・サリドマイドの科学


【目次】

(1) 史上最大の薬害事件

(2) それでもサリドマイド製剤を販売し続けた日本

(3) サリドマドの化学

(4) サリドマイドの復活


(1) 史上最大の薬害事件

 人気の薬であればあるほど、もしその薬の悪影響が表面化したときの社会的被害は、甚大なものになります。本来、人間の健康を守るはずの薬が、逆に健康を損ない、あるいは死に至らしめる――まさに「公害」ともいえる規模になります。そうした薬による公害は、「薬害」と呼ばれています。そして、それが世界的規模で問題となったのが、約半世紀前に起こった「サリドマイド」の薬害事件です。

 サリドマイドを開発したのは、ドイツの製薬会社であるグリュネンタール社です。サリドマイド製剤は、1957年に西ドイツで睡眠薬「コンテルガン」として世界に向けて売り出され、胃腸薬としても有効なことから、妊婦がつわり防止や眠れないときに使っていました。元々この化合物は、合成実験の際に用いる試薬の「副産物」として、偶然にできたものでした。薬品としての効果は良好で、即効性があり、麻酔のようにクラクラする感じも、皮膚の痒みなどもありません。それまでの睡眠薬は、連用により危険を伴う「副作用」が出現するのに対し、サリドマイドにはそういった副作用がなく、気軽に使える新薬として、「妊婦や小児でも安心して飲める安全無害な薬」と宣伝されました。サリドマイドは、致死量が決定できないくらい「急性毒性」が低かったため、睡眠薬による自殺も防止できるともてはやされ、世界46カ国で発売されました。

日本では、大日本製薬(現在の大日本住友製薬)が、薬学雑誌に掲載されたグリュネンタール社の論文に着想を得て、独自の製法を用いて合成を行い、製法特許を出願しました。そして、わずか1年足らずで、厚生省の承認を得て、1958年から睡眠薬「イソミン」として発売しています。大日本製薬以外にも、国内では10社を超える製薬会社がサリドマイドを販売していましたが、そのシェアの9割以上は、大日本製薬のイソミンが占めていました。

 

.1  「イソミン」は、気軽に使える新薬として、「夢の睡眠薬」や「クセにならない安全な睡眠薬」として宣伝された

 

 しかし、やがてサリドマイドを服用した妊婦に、新生児が発育不全で、手足が欠損したまま産まれてくるなどの異常が相次ぎました。サリドマイドには、あらゆる動物の胎児ばかりか、植物の胚にまで奇形を生じさせるほどの強い「催奇性」があったのですが、妊娠中の動物を使った実験は行われていなかったのです。サリドマイドを服用すると、母体の中にいる胎児の手足の成長を促す一連のタンパク質の機能が阻害され、腕があっても短い、あるいは小さな手が肩甲骨から直接出ているというような、重度の「奇形児」が産まれてしまうようになります。この奇形は、手足がアザラシの肢のようになることから、「アザラシ肢症」といわれます。この病気になった新生児の多くは、指の付け根の筋肉が未発達で、隣の指と結合していたり、手足が内側に反っていたりしました。さらに、サリドマイド症児には、難聴や外耳奇形、心臓や消化器の配置異常が生じていました。当時は、このような世代を超えた副作用があり得るという認識が薄かったため、サリドマイドの薬害は全世界に及びました。

 

屋外, 人, 木, 地面 が含まれている画像

非常に高い精度で生成された説明

.2  サリドマイドが原因で、胎児に奇形が生じる病気を「サリドマイド胎芽病」という

 

 こうした異常とサリドマイドとの因果関係を調査した西ドイツの小児科医であるウィドゥキント・レンツは、19611115日、サリドマイドに胎児の奇形を誘発する「催奇性」がある可能性を発表します。ただし、レンツは「アザラシ肢症」と「サリドマイド」との因果関係を、完全に解明した訳ではありませんでした。医学的な根拠はありませんでしたが、自然界ではほとんど見られないアザラシ肢症が多発していること、母親からの聞き取り調査などから、サリドマイドと何らかの関係があるに違いないと推測したのです。これは、世に「レンツ警告」といわれます。

レンツは、グリュネンタール社に対して、科学的な証明を待つのではなく、無関係であることが証明できるまで、薬を回収すべきと主張しました。すなわち、サリドマイドが「白」の場合は、その被害は主に「経済的コスト」だけで済みます。しかし、サリドマイドが「黒」の場合には、その被害は「経済的コスト」どころか、「人的被害」が重くのしかかるのです。「病因物質の究明」は、必ずしもその対策の十分条件にはならず、大切なことは、「その原因だと思われる物質を摂取しないこと」であるということに、レンツは気が付いていたのです。このレンツの考えは、薬害を未然に防ぐ上で、重要な指針となるものです。

レンツの仮説に反対する研究者も多かったのですが、レンツ警告が新聞で報道されると、西ドイツ政府はすぐに動き出しました。レンツ警告から2週間後には、グリュネンタール社は、西ドイツ市場からサリドマイドを回収することにしたのです。イギリスやスウェーデンなどの欧州諸国も、西ドイツの対応を知ると、直ちに販売を停止し、製品の回収を行いました。欧州では、グリュネンタール社の素早い対応によって、少なくともその後の被害発生を未然に防ぐことはできたのです。

 

(2) それでもサリドマイド製剤を販売し続けた日本

しかし、日本では、西ドイツに派遣された大日本製薬の調査官が、「レンツ警告には科学的根拠がない」、「有用な薬品を回収すれば社会不安を引き起こす」などと判断したことから、製造・販売の継続を決定。それどころか、厚生省はレンツ警告のあとに、新たなサリドマイド製剤を2剤も認可しています。大日本製薬と厚生省は、グリュネンタール社からの警告も無視して、サリドマイドの危険性を医師や薬局に連絡せず、薬害との因果関係を隠蔽しました。そのため、日本ではレンツ警告後に適切な処置がなされず、サリドマイドの被害を拡大することになります。何も知らない一般の妊婦は、サリドマイドを「安全な薬剤」と信じて飲み続けました。

1962517日、朝日新聞が夕刊でサリドマイド事件について、日本で初めて特ダネ報道を行いました。その記事は、「サリドマイドが奇形児出産の可能性があるため、西ドイツでは販売が停止された」というボン支局からの報告でした。この報道をきっかけに、日本のジャーナリズムが一斉に動き出し、大日本製薬の宮部徳次郎社長は、「サリドマイドが奇形児を出産するという学問的な裏付けはないが、サリドマイドの製造を自主的に中止する」と発表しました。大日本製薬は新聞紙上に意見広告を出し、「西ドイツでは奇形児の報告があるが、日本ではそのような事実はない」、「そのような副作用がサリドマイドにあるかどうかは現在動物実験を依頼しており、その結果を待っているところだ」、「取り敢えず妊娠中の服用は避けて欲しい」などと述べました。この時点で、大日本製薬はサリドマイドの製造を中止しましたが、市場から製剤の回収はしていません。回収をしなかったため、市場ではサリドマイドの在庫が一掃されるまで、販売体制が取られました。当時、製薬会社のドル箱になっていたサリドマイドを販売停止にせず、とにかく売りまくろうという企業側の営利主義が、被害を拡大させました。

この日の朝日新聞の記事に、厚生省製薬課長は、「学問的根拠はないが、大日本製薬の措置に深く敬意を表したい」との談話を発表しています。一度承認した薬を、たやすく引っ込めることはできないという厚生省の矜持です。また、新聞の続報には、医学や薬学の専門家たちが続々と登場し、「サリドマイドを妊娠中に使用しても問題ない」というコメントを述べ、安全性が強調されました。日赤産院長の三谷茂や産婦人科学会の森山豊は、「サリドマイドは引き金かもしれないが主たる原因ではない」と述べ、大阪大学の杉山博は、「レンツ警告は間違いである」と強調しました。

しかし、日本小児学会などで、「アザラシ肢症」が次々と報告され始めると、大日本製薬は、「奇形」との因果関係を否定しながらも、1962913日にサリドマイドの販売停止と回収を発表します。動物実験の結果を待っている場合ではありませんでした。このときすでに、レンツ警告が出てから、1年近くの歳月が経過していました。西ドイツがサリドマイドの販売を停止した時点で、日本でもサリドマイドを回収していれば、日本のサリドマイド被害者の半数以上は救えたとされています。日本におけるサリドマイド症児は、推定約1,200人といわれ、世界全体では約7,000人です。もちろん、病院で処方されたサリドマイドだけでなく、薬局で市販されているサリドマイドの服用によって生じた奇形児も多くいました。薬局で市販されていたサリドマイドについては、患者の母親が服用した事実を証明することができず、また因果関係を認められなかった軽症例が多数いたとされています。さらに、サリドマイド症児の大半が胎児期に死亡し、死産となったので、実際には統計の数倍以上の被害だったとされています。

1963年には、サリドマイド症児の家族が、厚生省と大日本製薬を相手にして、損害賠償を求める民事訴訟を起こしています。この訴訟事件は、日本初の「薬害訴訟」として、大きく世間に注目されました。厚生省と大日本製薬は、安全性の確認とレンツ警告の対応に落ち度があったことを認め、和解が成立。さらに、厚生省の薬事審議会が、サリドマイド製剤の承認を、わずか1時間半の審議で決定していたことが暴露されました。また、製薬会社は、「サリドマイドはすでに欧米で発売され、安全で効果的な薬剤」と強調していましたが、日本で承認された時点では、サリドマイドはまだ世界で発売されていませんでした。日本の新薬の承認が、いかにいい加減であったのかが想像できます。人間の命や健康を守るべき厚生省が、利潤追求の企業の論理に加担したといわれても、反論できないでしょう。1972年までに、サリドマイド症児として309人が認定され、1人当たり2,800万〜4,000万円の賠償金の支払いがなされました。

 

(3) サリドマイドの化学

 この「副作用」を生み出したのは、サリドマイドの「鏡像異性体」という特性でした。これは、よく「右手」と「左手」の関係にたとえられます。「右手」と「左手」は、それぞれ重ね合わせることのできない違う手ですが、鏡に映してみると、「右手」は「左手」に、「左手」は「右手」に見えます。こうした関係性にあるものが「鏡像異性体」であり、原子間の結合順序は変わらないものの、空間的に対称的な構造を持ちます。両者の構造は非常に似ていますが、生体にとっては、この2つは全くの別物なのです。市販されていたサリドマイドは、この「右手」に当たる「S 体」と「左手」に当たる「R 体」が、11に混合した「ラセミ混合物」になっていました(基礎有機化学を参照)

 サリドマイドのうち、「R 体」は鎮静・催眠作用を持っていましたが、「S 体」の方に非常に強い催奇性があることが、その後の研究で判明しました。サリドマイドが示す副作用の原因は、「セレブロン(CRBN)」と呼ばれるタンパク質であり、サリドマイドがCRBNに結合することで、催奇形性を発現することが分かっています。この際、「S 体」のサリドマイドは「R 体」よりも10倍ほど強くCRBNと結合します。サリドマイドが開発された当時は、鏡像異性体の重要性が認識されておらず、このような薬害事件を引き起こしてしまいました。

 

.3  サリドマイドの「R 体」が薬として理想的な一方で、「S 体」には強い催奇性がある

 

 現在の技術では、「R体」と「S 体」の分離、および一方のみを選択的に合成するということも可能です。もし純粋な「R体」のみが使用されていれば、このような薬害事件は起きなかったかもしれません。しかし、たとえ催奇性のない「R 体」だけを投与しても、直ちに体内で半数が「S 体」に変化し、ラセミ化してしまうという報告もあり、たとえ「R 体」だけを分離して服用したとしても、サリドマイドの危険を完全に避けることはできません。このサリドマイド事件の教訓から、新薬の審査基準に、動物実験で胎児への影響がないか確認すること、またラセミ体の薬の場合は「R体」と「S 体」の両方の性質をきちんと調べることなどが、法律で義務付けられるようになりました。

 

(4) サリドマイドの復活

 サリドマイドは、「悪魔の薬」という非難を世界中から受け、表舞台から消えていたのですが、1964年に驚くべき発見がありました。イスラエルの医師であるヤコブ・シェスキンが、「ハンセン病」の苦痛で憔悴しきった患者に、最後の手段として「サリドマイド」を投与したのです。すると、患者を苦しめていた激痛はたちまち消え去り、患者の多くが発症する難治性の皮膚炎にも、劇的な改善が見られたのです。この発見はたちまち世界中に伝わり、多くの患者を死の淵から救い出しました。この発見により、世界中のハンセン病療養所の9割が必要なくなって、閉鎖されたといいますから、その効用の素晴らしさが分かるでしょう。

 

.4  「ハンセン病」は、らい菌による慢性感染症で、主に皮膚と末梢神経に病変が生じる

 

 とはいえ、サリドマイドはごく一部の例外を除いて、製造は禁止されていたため、すべての患者には到底行き渡りません。このため、無許可で合成されたサリドマイドが闇市場で出回り、流通経路不明のサリドマイドが高値で取引されるという、新たな問題が発生しました。管理もなしに、危険なサリドマイドが流通するという危険を防ぐため、1998年にアメリカ食品医薬品局(FDA)の諮問委員会は、ハンセン病の治療薬として、サリドマイドの販売を「制限付き」で承認したのです。サリドマイドを承認薬にしておけば、サリドマイドを適応外使用として、患者に処方することができるという訳です。しかし、一度消えた医薬品が再承認されるのは極めて異例であり、まして「悪魔の薬」として糾弾されたサリドマイドの復活は、様々な議論を巻き起こしました。このため、使用制限は厳しいもので、「指定された医師のみが用いること」、「女性患者には信頼性の高い避妊法を2種類実施し、妊娠していないことを文章で証明すること」、「治療期間を通して妊娠検査をすること」などが義務付けられています。

 その他にも、サリドマイドは、数々の難病の特効薬として、再び脚光を浴びつつあります。自分の免疫が自分の体を攻撃してしまう「自己免疫疾患」には、難病が多いのですが、このうち「ベーチェット症候群」、「関節リウマチ」、「クローン病」、「全身性エリテマトーデス」などに適用が試みられています。また、試験管内での実験では、「エイズウイルス」の成長を阻害する働きも認められたといい、新たな治療薬として注目が集まっています。

 胎児に奇形を引き起こさせた性質を利用して、なんとサリドマイドを「ガンの治療薬」に使おうという研究もされています。サリドマイド分子の一部は、DNA(デオキシリボ核酸)を構成する核酸塩基の一種である「グアニン」とよく似ています。グアニンと類似構造を持つサリドマイドは、DNAの二重鎖の中に滑り込み、手足の成長を促す一連のタンパク質の機能を阻害します。その結果、胎児の手足の血管が新しく作られる「血管新生作用」が抑制されることになるのです。胎児に腕や脚ができる段階で血管が新しく作られないと、その部分に栄養が十分に行き渡らなくなり、手足が正常に成長できなくなります。これが、「アザラシ肢症」の原因と考えられているのです。

 

.5  サリドマイド分子の一部は、核酸塩基の一種である「グアニン」と非常によく似ている

 

 ガン細胞は急速に細胞分裂をするため、盛んに血管を作って、たくさんの養分を引いてこようとします。ここをサリドマイドで叩いて、血管新生を防いでやれば、栄養補給ができなくなって、ガン細胞が増殖できなくなります。いわば、ガン細胞に対して「兵糧攻め」を行う訳です。普通の健康な成人の体内では、血管新生はほとんど起こっていないため、サリドマイドはガン細胞の増殖だけを抑える、副作用の少ない抗ガン剤になります。アメリカでは、2006年に「多発性骨髄腫」と呼ばれるガンの一種の治療薬として、承認がなされました。2008年には、日本でも「再発または難治性の多発性骨髄腫」の治療薬として、藤本製薬の「サレドカプセル100」が再承認されています。

 ただ、サリドマイドの「催奇性」のリスクはなくなった訳ではなく、これらの薬を使用できる人や、症状は限られています。ブラジルでは、文字の読めない貧困層にハンセン病が蔓延しており、そのため政府がサリドマイドを製造して、無料で患者に配布しています。このパッケージには、「妊婦の服用を禁止するマーク」が入れられているのですが、これがかえって仇となり、なんとサリドマイドは「妊娠中絶薬」と誤解されてしまったのです。こうして、誤ってサリドマイドを服用した妊婦から、奇形児が産まれるという悲劇が、現代でも起き続けています。とはいえ、サリドマイドを必要とする難病の患者がいるのも事実であり、多くの人命を救う可能性を携え、サリドマイドは再び薬の世界へと戻って来たのです。


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・参考文献

1) 佐藤健太郎「化学物質はなぜ嫌われるのか」技術評論社(2008年発行)

2) 佐藤健太郎『「ゼロリスク社会」の罠』光文社(2012年発行)

3) 鈴木勉「毒と薬【すべての毒は「薬」になる!?】」新星出版社(2015年発行)

4) 濱島義隆/山下賢二「鏡の中のくすり」化学と教育705(2022)

5) 深井良祐「なぜ、あなたの薬は効かないのか?」光文社(2014年発行)

6) 船山信次「こわくない有機化合物超入門」技術評論社(2014年発行)

7) 船山信次「毒の科学-毒と人間のかかわり-」ナツメ社(2013年発行)

8) 山崎幹夫「面白いほどよくわかる 毒と薬」日本文社(2004年発行)