲン |
δ=4.0〜5.8 |
|
R2-CH-芳香環 |
δ=2.7〜3.3 |
|
R2-CH-NR2 |
δ=2.6〜4.2 |
|
R2-CH-OR |
δ=3.5〜5.3 |
|
多重結合に結合した プロトン |
C≡C-H(末端アルキン) |
δ=1.8〜3.0 |
C=C-H(末端アルケン) |
δ=4.6〜6.4 |
|
C=C-H(共役アルケン) |
δ=5.7〜7.7 |
|
芳香族プロトン |
δ=6.5〜8.5 |
|
ヘテロ芳香族プロトン |
δ=5.7〜9.3 |
|
O=C-H(アルデヒド) |
δ=9.0〜10.0 |
|
-COOH(カルボン酸) |
δ=10.0〜13.0 |
化学シフトに関して、「電気陰性度」の概念は、ある程度までは信頼できる導きとなります。例えば、TMSのピークが、ほとんどの有機化合物よりも高磁場の位置に現れるのは、ケイ素Siは炭素Cに対して電気的に陽性であり、TMSのプロトン周りの電子密度が高くなるからです。それ故に、これらのプロトンは高度に遮蔽されており、それらのピークは高磁場側に現れるのです。「電気陰性度」と「プロトン周囲の電子密度」の概念を使用すれば、化学シフトについて、多くの有効な推定を下すことができます。つまり、電子求引性の基は、隣接する水素の電子密度を低下させるので、水素原子核を遮蔽する効果が減少します。結果として、その水素の化学シフトは、比較的低磁場側に現れることになるのです。例として、次の表.2に、ハロゲンで置換されたアルカンの化学シフトを示します。この表からは、置換基の電気陰性度が大きいほど、水素原子核近傍の電子を強く引き付けて、共鳴位置も低磁場側に移ることが分かります。また、「電子密度が低い」ということは、「酸性度が高い」ということにもなるので、これを言い換えれば、酸性度の高い水素ほど、その化学シフトは、低磁場側に現れるということにもなります。
表.2 ハロゲンで置換されたアルカンの化学シフト
|
X=Cl |
X=Br |
X=I |
CH3X |
3.1 |
2.7 |
2.2 |
CH2X2 |
5.3 |
5.0 |
3.9 |
CHX3 |
7.3 |
6.9 |
5.4 |
さらに、表.1の化学シフトによると、「多重結合」や「芳香環」を構成する炭素原子に結合した水素原子は、「飽和炭素」に結合したものより、一般的に低磁場側に現れるということも分かります。確かに、アルケンのsp2炭素やアルキンのsp炭素は、アルカンのsp3炭素より高いs性を持ち、近くの水素から電子を求引し、その水素の遮蔽を弱める効果を持ちます。しかし、その効果を考慮しても、芳香環のプロトンなどは、予想以上に低磁場側の化学シフトを生じます。
この原因は、円運動するπ電子によって生じた誘起磁場にあります。例えば、芳香環に結合した水素の化学シフトは、予想以上に低磁場側に現れますが、これは、外部磁場B0が、芳香環上のπ電子の円運動を誘起し、これが外部磁場B0と逆向きの誘起磁場Biを発生させるからです。水素が結合している芳香環の外側では、誘起磁場Biは、外部磁場B0を強めるように作用します。それ故に、芳香環プロトンは、低い磁場でも共鳴が起こるのです。「芳香環プロトン」の化学シフトδ=6.5〜8.5は、非常に重要な値であり、この範囲にシグナルがあれば、一般的に芳香環に結合した水素が存在すると判断することができます。
図.8 「芳香環プロトン」の非遮蔽化現象
(5) ピーク面積
スペクトル中のシグナルの相対的な強度を測定することにより、特定のシグナルを与える水素の数を推定することもできます。すなわち、各シグナルの「ピーク面積(peak area)」は、そのピークに属している「プロトンの数」に正比例するのです。市販のNMR装置には、すべて電子式積算計が付属しており、その計算によって、ピーク上に「積分曲線(integration line)」が印刷されます。この曲線の垂直部分の高さの比率が、ちょうどピーク面積の比率になります。例として、次の図.9に、4,4-ジメチル-2-ペンタノンの1H NMRスペクトルを示します。
図.9 4,4-ジメチル-2-ペンタノンの1H NMRスペクトル
4,4-ジメチル-2-ペンタノンには、合計14個の水素がありますが、その水素は、電子的環境から見ると、たったの3種類しかありません。すなわち、メチル基(-CH3)の3個の水素とメチレン基(-CH2-)の2個の水素は、それぞれ化学的にも分光学的にも等価であり、tert -ブチル基(-C(CH3)3)の9個の水素もまた、化学的にも分光学的にも等価であるということです。よって、4,4-ジメチル-2-ペンタノンには、3本のシグナルがあり、その積分の比率は、9:3:2であることを示しています。化学シフトの位置(δ値)に加えて、各シグナルの積分値(水素の数)を加えれば、単純な化合物のシグナルの帰属は容易になります。しかし、ほとんどの場合で、これだけではシグナルの帰属が困難である場合が多いのです。これからもう一歩進んで、「スピン-スピン結合」を考慮しましょう。
(6) スピン-スピン結合
NMR分光法の有用性は、単純に有機化合物中の水素を検出できるというだけではありません。これまで述べてきたように、NMR分光法によれば、分子中の異なる種類の水素の数を決定することができ、それらの水素が占める化学的環境の概略を知ることができます。しかしながら、さらに多くの情報をNMRから得る方法があるのです。
ほとんどの1H NMRスペクトルは、現実には、図.9のように単純ではありません。一般的に1H NMRスペクトルでは、すべての水素が1本線の「シグナル(s:singlet)」であるとは限らず、複雑なピークとなって現れることが多いのです。ヨウ化エチルCH3CH2Iは、この好例です。まず予想できることは、スペクトルは、メチル基(-CH3)の3個の等価な水素とメチレン基(-CH2-)の2個の等価な水素による、たった2本のシグナルからなるだろうということです。さらに、表.1を参照すれば、各ピークがだいたいどの位置に現れるか推測できます。しかし、実際のスペクトルは、予想とはかなり異なります。予想した位置にシグナルはあるものの、それらはいくつかの線からできていて、図.9のように、すべてのシグナルが「シングレット」であるのとは違います。
図.10 ヨウ化エチルCH3CH2Iの1H NMRスペクトル
メチル水素(-CH3)のシグナルは、δ=1.85に中心を持つ1:2:1の強度比の3本線で現れ、メチレン水素(-CH2-)は、δ=3.2を中心とする1:3:3:1の強度比の4本線で現れています。各線の間隔はすべて等しく、その値は7.6 Hzです。何本かの線に分裂したシグナルは、「ダブレット(d:doublet)」・「トリプレット(t:triplet)」・「カルテット(q:quartet)」などと表されます。なぜこのような分裂が生じるのでしょうか?また、私たち化学者は、分裂の情報をどのように利用できるのでしょうか?
表.3 ピークの形と分裂本数
まず、ヨウ化エチルCH3CH2Iのメチル水素(-CH3)の「トリプレット」を調べてみましょう。そのためには、まず隣のメチレン水素(-CH2-)に着目します。メチレン基(-CH2-)の2個の等価な水素は、それぞれ「α」または「β」のスピンを持っています。そこで、これらスピンの異なる組み合わせが、4組できます。すなわち、(α,α)・(α,β)・(β,α)・(β,β)の4通りです。メチル水素(-CH3)が感じる正味の磁場は、この組み合わせごとに多少変化します。したがって、メチル水素(-CH3)は、隣のメチレン水素(-CH2-)のスピンの組み合わせに応じて変化した外部磁場を、正味の磁場として感じるのです。そうすると、4組のスピンの組み合わせに対応して、4本線が見えそうに思えます。しかし、(α,β)と(β,α)の組み合わせは等価であり、同等の正味の磁場を生むので、結果として、1:2:1の比率の3本線(α,α):(α,β)+(β,α):(β,β)からなるメチル水素シグナルが現れるのです。このとき、メチル水素(-CH3)は、隣のメチレン水素(-CH2-)と「スピン-スピン結合(spin-spin coupling)」しているといいます。線の間隔は、「結合定数(coupling constant:記号Jで示す)」と呼ばれ、「Hz」の単位で測られます。ヨウ化エチルCH3CH2Iの場合、この間隔はJ=7.6 Hzです。
図.11 ヨウ化エチルCH3CH2Iのメチル水素(-CH3)のシグナル
今度は、ヨウ化エチルCH3CH2Iのメチレン水素(-CH2-)の「カルテット」を解釈してみましょう。隣のメチル基(-CH3)には、3個の等価な水素の核スピンについて、(α,α,α)・(α,α,β)・(α,β,α)・(β,α,α)・(α,β,β)・(β,α,β)・(β,β,α)・(β,β,β)の8通りの組み合わせがあります。しかしながら、そのうち3個のスピンの組み合わせが等価なものが、2組(α,α,β)・(α,β,α)・(β,α,α)および(α,β,β)・(β,α,β)・(β,β,α)あります。したがって、メチレン水素(-CH2-)は、隣のメチル水素(-CH3)の異なる4通りの組み合わせによって変化した磁場に置かれることになり、そのスペクトルは、1:3:3:1の比率の四本線(α,α,α):(α,α,β)+(α,β,α)+(β,α,α):(α,β,β)+(β,α,β)+(β,β,α):(β,β,β)となるのです。メチレン水素(-CH2-)は、メチル水素(-CH3)がメチレン水素(-CH2-)にスピン結合しているのと同一の結合定数J=7.6 Hzを持ち、メチル水素(-CH3)とスピン結合しています。
図.12 ヨウ化エチルCH3CH2Iのメチレン水素(-CH2-)のシグナル
1個の水素のシグナルの分裂は、隣接している水素によって引き起こされ、分裂したシグナルの数は、これらの水素の数によって決定されます。つまり、隣接する1個の水素は、「ダブレット」を生じさせ、隣接する2個の等しくスピン結合している水素は、「トリプレット」を生じさせるのです。隣接する炭素に「n個」の等価な水素がある場合、それらの水素は、「n+1本」のシグナルを生じさせ、その線の間隔はJ Hzとなります。これは、一般的に「n+1の規則」として知られています。
各線の強度比は、スピン結合の相手水素の可能なスピンの組み合わせを解析することにより決定できます。あるいは、次の図.13のような「パスカルの三角形(Pascal's triangle)」を使っても導出できます。この手順では、各数字はすぐ上の2つの数字の和になっており、横一列の数字が、各線の強度比を表すようになります。パスカルの三角形を使えば、NMRシグナルの線の強度比が直ちに分かるのです。ただし、ここで求められるのは、ある1つのシグナルの中での分裂した線の相対的強度であって、分子内の別の水素のシグナル強度ではないことに注意が必要です。
図.13 「パスカルの三角形」を使えば、各線の強度比が求められる
・参考文献
1) H.ハート/L.E.クレーン/D.J.ハート 共著「ハート基礎有機化学」培風館(1986年発行)
2) メートランド・ジョーンズ「ジョーンズ有機化学(上)」東京化学同人(2000年発行)
3) シルバーシュタイン/ウェブスター/キームル 共著「有機化合物のスペクトルによる同定法-MS, IR, NMR, UVの併用-」東京化学同人(2006年発行)
4) 山田道夫「核磁気共鳴法と質量分析法の基礎:有機化合物の種類・構造をどのように調べるか?」化学と教育70巻4号(2022年)