・ビタミンCの科学


【目次】

(1) 海の男たちの職業病

(2)「壊血病」には何が有効なのか

(3) ビタミンCの発見

(4) ビタミンCに傾倒した大化学者


(1) 海の男たちの職業病

 15世紀に始まる「大航海時代」は、世界各地の歴史と文化に、巨大な衝撃を与えました。人類の文化は、各地の事物や発見を互いに共有し合うことで、発展してきたのです。しかし、何世紀にも渡って、船乗りたちの生活は、決して楽しいものではありませんでした。彼らのほとんどは、自分の意志とは関係なく船に乗せられ、「溺死」という危険性に怯えながら、「遠洋航海船」という牢獄に閉じ込められた人々でした。そんな彼らが最も恐れたものは、一体何だったのでしょうか?予測不能な「大嵐」や暴風雨による「難破」でしょうか?それとも、海賊による「襲撃」や船内で発生する「伝染病」でしょうか?船内では、大人数が長期に渡って狭い空間にひしめいていたので、誰かが伝染病でも発症すれば、あっという間に蔓延してしまいます。しかし、ペストや結核などの伝染病よりはるかに深刻であったのは、現代ではあまり聞き慣れない「壊血病」という船乗り特有の病気でした。

 

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.1  船乗りたちが最も恐れたのは、現代ではあまり聞き慣れない「壊血病」という病気だった

 

長い航海では、「船上の殺人犯」であるこの原因不明の「壊血病」こそが、熱帯地方の伝染病や海戦よりも由々しき問題でした。実際、「壊血病」で死んだ船乗りの数は、伝染病や戦闘による死者を合わせた数よりも、はるかに多かったのです。例えば、七年戦争の死者の内訳は、戦死者1,500人余りに対して、病死者は約13万人、そのほとんどが「壊血病」による死者でした。初めて海路でインドに到達したことで有名なヴァスコ・ダ・ガマの航海では、アフリカ最南端の喜望峰を回った時点で、すでに160人の乗組員のうち、96人を「壊血病」で失っていました。クリミア戦争でも、フローレンス・ナイチンゲールは、「イギリス軍は戦闘の傷よりも、壊血病のために死んだ兵士の方が多い」と指摘しています。コロンブスの航海から19世紀の蒸気船の時代まで、少なく見積もっても200万人以上の船乗りが、この恐ろしい「壊血病」によって命を落としたといわれています。漂流している船を発見して乗り込んでみたところ、船員が「壊血病」で全滅していたケースも少なくありませんでした。

 

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.2  ナイチンゲールは、クリミア戦争で劇的な医療衛生改革を実行し、「クリミアの天使」とも呼ばれた

 

「壊血病」は、当時の船乗りたちにとって、非常に恐ろしい病気でした。最初は歯茎から血がにじみ出す、もしくは皮膚に黒っぽい斑点が出るなどの症状から始まり、強い疲労感と衰弱に悩まされ、皮膚は押すとずっと凹んだままになるほど張りを失います。毛細血管が破れて、皮下出血が起こり、膨れたスポンジのようになった歯茎からは、歯がぐらぐらになって次々と脱落しました。こういった症状に苦しみながら、遂には衰弱して死んでいくことになります。こうして「壊血病」は、長きに渡って遠距離を航海する船乗りたちの「最大の敵」であり続けました。当時1つの船で誰かが「壊血病」になると、次々と他の船員たちも発症したので、伝染病だとも考えられていました。このため、各国海軍は強制徴募によって船員を補充し、その大半が途中で死んでも航海が続けられるよう、多数の人員を乗船させていました。

 1740年、イギリスの海軍軍人であるジョージ・アンソンは、イギリス国王のジョージ2世から、太平洋のスペイン艦隊を「悩ませ、苦しめよ」との命令を受けました。この航海の目的は、スペインが発見したフィリピンのマニラ港から、メキシコのアカプルコ港へと向かうスペインのガレオン船を拿捕して、その積み荷を奪うことでした。しかし、この航海は出だしでつまずきました。乗組員が足りていなかったのです。イギリス海軍は、チェルシー王立病院に隠居していたボロボロの老人で、不足分を埋め合わせました。巷で酒を飲んでいた船乗りの頭をいきなり殴りつけて、気絶させて連れてくることもありました。この「呪われた航海」を生き延びるのは、頑健な体の持ち主でも困難でした。4年間をかけて達成した世界周航で、戦死者はわずか3名でしたが、出航時1,854名いた乗組員のうち、帰還したのはたったの188名に過ぎませんでした。そのほとんどが「壊血病」で死亡していました。

 

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.3  ジョージ・アンソンは、1740年から1744年にかけて世界周航を達成した海軍軍人である

 

 アンソンの艦隊の悲劇にショックを受けたイギリス政府は、「壊血病」の治療法の調査に乗り出しました。しかし、「壊血病」の治療法は、実は1世紀以上も前から知られていました。1601年にイギリスを出港した東インド会社の艦隊は、旗艦に「レモン果汁」を積み込んでおり、「壊血病」の症状を発した者は、さじ3杯これを飲むよう指示が下されていました。それどころか、主な航路の寄港地に、柑橘類の木を植林することまでしていました。しかし、30年も経たないうちに、船長たちは高価な果物の代金を出し渋るようになりました。「壊血病」の症例が、ほんの時たましか見られなくなっていたので、そんなことのために大金を払いたくないと思ったのです。「単に乗組員が怠けているだけだから、強制労働させればよい」、「異国の地の果物は、壊血病などの病気の原因になる」と声高に主張する専門家もいました。「予防薬」は忘れられ、「インチキ薬」に取って代わられました。こうして、恐ろしい病は舞い戻って来たのです。

 

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.4  「壊血病」の治療法には、レモンやオレンジなどの柑橘類が効くと、経験的に昔から知られていた

 

(2)「壊血病」には何が有効なのか

 「壊血病」の原因が何なのか、様々な憶測がありました。船内の悪い空気、ネズミ、偏った食事、肝臓感染症などです。船内の作業は過酷で危険を伴い、衛生状態は悪く、宿泊場所は寒くて湿っていました。食事は腐っていたり、ネズミの糞が混じったりすることもしばしばありました。船内の食事も偏ったメニューで、多くは次のようなものでした。朝食には砂糖で甘味を付けた水っぽいオートミール、昼食にはしばしばマトンのコンソメスープ、他にソーセージやパングラタン、ラスクを砂糖で煮た粥、夕食にはひきわり麦と干しブドウ、スグリの実と米、ワインとサゴを食べていました。「壊血病」に対する薬も様々ありましたが、その効果は、いずれも実際には証明されていませんでした。若きスコットランドの海軍軍医であるジェームズ・リンドは、「壊血病」に対して有効だとされる様々な方法を、体系的にテストしようと考えた最初の人物でした。

1747520日、リンドはイギリス海軍軍艦ソールズベリー号に乗り込み、2週間に渡ってある実験を行いました。これは、管理された条件下で行われた、医学史上初めての「臨床試験」だったといわれています。最初に、典型的な「壊血病」の症状を示している乗組員24名を選び出しました。彼らは皆、歯肉が腐り、関節が傷み、皮膚からは出血が見られ、体が弱っていて無感覚でした。そして、半数の12名を2人ずつの6グループに分け、その各グループにそれぞれ異なる治療法――「アルコールと硫酸を混ぜた硫酸薬」・「酢」・「海水」・「リンゴ果汁」・「ニンニクなどから作ったペースト」・「オレンジ2個とレモン1個」――を処方しました。そして、もう半数の12名には何の治療もせず、治療を受けた12名と比較するための「対照群」としました。24名全員に同じ食事をさせ、管理が行き届くように別室にハンモックを準備して、他の乗組員から隔離して生活させました。

リンドの実験結果は、非常にはっきりしたものでした。「オレンジ2個とレモン1個」を与えられたグループは、わずか6日間でほぼ完全に健康を回復していました。他には、「リンゴ果汁」を飲んだグループにわずかな効果が見られましたが、他のグループには全く症状の改善が見られませんでした。わずか2名というサンプル数ではありましたが、リンドは実験した治療法のうち、「オレンジとレモンがこの病気には最も効果的である」と結論付けました。

他の条件をなるべく一定に揃え、「比較対照群」とともに実験を行って、何が有効なのかをはっきりさせたリンドの手法は、当時は全く画期的なものでした。現代の臨床試験は、この考え方を基礎としており、あらゆる医薬や医療器具などは、この試験を通過したものだけが広く認められることになっています。今日の臨床試験は、さらに二重盲検で実施されています。どのような物質を患者は服用したのか、または医師は与えたのか、双方とも研究のあとで初めて聞かされます。このようにすることで、どんな薬を服用したという先入観から、効用を示すことが避けられるのです。このような医学研究の基礎を築いた功績から、リンドは「航海医学の父」と現在呼ばれています。しかし、リンドが実験結果を400ページにも及ぶ「壊血病の研究」として1753年に発表し、この著書で他の研究者による「壊血病」の不合理な考えに対して、「各々の著者の思い付きや、そのときどきに流行している理念に従って発案されたものである」と異議を唱えたにも関わらず、誰一人として、リンドの実験結果を気にも留めませんでした。当時は、高名な医師が口にした風変わりな理論は、実験結果よりも重みがあったからです。また、リンドは、オレンジやレモンの「壊血病」に対する効能を理解していましたが、その根拠を見出せていなかったことも影響しました。

 

.5  ジェームズ・リンドは、イギリスにおける海軍の「衛生学」の創始者である

 

 1768年、イギリスの海洋探検家であるジェームズ・クックは、南太平洋への第一回航海に乗り出しました。クックの任務の1つは、「壊血病」に有効だとされる様々な治療法を試してみることでした。過去の経験にすがり、験を担ぐ乗組員たちは、「新奇な」食材を毛嫌いしました。しかし、クックはその治療法を強行しました。「ゾウムシに穴だらけにされた乾パン」や「蛆の湧いた塩漬け肉」にも文句をいわなかった乗組員たちは、マデイラ諸島で積み込まれた「新鮮な肉」を食べることには抵抗しました。命令を拒否した罰として、数人が鞭打ちを食らいました。乗組員たちが「ザワークラウト」を拒否すると、クックはザワークラウトを「士官専用の食品」とし、自分たちだけで独占して食べて見せました。「上官らが好んで食べるところを見せれば、それは最も高級な食べ物になる」と知ってのことでした。すると、1週間もしないうちに「我々にもザワークラウトを提供せよ」と、乗組員たちの方から迫ってきたといいます。「レモンジュース」の苦味は、乗組員たちに不評でしたが、それは飲むだけの価値がありました。クックが食事内容を厳しく管理し、上陸の度に新鮮な肉や野菜を積み込んだお陰で、クックは史上初めて、「壊血病」による死者を出さずに、世界周航を成し遂げることができました。

 

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.6  「ザワークラウト」は、キャベツを乳酸発酵させて作るドイツの漬物で、「壊血病」を予防する効果がある

 

イギリス海軍は、クックの探検には満足していましたが、「壊血病」の予防に関するクックの結論には、納得しませんでした。クックは、航海中に「麦芽汁」や「濃縮オレンジジュース」など、「壊血病」に効果があるとされていた様々なものを試していました。そのため、その中のどれが「壊血病」の発生を抑えたのか、はっきりしませんでした。海軍本部は、船舶の乗組員を対象とする実験を数回行った結果、各船舶の軍医は全員、「レモンやオレンジの濃縮液には、この病気を予防あるいは治療する効果はない」と述べました。問題は、リンドらが柑橘類の「濃縮液」の使用を勧めたことでした。「濃縮液」とは、レモンやオレンジの果汁を高温で加熱して、水分を飛ばした果汁のことです。加熱によって殺菌処理ができるので、果汁の保存性は高まり、船への持ち込みも容易になります。しかし、これによって果汁の効能は半減し、時間の経過とともに、それはさらに急激に低下しました。効果を示すのは、「新鮮な果物」だけでした。これは、「壊血病」を治療する有効成分が、加熱や乾燥によって、変性してしまうからです。当時、アカデミズムの権威であった王立協会の会長ジョン・プリングルが、「壊血病」の治療薬として「麦芽汁」を推奨していたこともあって、イギリス海軍では、そのまま「麦芽汁」が治療薬として利用されることになりました。

 

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.7  「麦芽汁」は、大麦の麦芽を粉末状にしたあと、熱湯に混ぜて浸すことで作られる

 

 唯一の効果的な治療法を却下してしまったために、「壊血病」はイギリス海軍に対して、疫病並みの猛威を振るうことになりました。他国の海軍も、同様に苦しめられました。1770年、スペイン・フランス海軍が、イギリスへの侵攻を企てました。予定よりも7週間遅れてスペイン艦隊が到着したころ、たったそれだけの間に、フランス海軍兵士の60%以上が、「壊血病」によって戦闘不能に陥っていました。イギリスまでたどり着けたフランス海軍兵士は、船から投げ捨てられて、イングランド南岸に打ち上げられたおびただしい数の死体だけでした。

それから10年後の1780、イギリスのあるフリゲート艦の乗組員全員が、「壊血病」で苦しんでいました。通りかかったアメリカ船の船長から、新鮮な肉と野菜を与えられ、彼らは命拾いしました。そのフリゲート艦の艦長は、当時22歳のホレーショ・ネルソンでした。ネルソンは、アメリカ独立戦争やナポレオン戦争などで活躍し、「イギリス最大の英雄」と評された人物です。ネルソンが、ナポレオン戦争のトラファルガー海戦の際、麾下の艦隊に送った「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」は、今日でも名文句として知られています。もしネルソンがそのときに「壊血病」で死んでいたら、最も偉大な司令官を失ったイギリスは、一体どうなっていたことでしょう。

 

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.8  ホレーショ・ネルソンは、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、自身はトラファルガー海戦の負傷が原因で死亡した

 

 同じ年、イギリス海軍提督のジョージ・ロドニーの主治医ギルバート・ブレーンは、イギリス海軍兵士の健康状態について、危惧の念を抱きました。ブレーンは、「海軍兵士の健康と生命を守るためにできることは、一般に考えられていることよりも多い」と考えました。リンドとクックの報告書の内容を知っていたブレーンは、ロドニーの艦隊の乗組員全員に、「オレンジ果汁」を配給するように提言しました。その結果、「壊血病」で死亡する乗組員の割合は、年に25%から5%にまで激減しました。後にイギリス海軍傷病兵担当委員に任命されると、ブレーンは医療の改善に尽力し、「柑橘類の果汁」を海軍兵士全員に支給させました。間もなく、イギリスは「世界で最も健康な海軍兵士を擁する国」となり、やがてナポレオンもその威力を思い知ることになります。

七年戦争やアメリカ独立戦争の時代、ハスラーの王立海軍病院では、1日に3501,000人の壊血病患者が治療を受けていました。1780年には、ポーツマスに着いた船から、1日に2,400人もの患者が運び込まれました。それが1815年には、すでに王立海軍病院で治療を受けた壊血病患者は、4年間でわずか2人になっていました。リンド1753年に「壊血病論」を発表してから半世紀の間に、何十万人もの海軍兵士が、あたら失わなくていい命を落としていったのです。リンドは1794年に亡くなりましたが、それはイギリス海軍が、レモンジュースを壊血病対策に取り入れる1年前のことでした。

19世紀初めには、レモンジュースが「壊血病」の予防薬として広く使用されました。イギリス海軍では、レモンジュースを毎年20L消費しました。オリーブオイルを薄く塗った樽にレモンジュースを詰めて、船に積み込んだのです。新鮮なレモンは塩漬けにして、紙に包みました。しかし、後にイギリス海軍は、レモンをライムに変えました。イギリスの植民地で、ライムの栽培を監督していたからです。そのために、イギリス海軍の船員たちは、他国の船員から「ライミー」と呼ばれるようになりました。イギリス人が「ライミー」と蔑称されるようになった起源です。一方で、ドイツ人を「クラウツ(キャベツ野郎)」と呼ぶのは、壊血病対策にザワークラウトを食べていたからだといわれています。

 

(3) ビタミンCの発見

 「壊血病」で死んだのは、船乗りだけではありませんでした。ウィリアム・スタークという若い医師が、当時ロンドンに住んでいたベンジャミン・フランクリンと知り合いになりました。ベンジャミン・フランクリンといえば、後にアメリカ独立に多大な貢献をし、「アメリカ合衆国建国の父」として讃えられるようになる人物です。フランクリンは科学者としても有名で、前開き式の鉄製ストーブ(フランクリンストーブ)、避雷針、二重焦点眼鏡などを発明したことでも知られます。フランクリンから、「以前にパンと水だけで2週間過ごしたことがあるが、健康に何ら異常は来さなかった」と聞かされたスタークは、何か1つだけを食べるとしたら、何が最も有益で、何が有益でないかを、実験で確かめてみようと決意しました。若気の至りなのか、スタークはそれから9カ月間に渡る制限食を開始しました。初めに10週間、パンと水だけで過ごしたあと、小麦粉とパンと油を断ち、それから赤身の肉だけ、脂身だけを食べて、それぞれの効果を比較しました。その後、果物と緑の野菜に移る予定だったのですが、不幸にもスタークは予定を変更し、チーズとハチミツを選んでしまいました。スタークの体は、すでに限界に近付いていました。「壊血病」に詳しいある著名な医師は、「塩分の摂取を減らすように」と、スタークにアドバイスしただけでした。アドバイスの甲斐もなく、スタークは「壊血病」により衰弱していき、29歳の若さで死亡しました。

 

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.9  ベンジャミン・フランクリンは、科学に対する業績も多く、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことで有名

 

 柑橘類に含まれている「何か」が、壊血病に効くということは一般に認められてはいました。しかし、その「何か」が不足することが壊血病の原因だとは、壊血病治療の先駆者たちも、思い至りませんでした。当時、古代ギリシアのヒポクラテスやガレノスが唱えた「体液学説」の影響が根強く、「有害なもの」の摂取によって病気が起こることはあっても、「必要なもの」の不足で体調を崩す可能性はないと考えられていました。船乗りや貧しい人々が「壊血病」になったのは、その食生活に原因がありました。炭水化物やタンパク質などの主要な栄養素だけでは、仮にその量が十分であっても、人間は絶対に生きていけません。健康のためには、現代の私たちが「ビタミンC」と呼んでいる成分が必須なのです。

 「ビタミンC」は、水溶性ビタミンの一種であり、化学的には、「L-アスコルビン酸」という有機化合物のことを指します。「アスコルビン酸(ascorbic acid)」の名前の由来は、英語の「壊血病にかからない(ascorbutic)」という意味の言葉に因ります。「scorbutic」は「壊血病にかかった」という意味で、「a」は否定の接頭語です。つまり、ビタミンCは「壊血病」を防ぐために必要な成分なのです。ビタミンCは柑橘類だけでなく、パパイヤやキウイ、イチゴ、ブロッコリー、芽キャベツ、トマト、パセリ、ホウレン草、ジャガイモなどにも豊富に含まれています。しかし、野菜や果物なら何でもビタミンCが豊富という訳ではありません。また、肝臓や腎臓を除けば、肉類にはほとんど、あるいは全く含まれていません。

 

.10  イギリスの化学者ウォルター・ハースは、「ビタミンC」の構造を解明した業績で、1937年にノーベル化学賞を受賞した

 

ビタミンCは、どのような作用で、壊血病を治療するのでしょうか。ビタミC、体内では「コラーゲン」というタンパク質の合成に深く関与しています。コラーゲンは、細胞と細胞を貼り合わせる他、骨や腱、真皮の主要成分であり、私たちの肉体は、コラーゲンなしには形を保てません。このため、体内に存在しているコラーゲンの総量は、ヒトでは全タンパク質のほぼ30%を占めるほど多いのです。コラーゲンが作られないと、私たちの肉体は文字通り「バラバラ」になってしまいます。

コラーゲンは、通常のタンパク質とは異なり、3本のポリペプチド鎖が絡まり合った「三重らせん構造」を取ります。この構造を保つため、コラーゲンの鎖には、特別な仕掛けが施されています。コラーゲンを構成するアミノ酸の1つである、「ヒドロキシプロリン」というアミノ酸がそれです。ヒドロキシプロリンは、「水素結合」によってポリペプチド鎖をつなぎ、コラーゲンの「三重らせん構造」を保つ働きがあります。ビタミンCは、このヒドロキシプロリンの合成に必須であるため、ビタミンCを欠いた食事を続けていると、正常なコラーゲンの合成ができなくなります。一般的には、ビタミンCを含まない食事を約6090日間続けると、体内のビタミンCの蓄積総量が300 mg以下になり、「壊血病」を発症するといわれています。ヨーロッパが域内での船舶輸送しか行っていなかった中世では、何カ月も航海を続けるということがありませんでした。船でビタミンC不足の食事をしていても、少し経てば港に入り、そこで普通の食事ができます。このため、壊血病はあまり発生しなかったのです。

 

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.11  「ヒドロキシプロリン」は、コラーゲンの主要な成分であり、コラーゲンの安定性を担っている

 

 「壊血病」にかかる危険性があるのは、ほとんど人類だけです。人類は、ブドウ糖をビタミンCに変換する酵素を持っておらず、そのためにビタミンCを体内で合成できません。一方で、大半のサルを含めて、ほとんどの動物がビタミンCを体内で合成することができるため、外部からビタミンCを取り込む必要がないのです。人類がビタミンCを合成できないにも関わらず、継続的に生存しえた最大の理由は、人類が果物や野菜などのビタミンCを豊富に含む食餌を、日常的に得られる環境にあったためです。

1907年、ノルウェーの細菌学者であるアクセル・ホルストは、モルモットを使って、ビタミンB1の欠乏によって引き起こされる「脚気」の研究をしていましたが、一部のモルモットが、「壊血病」のような症状にかかっていることに気が付きました。そして、モルモットにビタミンCが含まれていない穀類だけを与えて飼育すると、ほとんどのモルモットに「壊血病」の症状が現れ、その後、ビタミンCを含む果物と野菜を与えると、その症状が消えることを実証したのです。研究者たちは幸運でした。モルモットは、人間と同じように体内でビタミンCを合成することができず、飲食物からビタミンCを摂取する必要があるのですが、そのような動物は、コウモリやサル類の一部など、ほんの数種類しか存在しないのです。現在では、通常の食生活を送ってさえいれば、十分なビタミンCが得られるので、「壊血病」を恐れる必要はありません。

 

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.12  モルモットは、ビタミンCを合成する酵素を持っておらず、ビタミンCを体内で生成できない

 

 ビタミンCの働きは、その多くが「動物実験」や「人間のボランティア」を対象とする実験によって明らかにされました。1939年、ボストン市立病院の外科研修医であるジョン・クランドンは、「なぜ栄養状態の悪い人は、そうでない人よりも怪我の治癒に時間がかかるのか」という問題に興味を持ちました。壊血病にかかると古傷が開くことが多いのですが、このことが手掛かりになるのではないかと考えたクランドンは、「被験者にビタミンCが不足した食事を摂らせた上で、実験的に傷を作り、その傷が治癒するまでの時間を測定する」という実験を計画しました。

実験開始から3カ月後、クランドンは自分の背中の片側を切開して、長さ6 cmほどの深い傷を付け、その後、もう片側にも傷を付けました。クランドンは、相変わらずほとんどチーズとクラッカーとコーヒーだけの食事を続けていました。クランドンの体重は14 kgも減り、疲労困憊していました。研究所長は、このままではクランドンが死んでしまうと心配しました。実際、クランドンはもう少しで死ぬところでした。

体調を保つためにジムで運動していたところ、クランドンは突然激しい動悸に襲われ、気を失って倒れました。当時、壊血病患者が、心膜内出血を起こして、突然死する例があることが知られていました。クランドンは、8歳のときに虫唾の切除手術を受けていましたが、そのときの手術痕が再び開いてしまうほど、壊血病は悪化していました。ビタミンCの注射を11回、1週間に渡って受けるまで、実験のために人為的に付けた傷は、全く治癒の兆しを見せませんでした。クランドンは、「貧しい人々は治癒能力が低く、そのために感染症にかかる危険性が高いが、ビタミンCをより多く摂取することによって、治癒能力を改善することができる」と実証したのです。

 

(4) ビタミンCに傾倒した大化学者

 ビタミンCの正体が判明し、大量生産が可能になったことで、一般への普及の道が開かれました。さらに、ビタミンCは、「壊血病」を防ぐだけの物質でないことも徐々に明らかになってきました。ビタミンCは、酸化を受けやすい性質があり、体内の有害な「活性酸素」などと反応し、これを取り除いてくれるのです。マウスを使った動物実験では、「壊血病」を発症しない程度のビタミンCの欠乏で、約4倍の速さで老化が進行し、半年で半数が死んでしまいました。これをヒトに換算すると、1日に2.5 mgのビタミンCしか摂取しない場合、10人中1人が3年後に死亡し、13年後には半数が死亡する計算になります。ビタミンCを少量しか摂らないと、老化が進んで寿命が短くなるのです。

また、ビタミンCには、食品などを空気中の酸素による酸化から守る働きもあります。清涼飲料水にビタミンCが添加されているのは、こういった理由からです。このため、ビタミンCは、健康食品やサプリメントなどとして、大いにもてはやされることになります。現代にまで続くこうした「ビタミンCブーム」に大きく貢献したのは、ビタミンCに不可解なまでに傾倒したある偉大な化学者でした。

 

.13  清涼飲料水には、「酸化防止剤」としてビタミンCが添加されている

 

 アメリカの化学者であるライナス・ポーリングは、「20世紀最大の偉人の1人」として広く認められています。ポーリングは、量子力学を化学に応用した先駆者であり、「原子と原子はなぜ結合するのか」という化学結合の本性を記述した功績により、1954年に「ノーベル化学賞」を受賞しています。一方で、1962年には地上核実験に対する反対運動の業績により、「ノーベル平和賞」も受賞しています。生涯に「ノーベル賞」を2回単独受賞したのは、あとにも先にもポーリングだけです。また、結晶構造決定やタンパク質構造決定においても重要な業績を残し、「分子生物学」という新たな分野が誕生するきっかけを作った人物としても知られています。ワトソンとクリックが、1953年にDNAの生体内構造である「二重らせん構造」を発表する前、ポーリングはそれに近い「三重らせん構造」を提唱していました。無機化学、有機化学、金属学、免疫学、麻酔学、心理学、弁論術、放射性崩壊、核戦争のもたらす影響など、ポーリングは多方面の分野の研究に多大なる影響を与えたことで知られています1961年には、ポーリングは史上最も偉大な科学者の1人として、「タイム」誌の表紙を飾りました。

 

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.14  ポーリングは、20世紀における最も重要な化学者の1人として、広く認められている

 

この誰もが認める20世紀最高の化学者は、65歳頃になって、どうしたことか「ビタミンC」の研究に傾倒し始めました。1966年にポーリングは、科学的功績により授与されたカール・ノイベルグ賞の授賞式で知り合った生化学者のアーウィン・ストーンから、「高用量ビタミンC」の概念を教わりました。「毎日3,000 mgのビタミンCを摂取するという健康法を実践すれば、もっと長生きできるだろう」と。それから、ポーリングは風邪の予防のために、毎日数千ミリグラムのビタミンCを摂り始めました。効果はすぐに現れました。以前に比べて元気が出て、体調も気分もよくなったように感じました。長年、悩まされていた酷い風邪にもかからなくなりました。「若返りの泉」を見つけたと思い込んだポーリングは、2度のノーベル賞受賞者という自分の地位を利用し、先頭に立ってビタミン大量摂取を進める「メガビタミン療法」を全米に進める活動に乗り出しました。

ポーリングは早速臨床文献を調査し、1970年に「ビタミンCと感冒」を発表しました。さらに1970年には、イギリスの外科医ユアン・キャメロンと長期間の臨床試験を開始し、末期ガン患者の治療として、ビタミンCを点滴および経口投与しました。1976年にポーリングが発表した論文(Proc Natl Acad Sci USA. 1976 Oct;73(10):3685-9.)によると、末期ガン患者の100例にビタミンCを投与し、1,000例にビタミンCを投与せずに生存期間を比較したところ、投与群の生存期間は210日、非投与群の生存期間は50日と、明らかな差があったというのです。それから、ポーリングとキャメロンは多くの論文を発表し、その研究成果を扱った一般書「癌とビタミンC」を執筆しました。

ポーリングは、それまで「栄養素」の研究をしたことはありませんでした。しかし、大量のビタミンCを摂り続ければ、風邪も引かずインフルエンザにもならず、ガンにかかることもないと主張しました。ポーリングの著によれば、風邪を引いた直後から、1時間に15001,000 mgずつビタミンCを数時間分摂取すれば、風邪の症状を軽くすることができるといいます。通常、ビタミンCの必要量は、1日に100 mg程度とされていますが、彼は6,00018,000 mgを摂取することを勧め、また自身も大量摂取を続けました。さらに、ビタミンCはウイルス性疾患、精神病に至るまで、あらゆる病気の救世主となるとし、ポーリングの著書は米国内でベストセラーとなりました。

 

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.15  ポーリングは、「高用量ビタミンC」が、あらゆる病気を治療すると主張した

 

 しかし、他の研究者が行った多くの臨床試験の結果は、すべてポーリングの期待を裏切るものでした超高用量のビタミンCの投与が、風邪の予防や治療に役立ち、ガン患者にも効果があるという確証は、一切得られなかったのです。これに対して、ポーリングは、他の研究者が行った臨床試験の結果に対して、「詐欺にして意図的な誤りである」と公然に非難しました。けれども、それで実験結果が変わることはありませんでした。研究者として、他人の研究結果を一方的に否定するのは、風上にも置けない行為です。こうしてポーリングは、その前半生で築き上げた信頼と栄誉を、自らの手で少しずつ打ち壊していったのです。ポーリングの研究仲間で、ノーベル化学賞を受賞しているマックス・ぺルーツは、ポーリングの画期的な研究成果を称えながらも、「ポーリングの人生の最後の25年間で、ビタミンCが主な関心事になっていたことは悲劇だ。彼の化学者としての素晴らしい名声は台無しになった」と述べています。

 ポーリングが後年に行ったビタミンCの研究は論議を呼び、一部の医療専門家からは、「似非療法」と見なされました。ポーリングはそれ以降、機関資金源や学術的な支援、一般社会の評判を失いました。結局、ビタミンCでガンを防げるという主張とは裏腹に、ポーリングは妻のエヴァを胃ガンで亡くし、自身も前立腺ガンで、その生涯を終えています。もっとも、ポーリングは93歳で亡くなる直前まで、ビタミンCの研究のみならず、化学や物理の理論的研究も続けるほど元気であったから、少なくともビタミンCの大量摂取が、健康に害を及ぼすということはないのかもしれません。

 ところで、ポーリングの死後10年以上を経た2006年、高用量ビタミンCの効能に関する新事実が、カナダの研究グループによって提示されました。同グループは、高用量ビタミンCを点滴投与した3人の患者が、予想よりも長く生存していたことを確認したのです。大量投与による副作用は少なく、ガン治療の副作用を軽減させる効果が見られたといいます。今後の臨床試験では、ガン患者に対する「静脈内高用量ビタミンC治療」の実用性と安全性の究明が、最終的な課題となっています。


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・参考文献

1) トレヴァー・ノートン「世にも奇妙な人体実験の歴史」文藝春秋(2012年発行)

2) ジョーシュワルツ「シュワルツ博士の化学はこんなに面白い」主婦の友社(2002年発行)

3) 佐藤健太郎「炭素文明論」新潮社(2013年発行)

4) 佐藤健太郎「化学物質はなぜ嫌われるのか」技術評論社(2008年発行)

5) 船山信次「こわくない有機化合物超入門」技術評論社(2014年発行)

6) 佐藤健太郎「世界史を変えた薬」講談社(2015年発行)

7) 深井良祐「なぜ、あなたの薬は効かないのか?」光文社(2014年発行)

8) Reto U.Schneider「続 狂気の科学」東京化学同人(2018年発行)