・酸素を含む芳香族化合物


(1)フェノール類

ベンゼン環の水素原子Hをヒドロキシ基(-OH)で置換した形の化合物を、フェノール類(phenols)といいます。フェノール類のうち、最も単純なものは、フェノールです。また、複数のヒドロキシ基を有するものは、ポリフェノールと呼ばれます。例として、次の図.1に様々なフェノール類を示します。

ポリフェノールの中でも有名なのが、赤ワインに含まれるレスベラトロールです。1992年、フランスのボルドー大学の研究グループが、赤ワインと動脈硬化の関係を明らかにしたのです。動脈硬化は、血中の悪玉コレステロールが増えたり、酸化したりすると起こりやすいです。ところが、フランス人は他の欧米諸国よりも相対的に喫煙率が高く、飽和脂肪酸が豊富に含まれる食事を摂取しているのにも関わらず、動脈硬化になる人が他国に比べて少ないのです。この「フレンチパラドックス」を解く鍵として、フランス人が愛飲する赤ワインに白羽の矢が立ちました。赤ワインに含まれるレスベラトロールに、悪玉コレステロールの酸化を防ぐ抗酸化作用があることが、各種の実験によって確かめられたのです。

さらに、レスベラトロールには寿命延長作用があるとの研究が、酵母、線虫、ハエ、魚類で報告され、2006年には、科学雑誌「Nature」でマウスの寿命を延長させるとの効果が発表され、種を超えた寿命延長作用として、大きな注目を集めました。動物実験によると、1日に赤ワイン300杯分のレスベラトロールの投与で、マウスの寿命が30%前後延長されたそうです。高カロリー食を与えられたマウスは、一般に糖尿病や脂肪肝になりやすいのですが、レスベラトロールを投与されたマウスは、これらの症状が抑えられ、太ったままに長生きしたといいます。

レスベラトロールは、「長生き遺伝子」ともいわれるサーチュイン遺伝子を活性化すると考えられています。摂取カロリーを通常の7割程度に抑えると、サーチュイン遺伝子が活性化して、長生きになることが分かっています。酵母のような微生物からサルなどの高等生物に至るまでの生物が、この方法によって生存期間が延長することが、様々な実験によって確認されているのです。これは、低カロリー状態に置かれると、サーチュイン遺伝子が活性化して、様々な遺伝的な調整を行い、DNAの活動を抑制するためだと考えられています。これが結果的にDNAの損傷防止につながり、DNAの損傷防止は直接的に長寿につながるのです。

 

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.1  様々なフェノール類

 

フェノール類は、構造上ヒドロキシ基を有するという点で、アルコールと類似しています。しかし、置換している基が、脂肪族炭化水素ではなく芳香族炭化水素であるため、フェノール類はアルコールとは異なる性質を示し、フェノール類は通常アルコールには分類されません。

例えば、フェノール類のヒドロキシ基は、アルコールとは異なり、水溶液中でわずかに電離して、弱酸性を示します。なお、フェノール(pKa=10)の酸性度はアルコール(pKa=1517)より強いですが、炭酸(pKa=6.4)やカルボン酸(pKa=35)より弱いです。

 

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.2  フェノールは共鳴安定化したフェノキシドイオンを生じる

 

フェノールがアルコールよりも強い酸である主な理由は、共役塩基であるフェノキシドイオンが、共鳴によって安定化できるからです。すなわち、アルコールでは、負電荷が酸素原子上に局在化するのに対して、フェノールでは、フェノキシドイオンの負電荷は共鳴によって、o位とp位に非局在化できるのです。それ故に、その生成はアルコキシドイオンの生成に比べて、はるかに有利です。その結果として、フェノールはアルコールより、105倍以上強い酸になるのです。

そのため、一般的にアルコールを水酸化ナトリウムNaOHで処理しても反応しませんが、フェノールは水酸化ナトリウムNaOHと中和反応をして、フェノキシドイオンを生成できます。

 

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.3  フェノールと水酸化ナトリウムNaOHの反応

 

また、フェノールは、ナトリウムNaなどイオン化傾向の大きい金属の単体とも反応して、フェノキシドイオンを生成し、同時に水素H2を発生させます。なお、この反応は水素H2が抜けて不可逆的に進行するため、アルコールでも起こります(アルコールを参照)

 

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.4  フェノールとナトリウムNaの反応

 

フェノール(pKa=10)は炭酸(pKa=6.4)よりも弱い酸なので、ナトリウムフェノキシドの水溶液に二酸化炭素CO2を通じると、白色のフェノールが遊離してきます。この反応は、分析化学において非常に重要であり、これを逆に言えば、フェノールは炭酸水素ナトリウムNaHCO3と反応することができないということです。

 

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.5  フェノールの遊離

 

(2)フェノール類の反応

(i)塩化鉄(III)との反応

フェノール類に塩化鉄(III) FeCl3を反応させると、鉄(III)イオンFe3+ にフェノール性ヒドロキシ基が配位して錯体を形成し、紫系に呈色します。フェノール類の構造の違いで、呈色は青色や青紫色、紫色、赤紫色など差はありますが、フェノール類でなければ呈色しません。この反応は、フェノール性ヒドロキシ基を持つ化合物の、簡易的な検出法として広く知られています。

 

6C6H5OH + FeCl3 → 3H+ + [Fe(OC6H5)6]3- + 3HCl

 

.1  フェノール類と塩化鉄(III)水溶液の反応

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(ii)臭素との反応

フェノール性ヒドロキシ基はオルト-パラ配向性であり、ベンゼン環の反応を活性化させる置換基なので、フェノールの溶液に臭素Br2水を加えると、室温で速やかに反応して、2,4,6-トリブロモフェノールの白色沈殿が生じます。

 

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.6  フェノールのブロモ化

(iii)酸無水物との反応

フェノール類はアルコールと同じように酸無水物と反応し、カルボン酸エステルを生じます。例えば、次の図.7のようにフェノールは無水酢酸(CH3CO)2Oと反応して、酢酸フェニルを生じます。

 

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.7  フェノールのアセチル化

 

(3)フェノールの合成

フェノールは、1834年にフリードリッヒ・ルンゲによって、石炭タール中に発見されました。しかし、純粋に取り出されたのは、それから7年も後のことです。別名であるドイツ語の「カルボル・ゾイレ」や日本語の「石炭酸」は、石炭に由来して付けられた名前であり、初めはカルボン酸と同じような酸であると考えられていました。これを「フェノール」と命名し直したのは、後にアセチルサリチル酸を合成するフランスの化学者シャルル・フレデリック・ジェラールでした。

フェノールは、室温では白色結晶であり、融解すると無色になります(m.p.41, b.p.182)。水とは互いにほとんど溶け合わずに2層に分かれ、65℃以上では任意の割合で混合するようになります。フェノールには、毒性および腐食性があり、皮膚に触れると薬傷を引き起こします。筆者は、フェノールで手の皮膚を化学損傷したことがありますが、最初は皮膚が真っ白になり、数時間後には真っ黒に変色しました。皮膚科に行くと、フェノールの化学損傷が物珍しいのか、何人かの先生が集まって、治療よりも先に写真を撮り始めてしまいました。記念撮影でしょうか。そして、いざ治療が始まると、治療は自然治癒以外にないようで、1週間ほどで痛みも消え、1年も経つと傷跡も消えました。フェノールの取り扱いには、十分に注意してください。

フェノールは、有機合成化学工業において重要な原料であり、フェノールの2008年度の日本国内生産量は、約70tにもなります。フェノールは、フェノール樹脂に代表されるプラスチックの他、医薬品や染料など、各種化学製品の原料として広く用いられています。

また、フェノールそのものも、希釈して消毒剤などに利用されます。手術室にフェノールを噴霧し、傷口を薄めたフェノール液で洗う方法を考案したのは、イギリスのグラスゴー大学医学部の外科教授であるジョゼフ・リスターでした。当時、外科手術の際に傷口が化膿して発熱することが多く、これは「手術熱」といわれて、19世紀の外科医たちを悩ませました。四肢を切断した患者の死亡率が80%に達した病院さえ存在したし、ちょっとした虫唾炎の手術でさえ、命取りになることは少なくありませんでした。外科医であるリスターは、数多くの骨折患者を診てきましたが、単純な骨折なら固定さえしておけば自然に治癒するのに対し、骨が皮膚を突き破った「開放骨折」では、患者が感染症にかかるケースが多いことを知っていました。当時は、むき出しになった組織が、空気中の酸素O2により害を受けるのではないかと考えられていました。つまり、酸素O2が傷口の有機物を分解し、膿ができると考えられていたのです。そのため、リスターの時代には、酸素O2を遮断するため、傷口に包帯をきつく巻き付けるのが一般的な処置でした。ところが実際には、包帯を巻くと細菌の増殖が助長され、耐えがたい悪臭が病棟に広がりました。多くの医師が、この悪臭こそが感染症の原因であり、外科手術後の患者の死亡率が高いのも、そのせいだと信じ込んでいました。その悪臭を消して問題を解決しようという医師は、ほとんどいなかったのです。

やがて、進展が訪れました。イギリスの化学者であるトマス・アンダーソンが、フランスの細菌学者であるルイ・パスツールの学説を、リスターに伝えたのです。パスツールは、空気中に放置した肉汁がすぐに腐ってしまうのに対し、加熱した後に微生物が入らないように保てば、肉汁は腐敗しないことを見出したのでした。早速、リスターは実験に取りかかりました。採取したての尿を加熱し、その半分をガラス管に入れて密封し、あとの半分は空気にさらしておきました。翌朝、臭いをかいでみると、空気にさらしておいた方の尿は、激しい悪臭を放っていましたが、ガラス管に密封した方の尿には、悪臭がありませんでした。明らかに、空気中の微生物が、封をしなかった方の尿に侵入したのです。

患者を加熱するのは、実行可能な研究方法ではなかったので、リスターは、化学物質を利用して細菌を殺せないものかと考えました。ある日、リスターは、石炭産業の副産物であるフェノールを下水溝に流すと、酷い悪臭が消えるという新聞記事を発見しました。フェノールで処理された下水が肥料として使われ、その肥料をまいた牧草地の草を食んだウシは、寄生虫などに感染しないことも知っていました。「これだ!」と直感したリスターは、早速アンダーソンから分けてもらったフェノールを、荷車にひかれて骨折し、脛骨がむき出しになった少年の傷口に塗布してみました。すると、少年は合併症を併発することなく、無事に回復しました。そこで、リスターは、傷口を包む包帯や医療器具をフェノールで洗浄し、手術室全体をフェノールで消毒する霧吹きを開発しました。結果はすぐに表れました。外科で切断手術を受けた患者の死亡率が、50%から15%に減少したのです。

けれども、この方法は、初めはなかなか一般に認められませんでした。細菌―当時「小さな獣」と呼ばれた微生物―などという目に見えないものは、決して信じないという医師が多かったからです。しかし、リスターの方法が実際に効果を挙げるにつれて、次第に各国の医師たちの注目を集めるようになりました。細菌学の進展も、これを後押ししました。やがて、リスターはヴィクトリア女王の膿瘍手術に立ち会い、エドワード7世の盲腸手術の執刀医に指名されるまでになります。王立協会の会長にも選出され、医師として初めて男爵位を受けることにもなりました。

フェノールやクレゾールは、手術時の消毒に欠かせぬ重要な役割を果たすようになりました。ぷんと鼻に付くあの独特な病院の臭いは、消毒液として使われたフェノールやクレゾールの臭いだったのです。しかし、刺激が少なく、殺菌効果がより優れた消毒液が色々使われるようになって、あのお馴染みの病院の臭いも消えてしまいました。

 

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.8  フェノールの白色結晶(画像はこちらからお借りしました)

 

(i)芳香族求核置換反応

芳香族化合物の最も一般的な反応は、求電子剤とベンゼン環の水素原子が置き換わる求電子置換反応でした。しかし、置換ベンゼンにおいては、置換基が脱離しやすい基である場合に限り、置換基と求核剤が置き換わる求核置換反応が起こる場合があります。ここで、脱離基の脱離能は塩基性によって決まり、その物質が弱い塩基であるほど、優れた脱離基になります。また、求核剤はその物質の塩基性が強くなるほど、優れた求核剤になります。

したがって、芳香族求核置換反応でフェノールを合成するためには、優れた脱離基を持つ置換ベンゼンに、優れた求核剤である水酸化物イオンを作用させれば良いということになります。次の図.9に置換ベンゼンと水酸化ナトリウムの芳香族求核置換反応を示します。

 

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.9  置換ベンゼンと水酸化ナトリウムNaOHの芳香族求核置換反応

 

スルホ基やクロロ基は、電子求引性が高い置換基であり、これらは優れた脱離基になります。そこで、優れた求核剤である水酸化物イオンOH- を作用させることで、脱離基と求核剤の置換反応が起こり、フェノールが生成するのです。ただし、反応条件は強塩基性なので、フェノールはこの条件では、直ちに中和されてナトリウムフェノキシドになります。最後に希塩酸HClなどでプロトン化すると、弱酸のフェノールが得られます。

ベンゼンスルホン酸ナトリウムの場合は、固体の水酸化ナトリウムNaOHを約300℃に加熱させて、融解状態で反応させます。この操作をアルカリ融解(alkaline resolution)といいます。

また、クロロベンゼンの場合は、揮発性があるので、加熱するだけでなく、約200気圧程度にまで圧力をかけながら反応させる必要があります。

さらに、ジアゾニウム化合物のように、強力な求核剤を必要としない反応もあります。例えば、次の図.10に示すように、塩化ベンゼンジアゾニウムは室温で水H2Oと反応して、フェノールになります。このとき、水分子は求核剤として作用しています。

 

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.10  塩化ベンゼンジアゾニウムの加水分解

 

ジアゾニウムイオンは非常に不安定な化合物であり、水溶液の温度が5℃以上になると、このように窒素N2を切り離して加水分解します。この反応では、求核剤は必ずしも水H2Oである必要はなく、種々の求核剤を用いることで、ジアゾニウムイオンを様々な置換ベンゼンに変換することができます。

 

(ii)クメン法

クメン法(cumene process)とは、クメンを酸化して得られるクメンヒドロペルオキシドを硫酸H2SO4で分解して、アセトンとフェノールに転位させる化学合成法のことです。現在、工業的に生産されるフェノールのほとんどが、このクメン法によります。

まず、ベンゼンとプロペンをフリーデル・クラフツアルキル化反応で置換反応させてクメンを製造し、これを酸素O2で酸化すると、過酸化物であるクメンヒドロペルオキシドが生成します。続いて、クメンヒドロペルオキシドを希硫酸H2SO4で転位させることによって、アセトンとフェノールが生成します。

 

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.11  クメン法

 

(4)フェノール類の合成

(i)ピクリン酸の合成

 フェノール性ヒドロキシ基はオル-ラ配向性なので、フェノールの溶液に希硝酸HNO3を低温で反応させると、o位やp位の水素原子がニトロ基で置換されたニトロフェノールが生成します。また、フェノールの溶液に濃硝酸HNO3と濃硫酸H2SO4の混酸を高温で反応させると、2,4,6-リニトロフェノール(ピクリン酸)が生成します。

クリン酸は爆発性のある黄色結晶であり、ニトロ基の誘起効果により共役塩基が安定化するので、フェノールとは異なり、強酸性(pKa=0.29)を示します。「ピクリン酸」という名称は、この化合物が強い酸性と苦味を持つことに因ります(picro=苦味)ピクリン酸は、かつて日露戦争において、日本海軍の主力爆薬として用いられていましたが、酸性が強く金属と反応しやすいこと、非常に不安定で取り扱いに注意が必要であることなどから、後により安定な2,4,6-トリニトロトルエン(TNT)に取って代わられました。また、ピクリン酸は鮮やかな黄色をしており、皮膚に付着すると黄色に変色することから、実験動物のマーカー(実験動物の各個体を識別するために、耳などに印を付ける)としても使われています。

 

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.12  ピクリン酸の合成

 

フェノール類の検出方法の1つとして、塩化鉄(III) FeCl3による呈色反応が知られています。しかし、ピクリン酸はフェノール性ヒドロキシ基があるにもかかわらず、この反応に対して陰性です。この理由として、ピクリン酸には電子求引性の置換基であるニトロ基がベンゼン環上に3つ存在しており、これらニトロ基が、フェノール性ヒドロキシ基の酸素原子上の非共有電子を求引して、電子密度を減少させるからです。それ故に、ピクリン酸の鉄(III)イオンFe3+ に対する配位力が、非常に弱くなっていることが考えられます。

 

(ii)サリチル酸の合成

ナトリウムフェノキシドの水溶液に二酸化炭素CO2を通じると、弱酸のフェノールが遊離します。しかし、固体のナトリウムフェノキシドに対して、高温高圧で二酸化炭素CO2を反応させると、o位にカルボキシ基が置換したサリチル酸ナトリウムが生成します。その後、生成物を水に溶かし、強酸を加えると、弱酸のサリチル酸が得られます。この反応は、発見者のヘルマン・コルベと、反応条件を見出したルドルフ・シュミットにちなんで、コルベ・シュミット反応(Kolbe-Schmitt reaction)と呼ばれます。

サリチル酸は無色針状の結晶であり、分子中にヒドロキシ基とカルボキシ基の2つの官能基を持っているので、フェノール類とカルボン酸の両方の性質を示します。例えば、サリチル酸は、塩化鉄(III) FeCl3水溶液では、赤紫色を呈します。

 

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.13  コルベ・シュミット反応を用いたサリチル酸の合成

 

サリチル酸に無水酢酸(CH3CO)2Oを作用させると、サリチル酸のヒドロキシ基がアセチル化された、アセチルサリチル酸が生成します。アセチルサリチル酸はアスピリンとも呼ばれ、代表的な解熱鎮痛剤の1つです。アスピリンは、1899年の発売開始以来、長きに渡ってベストセラーの座を守り続けている「医薬の王様」です。その消費量は、500 mg錠剤換算で年間1,000億錠、並べると月まで1往復半近くになるといいますから、その売れ行きの凄まじさが分かります。19世紀以来、ほとんど基本的な部分が変わらないままに売れ続けている商品は、他にほとんどないのではないでしょうか。

アスピリンが1899年にバイエル社によって発売されるまでは、ヤナギ科のセイヨウシロヤナギ(Salix alaba)の樹皮から取れたサリチル酸が、解熱鎮痛剤として用いられていました。この樹皮は、古くから解熱の目的で使用されており、その使用の記録は、紀元前400年まで遡るといいます。古代ギリシアの代表的な医師であるヒポクラテスは、ヤナギの樹皮を熱や痛みを和らげる目的で使用していました。日本でも、虫歯のときにヤナギの樹皮を噛む習慣があったといいます。また、江戸時代では、爪楊枝はヤナギの木で作られ、それで歯を掃除していたといいます。しかし、サリチル酸は比較的強い酸(pKa=2.97)であるために、そのまま服用すると、強い胃腸障害が出るという副作用の問題がありました。

そこで、サリチル酸の酸性を弱めて、副作用を弱くしたものが、アセチルサリチル酸(pKa=3.49)です。アセチルサリチル酸は、サリチル酸と同等の鎮痛効果を示し、そして何よりも安全な薬であったことから、「世紀の薬」として瞬く間に世界中で使われるようになりました。当時、鎮痛薬としてはモルヒネが第一の選択肢、というより唯一の選択肢であった時代ですから、その衝撃の大きさが伺えます。

しかし、アスピリンには、胃粘膜を弱くする副作用がありました。アスピリンを大量に服用すると、胃が痛くなったり、酷いときには胃潰瘍になったりします。2020年には、アスピリンが原因で生じる潰瘍が、消化性潰瘍全体の半数以上の件数に達すると予想されているほど、胃への負担が大きいのです。また最近では、アスピリンと幼児のライ症候群(意識障害を伴う脳疾患)との関連が疑われており、小児には使用しないことになっています。

他方では、アスピリンは、血液中に入ると血小板の凝集を防いで血液を薄くし、脳梗塞などの血管障害を予防する効果があることも明らかになっており、高血圧や軽度の脳梗塞を発症している人の多くが、病院でこの薬を処方されています。さらに、心臓発作を抑える効果も確認されていることから、全体として見れば、アスピリンはマイナス面よりプラス面の方が遥かに勝っているということになります。

 

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.14  アセチルサリチル酸の合成

 

アセチルサリチル酸の鎮痛作用を解明したのは、イギリスの薬理学者であるジョン・ベーンでした。アセチルサリチル酸が鎮痛作用を示す理由は、体内でシクロオキシゲナーゼという酵素の作用を阻害することによって、プロスタグランジン(PG)の合成を抑制するためです。プロスタグランジンは、発熱や痛覚の情報を伝達するオータコイド(ホルモンおよび神経伝達物質以外の生理活性物質)であり、プロスタグランジン自体には発痛作用はありませんが、ヒスタミンやブラジキニンなどの発痛物質による発痛を増強させる作用があるといわれています。このプロスタグランジンの研究の功績により、ジョン・ベーンは1982年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

アセチルサリチル酸は、発痛補助物質であるプロスタグランジンの合成を抑制することにより、人が感じる痛みを和らげているのです。ちなみに、「傷口は見ない方がいい。見ると痛くなる」という話がありますが、プロスタグランジンはある程度精神力でコントロールできる物質なので、あながち間違っている話ではありません。プロスタグランジンは「痛い」と思えば思うほど大量に分泌され、発痛を増強してしまうのです。プロレスラーなどの格闘家は、痛みに対する精神力が非常に強いため、プロスタグランジンの分泌が抑えられ、痛みを感じにくい身体になっていると考えられます。

 

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.15  発痛のしくみ

 

 また、先にアセチルサリチル酸には、副作用として胃粘膜を刺激し、ときに胃潰瘍を発生させる性質があると述べました。実はこの副作用もプロスタグランジンと関係があって、胃の粘膜を保護する作用を持っているプロスタグランジンが、アセチルサリチル酸によって生成されなくなってしまうためです。

一方で、サリチル酸にメタノールCH3OHと濃硫酸H2SO4を作用させると、カルボキシ基がエステル化され、サリチル酸メチルが生成します。サリチル酸メチルは、北米産のシャクナゲ科の植物ガウテリア・プロクムベス(オオウメガソウ)の油(冬緑油)に多く含まれ、古くから盛んに抽出されていました。冬緑油は強い刺激性を持っており、皮膚に擦り込むと吸収されて、炎症を抑える働きを示しました。そこで、冬緑油は打ち身や疲れの回復の盛んに使われました。現在でも、サリチル酸メチルは高濃度では、湿布薬として関節痛・筋肉痛などの鎮痛剤として用いられます。サロンパスの颯爽たる香りは、このサリチル酸メチルの香りです。また、低濃度では、食品添加物としてチューインガムや練り歯磨き粉などの香料として用いられます。

 

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.16  サリチル酸メチルの合成

 

(5)芳香族カルボン酸

ベンゼン環の水素原子をカルボキシ基で置換した化合物を、芳香族カルボン酸(benzoic acid)といいます。芳香族カルボン酸は、一般的には無色の固体で、冷水には溶けにくいです。温水には溶けて、弱酸性を示します。芳香族カルボン酸は、塩基と中和して塩を作り、水によく溶けるようになります。例として、次の図.17に、安息香酸と水酸化ナトリウムNaOHの中和反応を示します。

 

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.17  安息香酸と水酸化ナトリウムNaOHの中和反応

 

芳香族カルボン酸は、染料や医薬品などの原料に用いられます。また、テレフタル酸のように、合成樹脂や合成繊維の原料に用いられるものもあります。例として、次の図.18に、様々な芳香族カルボン酸を示します。

安息香酸は、代表的な芳香族カルボン酸です。「安息香酸」とはいかにも変な名前ですが、これは中世にアラビア人が香料として用いた「安息香」という樹脂を加熱・昇華して初めて得られたことに因ります。安息香にはシャム安息香(黄白色)とスマトラ安息香(赤褐色)とがあって、ともにほのかな良い香りがします。一般的にシャム安息香の方は光沢があり、軟らかくなりやすく、香りも強いです。強く加熱していくと、シャム安息香からは安息香酸の結晶だけが昇華してきますが、スマトラ安息香からは主として桂皮酸が昇華してきます。

この安息香は、昔は香料として使われた他に、去痰薬として内服されたり、殺菌性を利用して洗浄やうがいに使われたりしました。今はもうこの用途ではあまり使われていません。現在では、安息香酸は抗菌・静菌作用があるので、水溶性のナトリウム塩の形で、安息香酸ナトリウムが清涼飲料水などの保存料として添加されています。

 

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.18  様々な芳香族カルボン酸

 

(6)芳香族カルボン酸の合成

芳香族カルボン酸は、ベンゼン環に結合したアルキル基を酸化することによって合成できます。この反応は、ベンゼン環が極めて高い安定性を持つことを、改めて立証しています。すなわち、酸化を受けるのは、アルカンに似たアルキル基であり、ベンゼン環ではないからです。この反応では、酸化剤がベンゼン環に隣接するC-H結合(ベンジル位)を攻撃します。次の図.19に示すように、ベンゼン環に結合したアルキル基は、どんな長さのものでも、最終的に安息香酸になります。

 

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.19  安息香酸の合成

 

トルエンはシンナーの成分であり、かつてシンナーを吸引する若者が多数出現して、大きな社会問題となりました。トルエンは血液脳関門を通過し、中枢神経を麻痺させる作用があることから、大変に危険な物質です。それでは、トルエンとベンゼンでは、どちらの方の毒性がより強いでしょうか。――実は、ベンゼンの方が、トルエンよりも毒性が強いのです。

体内に炭化水素が侵入したとき、人体はそれを除くために、酸化して水溶性物質に変換し、排出しやすくなるように働きます。しかし、ベンゼンの場合は、ベンゼン環が極めて安定なので、酸化されにくく、長時間体内に残存して、重い肝臓障害を引き起こします。ベンゼンを排出するためには、ベンゼン環を酸化する必要がありますが、このとき生成する酸化反応中間体が、有害であると考えられています。一方でトルエンは、側鎖のメチル基(-CH3)が酸化され、安息香酸となって容易に排出され、このときの中間酸化生成物は、ほとんど無害なのです

多環式芳香族炭化水素の中には、極めて強い毒性を持つ物質があります。例えば、ベンゾ[a]ピレンは強い発ガン性を持ち、ハツカネズミの皮膚にごくわずかの量を塗布するだけで、皮膚腫瘍を引き起こします。このような発ガン性炭化水素は、コールタールだけでなく、油煙(すす)やタバコの煙の中、またバーベキューの焼肉の中にも存在するといわれています。これらの悪性の生理的効果が初めて注目されたのは、煙突掃除夫の陰嚢ガン発生の主原因が、煤煙であると指摘された1775年に遡ります。それと同時に、肺ガンや口唇ガンも、ベンゾ[a]ピレンによって引き起こされやすくなることが分かってきました。ベンゾ[a]ピレンは、酵素酸化によりジオールエポキシドに変換されますが、この生成物が細胞のDNAと反応して、変異を引き起こすと考えられています。

なお、ベンゼン環の側鎖のベンジル位にC-H結合が存在しないと、代わりにベンゼン環が酸化されることになります。例えば、次の図.20のように、tert -ブチルベンゼンを中性過マンガン酸カリウムKMnO4で長時間加熱すると、2,2-メチルプロパン酸が生成します。

 

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.20  ベンジル位にC-H結合が存在しないアルキルベンゼンの酸化反応

 

中性過マンガン酸カリウム以外の酸化剤を使用するこのタイプの酸化反応には、工業的に重要なものがあります。例えば、ポリエチレンテレフタレート(PET)の製造に必要な原料物質であるテレフタル酸は、次の図.21に示すように、コバルトCoを酸化触媒とした空気酸化法で合成されています。また、染料や医薬品の合成に有用なフタル酸も、o -キシレンの酸化によって、同様の方法で工業的に製造されています。

 

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.21  テレフタル酸とフタル酸の合成


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・参考文献

1) H.ハート/L.E.クレーン/D.J.ハート 共著「ハート基礎有機化学」培風館(1986年発行)

2) ジョーシュワルツ「シュワルツ博士の化学はこんなに面白い」主婦の友社(2002年発行)

3) 山崎幹夫「新化学読本-化ける、変わるを学ぶ」白日社(2005年発行)

4) 船山信次「こわくない有機化合物超入門」技術評論社(2014年発行)

5) 枝川義邦「身近なクスリの効くしくみ-薬理学はじめの一歩-技術評論社(2010年発行)

6) 矢沢サイエンスオフィス編「薬は体に何をするか-「あの薬」が効くしくみ-技術評論社(2006年発行)

7) 佐藤健太郎「世界史を変えた薬」講談社(2015年発行)

8) 朝日新聞科学グループ編「今さら聞けない科学の常識」講談社(2008年発行)