・アスピリンの科学


(1)アスピリンの歴史

ヤナギの樹皮や葉に「鎮痛作用」があることは、世界各地で経験的に知られていました。その使用の記録は、紀元前400年頃まで遡ります。「医学の父」と呼ばれる古代ギリシアのヒポクラテスは、ヤナギの樹皮を、熱や痛みを和らげる目的で使用していました。また、古代ギリシアの医師であるディオスコリデスは、その著「マテリア・メディカ」に、ヤナギのことを記しています。「ヤナギはよく知られた木で、葉を細かく砕いて、少量のコショウとワインとともに服用すると疝痛に効く。樹皮も同じ。葉や樹皮の搾り汁をバラ香油とともにザクロの木の皮のコップに入れ、温めたものは耳の痛みに効き、煎じたもので温湿布をすると痛風に良い」とあります。今風にいえば、ヤナギを「消炎鎮痛剤」として使用していたのです。

 

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非常に高い精度で生成された説明

.1 古代ギリシアの医師ディオスコリデスは、「薬理学と薬草学の父」といわれている

 

 また、18世紀の初め頃、エドワード・ストンというイギリス人牧師は、「神様のお恵みは、必ず治療に役立つ薬を病気のそばに用意していて下さることだ」という信念を持っていました。ストンは、マラリアに悩む人たちを救うために、精力的にマラリア多発地帯を調査し、遂に1736年、その地方の人たちがマラリアの高熱を抑えるのに使っていた植物を発見しました。彼らは、「サリクス・アルバ」という学名を持つ、ヤナギ科の「セイヨウシロヤナギ」の枝の樹皮を煎じて飲んでいたのです。

 

.2  「セイヨウシロヤナギ」は、葉の裏が白いヤナギ科の植物で、ヨーロッパ全域で広く見られる

 

やがて19世紀になると、このセイヨウシロヤナギの樹皮から、「サリシン」という有効成分が分離され、サリシンを分解すると、「サリチル酸」が得られました。そして、サリチル酸にも、強力な「解熱鎮痛作用」のあることが分かりました。実のところ、ヤナギに含まれるサリシンは、体内でサリチル酸に変化して、効能を発揮していたのです。

日本でも、虫歯のときに「ヤナギの樹皮」を噛む習慣があったといいます。また、江戸時代では、爪楊枝はヤナギの木で作られ、それで歯を掃除していたといいます。そもそも、「楊枝」という言葉自体、ヤナギの別名である「楊柳」に由来するものなのです。日本で現在販売されている爪楊枝は、サリチル酸を含む白樺を材質とするものが多く使われています(余談になりますが、爪楊枝の先端の反対側にある溝は、製造過程で焦げて黒くなってしまうのを誤魔化すために入れられたものです)。ともかく、こういう成分を含有するヤナギの樹皮や葉を、「解熱鎮痛」の目的で使ってきた昔の人の知恵は、大変に素晴らしく、理屈に合っていたことになります。

 

.3  「サリチル酸」には強力な解熱鎮痛作用がある

 

 「サリチル酸」は、バラ科のセイヨウナツユキソウ(学名を「スピラエ・ウルマリア」といいます)にも含まれていることが分かりましたが、この植物も、古くからヨーロッパにおいて「鎮痛薬」として用いられていた生薬の原料でした。この植物から得られたサリチル酸は、当初は植物の学名「スピラエ」にちなんで、「スピラ酸」と呼ばれていました。

初めのうちは、サリチル酸は、スピラエや北米産のシャクナゲ科の植物オオウメガソウの油(冬緑油)などを原料として、天然から抽出されていました。しかし、1859年には、ヘルマン・コルベが、石炭タールから得られたフェノール(石炭酸)のナトリウム塩に、圧力をかけながら二酸化炭素を反応させることによって、容易にサリチル酸を合成する方法を発明しました。この反応は、発見者の「ヘルマン・コルベ」と、反応条件を見出した「ルドルフ・シュミット」にちなんで、「コルベ・シュミット反応」と呼ばれます。これによって、サリチル酸は、天然の材料に頼らなくとも、十分な量の供給が可能になりました。

 

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.4  「コルベ・シュミット反応」を用いたサリチル酸の合成

 

 さて、サリチル酸には、せっかく素晴らしい薬理作用があることが分かったにも関わらず、残念なことに、「副作用」が強いことも分かりました。胃腸や腎臓に激しい障害を与えるので、どうもそのまま内服するには、大きな難点があります。それ故に、その優れた薬理作用を利用して薬にするためには、何とかして「副作用」を軽くする方法を考えなければなりません。こういうことを知った当時の薬理学者たちは、サリチル酸の「誘導体」を合成し、薬としての可能性を試していきました。こうして、1897年にバイエル社の研究員であるフェリックス・ホフマンによって合成されたのが、「アセチルサリチル酸」という化合物でした。ホフマンの父は、サリチル酸を服用するリウマチ患者で、副作用の胃痛と嘔吐で苦しんでいました。ホフマンは、何とかしてサリチル酸の副作用を軽減できないものかと、頭を悩ませていたのです。

 

.5  「アセチルサリチル酸」は、バイエル社の研究員フェリックス・ホフマンによって合成された

 

ある化合物を反応にかけ、例えば「カルボン酸」と「アルコール」とを反応させて「エステル」を作ったりして、化合物の形を変化させます。こうしてできた化合物を「誘導体」といいます。優れた薬理作用を持ちながら、サリチル酸の持つ副作用をずっと軽減することができた「アセチルサリチル酸」は、「サリチル酸」を「無水酢酸」とともに加熱することによって合成されました。ホフマンは、サリチル酸の「酸性の強さ」が胃痛の原因なのではないかと考え、ヒドロキシ基をアセチル化することによって、サリチル酸の酸性を和らげようとしたのです。しかし、薬として認められるよりも早く、この「アセチルサリチル酸」という化合物は、フランスの化学者であるシャルル・ジェラールによって、すでに1853年に合成されていました。このことが、後に起こる「アスピリン戦争」の原因になろうとは、このときは誰も予想していませんでした。

 

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.6  「サリチル酸」に「無水酢酸」を反応させると、「アセチルサリチル酸」が生成する

 

さて、優れた解熱鎮痛薬として合成された「アセチルサリチル酸」は、アセチルの「ア」+「スピラ酸」(サリチル酸の別名)から、1899年にバイエル社が「バイエルのアスピリン」として発売して以来、爆発的な人気を得て、世界的な薬になりました。アスピリンは、サリチル酸と同等の鎮痛効果を示し、そして何よりも安全な薬であったことから、「世紀の薬」として、瞬く間に世界中で使われるようになりました。当時、鎮痛薬としては、「モルヒネ」が第一の選択肢、というより唯一の選択肢であった時代ですから、その衝撃の大きさが伺えます。

アスピリンは、1899年の販売開始以来、一貫してベストセラーの座を守り続けている「医薬の王様」です。製造元であるバイエル社のウェブサイトによれば、その消費量は、500 mg錠剤換算で年間1,000億錠、これを一直線に並べると、月まで1往復半近くになるといいますから、その売れ行きの凄まじさが分かります。さらに1950年には、アスピリンは「世界最大の売上高を誇る鎮痛薬」として、ギネスブックに登録されました。1969年、人類初の月面着陸を果たしたアポロ11号にも、アスピリンが搭載されています。また1999年には、アスピリンは「世界で最も知られた比類なき歴史を持つ医薬品」として、スミソニアン国立アメリカ歴史博物館に殿堂入りしました。19世紀以来、様々な医薬品が開発されてきましたが、ほとんど基本的な部分が変わらないままに売れ続けている医薬品は、この他にはほとんどないのではないでしょうか。

 中でも、アメリカ人は驚くほどのアスピリン好きで、世界で生産されるアスピリンの約30%が、同国で消費されます。アメリカでは、スーパーやコンビニエンスストアで、食品や日用雑貨品とともに販売されているほど、一般的な医薬品なのです。その消費量は、500 mg錠剤換算で年間320億錠、すなわち、乳幼児から老人に至るまで、全国民が年間100錠ほどのアスピリンを飲んでいるという計算になりますから、にわかには信じがたいほどの数字です。

 

(2)アスピリンの謎

 アスピリンの作用としては、「解熱効果」や「鎮痛効果」が挙げられます。アスピリンは、正常体温にはあまり影響せずに、発熱した患者の体温をよく下げます。間脳に働いて、末梢血管の血流を増やし、熱の放散を高めるためだといわれています。つまり、深部の熱を血液に乗せて手足に運び、体外に捨てているのです。水冷式のエンジンやパソコンと同じ仕組みです。風邪を引いているときに、アスピリンを服用すると眠くなることがあるのは、恐らくこの作用のためでしょう。深部体温が低くなると、一般的に睡眠欲求が高まります。

ところで、アスピリンがどのような仕組みで「鎮痛作用」を示すのかは、70年以上もの間不明でした。しかし、1971年にイギリスの薬理学者であるジョン・ベーンが、この謎を解明します。アセチルサリチル酸が「鎮痛作用」を示す理由は、体内で「シクロオキシゲナーゼ(COX)」という酵素の作用を阻害することによって、「プロスタグランジン(PG)の合成を抑制するためです。「プロスタグランジン」は、発熱や痛覚の情報を伝達する「オータコイド(ホルモンおよび神経伝達物質以外の生理活性物質)であり、プロスタグランジン自体には発痛作用はありませんが、「ヒスタミン」や「ブラジキニン」などの発痛物質による発痛を増強させる作用があるといわれています。このプロスタグランジンの研究の功績により、ベーンは「Sir」の称号を与えられ、1982年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

 

.7  「プロスタグランジン」は、発熱や痛覚に関わるオータコイドである

 

アスピリンは、発痛補助物質である「プロスタグランジン」の合成を阻害することにより、人が感じる痛みを和らげているのです。ちなみに、「傷口は見ない方がいい。見ると痛くなる」という話がありますが、プロスタグランジンはある程度精神力でコントロールできる物質なので、あながち間違っている話ではありません。プロスタグランジンは、「痛い」と思えば思うほど大量に分泌され、発痛を増強してしまうのです。プロレスラーなどの格闘家は、痛みに対する精神力が非常に強いため、プロスタグランジンの分泌が抑えられ、痛みを感じにくい身体になっていると考えられます。また、1998年には、アスピリンは「シクロオキシゲナーゼ」だけでなく、やはり炎症に関わる酵素である「IκBキナーゼ(IKK)」にも作用していることが分かりました。つまり、アスピリンは2方向から、炎症を鎮める作用を持っていたことになります。

 アスピリンは、中枢神経に作用して鎮痛の働きもしますが、こちらのメカニズムについてはよく分かっていません。また、残念ながら「内臓の痛み」には効きません。モルヒネのような耽溺性や依存性がないので、連続して使うことはできます。しかし、体内に取り込まれたアスピリンの一部は、加水分解を受けて「サリチル酸」と「酢酸」になるので、アスピリンの副作用はいくら弱いといっても、原則的にはサリチル酸のそれと変わりません。実は、サリチル酸の副作用も、プロスタグランジンと関係があって、サリチル酸の胃腸障害は、胃の粘膜を保護する作用を持っているプロスタグランジンが、アセチルサリチル酸によって合成されなくなることが原因です。

 アスピリンを服用すると、プロスタグランジンの合成が阻害されるため、胃の粘膜が保護されなくなり、胃壁が胃液にさらされてしまうことになります。胃液には、胃酸や消化酵素が含まれているので、粘膜が弱くなると胃壁が消化され、胃が痛くなったり、酷いときには胃潰瘍になったりします。アスピリンなどの消炎鎮痛剤による胃腸障害により、アメリカでは年間510万人が入院し、2,000人以上が死亡するというデータもあります。これは、なんとあらゆる薬の副作用被害の25%に相当します。

 

(3)アスピリン・ジレンマ

 近年、注目を集めているのは、アスピリンの「抗血栓作用」です。怪我をしたときに血が固まって傷口を防ぐのは、人体を守る重要な作用ですが、何かのきっかけによって体内で凝血が起きて、血管を詰まらせると、脳梗塞や心筋梗塞などの生命に関わる疾患の原因になります。アスピリンは、血小板の凝集や血管壁の収縮を引き起こす物質である「トロンボキサン」の合成を阻害し、血液の粘性を低下させて、脳梗塞や心筋梗塞などの血管障害を予防する効果があるのです。俗にいうところの「血液サラサラ」効果です。高血圧や軽度の脳梗塞を発症している人の多くが、病院でこの薬を処方されています。

以前は、アスピリンを少量だけ含む小児用の錠剤を割って、さらに量を少なくしたものを大人が飲んだりしていました。健康な人でも、1日に100 mg程度の「低用量アスピリン」で、血液が固まりにくくなり、脳梗塞や心筋梗塞の予防になるのです。日常的にアスピリンを服用する人は、心筋梗塞の初発が32%も下がるという報告もあります。これを受けて、アメリカでは、心臓病の予防薬として、アスピリンを常用することが推奨されています。

 

.8  「トロンボキサン」には、血小板凝集作用がある

 

一方で、アスピリンはプロスタグランジンの合成を阻害しますが、プロスタグランジンには、発痛を増強させる作用や胃粘膜を保護する作用の他に、血小板の凝集を抑制する作用もあるのです。つまり、プロスタグランジンの合成が阻害されると、逆の作用として血液の粘性が上昇し、血液が固まりやすくなります。このようにアスピリンを服用すると、一方では「血液をサラサラにする作用」が起こり、もう一方では「血液をドロドロにする作用」が起こるのです。血液中には、このような血小板の凝集を抑制する因子と、促進する因子があり、これらの因子のバランスによって、血液の粘性が決まります。

 

.1  アスピリンは、一方では血液の粘性を低下させるが、もう一方では血液の粘性を上昇させる

 

トロンボキサン

プロスタグランジン

作用

血小板の凝集を促進

血小板の凝集を抑制

合成が抑制されると

血液の粘性低下

血液の粘性上昇

 

 そこで、アスピリンの抗血栓作用の場合は、「低用量」という言葉が重要になります。アスピリンを「低用量」で使用すると、トロンボキサンの合成だけを選択的に阻害することができます。これは、トロンボキサンは主に「血小板」より産生され、プロスタグランジンは主に「血管内皮細胞」より産生されるのですが、本来アスピリンは、「血小板」の方と強い親和性があるためです。しかも、「血小板」には核がなく、アスピリンは不可逆的にトロンボキサンの合成を阻害するため、「血小板」で一度トロンボキサンの合成が阻害されると、「血小板」の寿命(710日間)だけ、抗血栓作用が持続するのです。これに対して、「血管内皮細胞」では、核があるのでプロスタグランジンの再産生が行われ、「低用量」のアスピリンであれば、影響は小さいのです。これによって、血小板の「凝集促進因子」のみを減少させることができ、相対的に血小板の「凝集抑制因子」の作用が優位になるので、血液は「サラサラ」になるのです。しかし、鎮痛作用を得る目的で、アスピリンを使用する場合は、「高用量」のアスピリンを投与する必要があります。

「高用量アスピリン」の場合では、トロンボキサンだけでなく、プロスタグランジンの合成まで阻害してしまいます。この結果、血小板の「凝集促進因子」であるトロンボキサン合成の阻害による「血液をサラサラにする作用」と、血小板の「凝集抑制因子」であるプロスタグランジン合成の阻害による「血液をドロドロにする作用」の両方が起こります。そのため、お互いの作用が拮抗して、効果を打ち消し合ってしまうのです。そのため、「高用量」のアスピリンを投与しても、「血小板凝集抑制作用」を得ることができません。このような現象を、「アスピリン・ジレンマ」と呼んでいます。

 それでは、解熱鎮痛薬として、バファリンA(アスピリン330 mg配合)などを服用すると、「アスピリン・ジレンマ」が起こって、血液が「ドロドロ」になってしまうのでしょうか?鎮痛目的でアスピリンを使用する場合は、「高用量」のアスピリンを服用する必要があります。しかし、「高用量群(5001,500 mg)」と「中用量群(160325 mg)」、「低用量群(75150 mg)」の3つの群に分けて、アスピリンの効果を調べた臨床試験によれば、いずれの使用量でも「アスピリン・ジレンマ」は起こらないという結果が出ています。つまり、「アスピリン・ジレンマ」は理論上のことであり、臨床上では見られないことなのです。

 しかし、アスピリンのトロンボキサンの合成阻害作用は、160 mg/日の使用量で、効果が頭打ちになるといわれています。また、胃粘膜でのプロスタグランジンの合成阻害作用により、胃潰瘍などの副作用が生じてくるのは、100 mg/日以上の使用量であるという報告もあります。「抗血栓作用」を期待して、アスピリンを服用するのであれば、副作用のことも考えて、100 mg/日程度で使うのが合理的であるといえます。

 

 (4)「アスピリン戦争」はなぜ起こったのか

 アスピリンは、サリチル酸の構造を少し変えることで、「世紀の薬」となりました。アスピリンは、世界で初めて人工合成された医薬品であり、これ以降、天然成分を化学的に修飾、あるいは全合成により、新薬が創製できることが明らかになったという点で、後世に与えた影響は計り知れません。1899年の発売から数年後には、バイエル社は、「アスピリンは極めて人気が高く、これに勝る薬はあり得ない」と高らかに宣言します。

 ただし、アスピリンの泣き所は、本国であるドイツで特許が取れなかった点でした。アセチルサリチル酸は、すでに1853年にフランスの化学者であるシャルル・ジェラールによって作られており、新規の化合物ではないと見られたのです。ただし、法律の違いから、アメリカではアスピリンに特許が成立しました。そこで、バイエル社は、1903年にアメリカに新工場を建設し、この巨大市場への進出を図ります。これが後に、数十年に渡る泥沼の「企業戦争」のきっかけになるとは、当時は誰も予測していませんでした。

 1917年、アメリカは第一次世界大戦に参戦します。アメリカは、敵国であるドイツ企業の資産を接収し、バイエル社の保有する特許権や商標に至るまでが、米国政府の管理下に置かれました。翌年に大戦が終結すると、政府はバイエル社の現地法人である「バイエルアメリカ」を競売にかけます。これを競り落としたのが、スターリング・プロダクツという会社でした。落札価格は531万ドルでしたから、現在の貨幣価値でいえば、1億ドル近くにもなります。米国進出からわずか15年ほどで、「バイエル」と「アスピリン」のブランド価値は、ここまで高まっていたのです。

 

.9  バイエルアスピリン1錠中には、500 mgのアセチルサリチル酸が含まれている

 

1920年代のアメリカは、経済的繁栄を謳歌する一方で、第一次世界大戦の戦後処理、禁酒法の成立、世界恐慌など、人々が強いストレスに悩まされた時代でもありました。頭痛や胃痛の苦しみを和らげるアスピリンは、こうした社会背景に沿って、大いに売り上げを伸ばしました。アメリカ人が強いストレスに悩まされた19201930年代は、後に「アスピリン・エイジ」と呼ばれることになります。現在でも、アメリカ人は驚くほどアスピリンを愛用しており、その消費量は、500 mg錠剤換算で、年間320億錠にも達します。数多の医薬品が、歴史の波に淘汰されていった中で、1世紀以上にも渡って基本的な部分が変わらないままに売れ続けている医薬品は、他に類例を見ません。

 バイエルアメリカの権利一切を手に入れたスターリング社は、堂々とバイエルの社章「バイエルクロス」の入ったアスピリンを製造販売しました。しかし、第一次世界大戦でドイツが敗北した際に、「アスピリン」という商標は、賠償の一環として連合国に取り上げられ、「各社で自由に使って良い薬品名」ということになっていたので、スターリング社は、アスピリンを独占的に製造販売することはできなくなっていました。世界中の人々が、諸手を挙げて欲しがるような「世紀の薬」アスピリンの市場に、多くの企業がこぞって参入してきました。独占状態ではなくなったことで、特許で守られたアスピリンのプレミアム価値もなくなり、一般的な販売医薬品と同じように「コモディティ化」しました。ビジネス用語を使えば、「レッドオーシャン」と呼ばれる競争の激しい一般市場に引き込まれたともいえます。

 

.10  「バイエルクロス」は、バイエル社の象徴である

 

その後は、多くの企業が、「すべての薬の中で最も売れる薬を売ろう」として、熾烈な競争を繰り広げることになりました。「バイエル」の商標を掲げるスターリング社は、自分たちのことは棚に上げ、「よそのアスピリンはニセモノだ」と主張しました。これを徹底するため、スターリング社は、当時台頭してきたラジオというメディアに注目し、大規模な宣伝活動を展開しました。1936年には、スターリング社は、自動車メーカーなどに次ぎ、全米4位のラジオ広告主となります。このようなマーケティングキャンペーンは、さながら戦争のようだったと伝えられています。

 やがて、スターリング社は、カナダや南アメリカ大陸にも、アスピリンの販路を展開します。ドイツのバイエル本社は、この状況を歯噛みしながら見ている他ありませんでした。米独2つの「バイエル」が、同じ社章を付けて同じ名の商品を売るという、世界資本主義市場まれに見る異常事態が発生したのです。この状況は、1994年にドイツのバイエル社が、アメリカにおける権利をすべて買い戻すまで、76年に渡って続くこととなります。このような「アスピリン戦争」のエピソードは、アスピリンの威力が、世界的に社会を巻き込むほどのものだったということを物語るものとして、未だに語り草になっています。

 スターリング社のいう通り、他社のアスピリンは、「ニセモノ」だったのでしょうか。この時代の証言などを見ると、確かにバイエル製のアスピリンは、他社製品に比べて、よく効いていたらしいです。これは、「バイエル」のブランドに対する信頼感が、「プラセボ効果」を引き出したせいとも解釈できます。実際、同じ成分の偽薬を飲んでも、価格が高いと聞かされていると、その薬の効果が高まるという実験結果があるのです。ただし、実際には、バイエル製品は、結晶化技術や製造方法などが長い経験の中で磨かれており、体内での吸収・利用率が高かったようです。薬というものは、同じ成分であっても、こうした細かな技術によって、効き方に違いが出ます。これは、現代の「ジェネリック医薬品」などでも、時に問題となるところです。

 

(5)アスピリンの様々な効能

興味深いことに、アスピリンが、「アルツハイマー型認知症」の予防にも有効ではないかという研究があります。この話は、ハンセン病にかかって、長く抗炎症剤を飲み続けた人に、「アルツハイマー型認知症」の発症が少ないという発見から始まりました。いくつかの大規模実験で、「アスピリンに予防効果あり」とのデータが出ており、海外の研究者には、積極的に服用している人も多いようです。

 さらに、アスピリンは、「大腸ガン」を始めとする「乳ガン」や「肺ガン」などの予防にも、有効である可能性が明らかになっています。1988年、オーストラリアの研究者が、アスピリンを日常的に服用している人の「大腸ガン」の罹患率は、服用していない人よりも、約40%も低いことを発表したのです。その後、米国ガン協会による大規模な調査など、数多くの研究が行われ、アスピリンの「大腸ガン」に対する予防効果が実証されました。ガン細胞には、「プロスタグランジン」が比較的多く含まれています。そこで、アスピリンによりその合成を阻害したら、ガンは発生しにくいのではないかという仮説が、研究により裏付けされたといいます。継続的なアスピリンの摂取で、各種のガンの予防にもなるのです。

 その他、「ダイエット」にもアスピリンが有効なのではないかという研究があります。鎮痛剤としてのアスピリンを常用する人たちから、「自然に痩せる」という報告が相次ぎ、研究を重ねた結果、カロリー消費を引き上げる効果があると分かったのです。カロリーの消費を引き上げる物質を、「メタボリズム・オプティマイザー」といいます。

アスピリンは、消費カロリーを平均で10%ほど引き上げるといいます。この数値は、実は大変な数値です。30歳から50歳程度の基礎代謝量は、体重1 kg当たり、1日で男性は22.3 kcal、女性は21.7 kcalです。つまり、体重60 kgの男性は、何もしなくても1日で、

 

基礎代謝量〔kcal/日〕 22.3kcal/(kg・日)× 60kg〕= 1,338kcal/日〕

 

このように、1,338 kcalを基礎代謝で消費します。これに「身体活動レベル」という係数を乗じると、「1日に必要なカロリー」が求まりますが、一般的な身体活動レベルは1.75です。したがって、体重60 kgの男性は1日で、

 

1日に必要なカロリー〔kcal/日〕= 1,338kcal/日〕× 1.75 2,342kcal/日〕

 

このように、2,342 kcal1日で消費します。この10%234 kcalであり、アスピリンを服用した場合、合計すると2,576 kcalを食べてもいいことになります。普通に生活して、アスピリンを飲むだけで、「ダイエット」が可能になるのです。また、ダイエット中は、コレステロールの流出などから血液が濃くなりがちなので、アスピリンを常用することで、血管や心臓への負担を減らすこともできます。

 

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.11  アスピリンは、消費カロリーを引き上げるので、ダイエット効果がある

 

 ただし、これらには否定的なデータもありますし、副作用との兼ね合いもあります。アスピリンを大量に服用すると、胃が痛くなったり、酷いときには胃潰瘍になったりします。2020年には、アスピリンなどの消炎鎮痛剤が原因で生じる消化性潰瘍が、全体の半数以上の件数に達すると予想されているほど、胃への負担が大きいのです。日本人は、特に欧米人に比べて、胃に対するアスピリンの副作用が出やすいという報告もあるので、気を付けましょう。

また、アスピリンが関係する重い副作用に「ライ症候群」があります。ライ症候群とは、インフルエンザなどのウイルス感染のあとで、急性脳症などを引き起こす原因不明の病気で、場合によっては、死に至ることもあります。これは、15歳未満の子供にアスピリンを連用すると、生じる危険性があるといいます。「アスピリン」と「ライ症候群」との関連性が分かってからは、小さい子供にアスピリンを使わなくなりました。現在では、同じ解熱鎮痛作用を持つ「アセトアミンフェン」が、小児用の薬に使われています。

 

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.12  「アセトアミノフェン」は胃を刺激せず、興奮や眠気などの副作用がない

 

小児用の薬からアスピリンが姿を消したため、「血液サラサラ効果」を期待して、小児用のアスピリン錠剤を割って飲むという使い方もできなくなりました。その代わり、今では「低用量アスピリン」が持つ抗血小板作用を期待した医薬品「バファリン81mg錠」などが販売されていて、高血圧や軽度の脳梗塞に対して用いられるようになっています。アスピリンには副作用もありますが、メリットもたくさんあります。全体として見れば、アスピリンは、マイナス面よりプラス面の方が、遥かに勝っているということになるでしょう。

 

.13  「バファリン81mg錠」は、抗血小板療法の基礎薬として用いられる


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・参考文献

1) 薬理凶室「アリエナイ理科ノ教科書VC」三才ブックス(2009年発行)

2) 薬理凶室「デッドリーダイエット」三才ブックス(2005年発行)

3) 山崎幹夫「新化学読本-化ける、変わるを学ぶ」白日社(2005年発行)

4) 佐藤健太郎「化学物質はなぜ嫌われるのか」技術評論社(2008年発行)

5) 船山信次「こわくない有機化合物超入門」技術評論社(2014年発行)

6) 枝川義邦「身近なクスリの効くしくみ」技術評論社(2010年発行)

7) 矢沢サイエンスオフィス編「薬は体に何をするか」技術評論社(2006年発行)

8) 佐藤健太郎「世界史を変えた薬」講談社(2015年発行)

9) 深井良祐「なぜ、あなたの薬は効かないのか?」光文社(2014年発行)