・ペニシリンの科学
【目次】
(1) 史上最大のセレンディピティ
「アオカビ」の生産する未知の物質に、ブドウ球菌や肺炎球菌、淋菌などに対する「殺菌作用」があることを発見したのは、イギリスの細菌学者であるアレクサンダー・フレミングでした。この物質は、全くの偶然に発見されたものでした。「セレンディピティ」という言葉は、ふとした偶然を切っ掛けに、予想外のものを発見するという意味で使われますが、フレミングの発見は、「史上最大のセレンディピティ」といっても過言ではないものでした。
図.1 フレミングの大発見は、「セレンディピティ」の最たる例として語り継がれている
1928年9月、ロンドンにあるセント・メアリーズ病院に勤務していたフレミングは、ブドウ球菌の変異株を研究していました。ところが、フレミングは、ブドウ球菌を培養しようとしていたシャーレをそのままにして、バートン・ミルにある別荘に長期間の家族旅行に出てしまいます。フレミングは、もともと実験室を掃除したり、整理したりせずに休暇に出かけることが多く、実験室はカビや雑菌が繁殖しやすい環境であったといいます。そして偶然にも、そのシャーレの中にアオカビの胞子が飛び込み、化学反応を起こします。これは、微生物学では「コンタミネーション」といわれるもので、単一の微生物を培養していたのに、そこに他の微生物が混ざり込んでしまう現象です。普通の研究者なら、コンタミネーションが起こると、実験が失敗したと見なして、シャーレの中身を捨ててしまうところです。フレミングも同様に、シャーレを片付けようと、洗浄の準備を始めます。
しかし、フレミングはその作業に入る直前、ある発見をします。シャーレ内のアオカビの大きなコロニーの周囲では、ブドウ球菌のコロニーが透明になっていて、溶菌を起こしていたのです。「シャーレ内に生えたアオカビが、ブドウ球菌を殺す何らかの物質を生み出しているのかもしれない」と推測したフレミングは、この未知の抗菌物質を「ペニシリン」と命名しました。これが、やがて数百万の人命を救う発見になるとは、このときはフレミング自身も思いもよらなかったでしょう。1929年にイギリスの実験病理学雑誌(Experimental Pathology Vol.3, p.226)に発表されたペニシリンは、ブドウ球菌だけでなく、代表的な病原体である肺炎球菌や淋菌などにも著効を示しました。
図.2 「抗生物質」の周囲では、黄色ブドウ球菌の繁殖が抑制される
しかし、フレミングは、この物質を純粋に分離できませんでした。そこで、この物質の含量を測定するために、カビの培養濾液を希釈していき、細菌の発育を阻止することができる最低濃度を求めることにしました。ちなみに、フレミングが行ったこの方法は、今でも抗生物質の抗菌力を検査するのに用いられています。その結果、フレミングの培養濾液は、200倍、300倍と希釈していっても、いっこうにブドウ球菌の発育阻止を止めず、800倍にまで希釈しても、まだ発育阻止力を保つほど強いことが分かりました。結果的に、このカビの生産するペニシリンは、当時殺菌によく用いられていた消毒薬の「フェノール」より、数倍も強い細菌発育阻止力を持つことが認められました。
当時汎用されていたフェノールは、手術の際の消毒薬として使用されていましたが、手術器具や傷口の殺菌はできても、体内に入り込んだ細菌を退治することはできませんでした。フェノールには腐食性があり、口から飲めば、細菌よりも先に、人体の細胞がダメージを受けるからです。一方で、ペニシリンを服用しても、体内の細胞に対して基本的に害がないことが、動物実験によって明らかになっていました。フレミングは、ペニシリンの発見により、体内に巣食った病原菌との戦いに勝利する可能性を見出しました。
図.3 当時は消毒のため、手術室にフェノールを噴霧し、傷口は薄めたフェノール液で洗浄した
フレミングは、このカビが「ペニシリウム属」に属することを認めて、この物質を「ペニシリン」と命名したのですが、後に、このカビはペニシリウム分類の権威であるアメリカ農務省のチャールズ・トムによって、「ペニシリウム・ノタツム(Penicillium notatum)」であると同定されました。このカビは、各種のアオカビの中でも珍しい種類であり、しかもずば抜けたペニシリン生産能力を持っていました。この珍奇なカビが、フレミングのシャーレの中に飛び込んできたのは、僥倖としか言いようがありませんでした。
ただし、このカビによって生産されるペニシリンの量はほんのわずかであり、25℃以上になると、ペニシリンを生産しないという問題がありました。しかも、ペニシリンが非常に不安定な化合物であったため、純粋に取り出すことも、長期間保存することも難しかったのです。それ故に、これ以上に研究を進めることはなかなか難しく、当時としては、カビの生産する物質の化学研究において世界一であったロンドン大学のハロルド・レイストリックでさえ、遂にはペニシリンを純粋に分離する研究を断念してしまったほどです。フレミングも、以後ペニシリン研究を続行することはなく、ペニシリンの発見は、それから10年近くもの間、研究者たちから忘れ去られました。
図.4 アオカビには、「ペニシラス」と呼ばれる筆のような形の構造があり、これが学名「ペニシリウム」の由来になっている
しかし、第二次世界大戦直前の1938年になって、オックスフォード大学の生理学者であるハワード・フローリーは、ふとした機会にフレミングの論文に目を止めました。フローリーは、微生物の生産する天然の「抗菌性物質」の研究をしていましたが、たまたま読んだフレミングのペニシリンの発見に関する論文に興味を魅かれ、同僚の生化学者であるエルンスト・チェーンらと手を組んで、ペニシリンの研究に乗り出すことにしたのです。
カビの培養は、通常はガラス製のフラスコで行うのですが、フローリーたちは、陶器製のフラスコで培養する方法を考案しました。そして、160 kmも離れた工場に頼んで作ってもらい、174個の陶器製の培養フラスコを受け取りました。培養を開始できたのは、1940年のクリスマスイブだったといいます。フローリーたちは、雑菌に汚染されないように注意しながら、何回もペニシリウム・ノタツムの培養を繰り返し、培養濾液からペニシリンを抽出し続けました。フローリーたちは、有機溶媒と酸またはアルカリ水溶液による抽出操作を徐々に改良し、不安定なペニシリンを損なわずに濃縮する技術を確立していきました。構造が不安定なペニシリンは、迂闊な方法で濾液を処理したりすると、すぐに壊れてしまいました。その精製は困難を極め、フローリーたちは数カ月もかかって、やっとほんのわずかな褐色の粉末を得ただけでした。
しかし、この褐色の粉末は、50万倍に希釈しても、ブドウ球菌の発育を阻止するという驚くべき威力を発揮して、フローリーたちを喜ばせました。フローリーたちは、これをほぼ純粋なペニシリンだと思っていましたが、あとで分かったところによると、このときのペニシリンの純度は、なんと0.1%以下であったといいます。しかし、このペニシリンは、ブドウ球菌に感染して衰弱したマウスを見事に立ち直らせ、しかもマウスには何の影響も与えないことが分かりました。また、フローリーたちが、この実験にマウスを使ったのは僥倖でした。人間の生理機能と化学組成の大部分は、他の哺乳類と共通していますが、薬物に対する反応は、人間と動物とで異なる場合があります。例えば、アスピリンは、ネコにとって致命的な毒物になりますし、ペニシリンもまた、モルモットに対しては毒物として作用するのです。もしこのとき、フローリーたちがモルモットを実験に使っていたら、世界初の抗生物質が、生産ラインに乗ることはなかったかもしれません。
図.5 モルモットにとって、ペニシリンは猛毒になる
新たにフローリーの部下である化学者のノーマン・ヒートリーを加えた実験チームは、ペニシリンの増産に励み、1941年には、膿瘍に悩む患者への注射ができるまでにこぎ着けました。この患者はバラの棘で指を傷付け、細菌に感染して化膿が全身に及び、瀕死の重傷でした。――これは、いわば冒険的な治療でした。ペニシリンが細菌感染症に有効なのか分かりませんでしたが、ペニシリンを最初に200 mg注射し、3時間おきに100 mgずつ注射していきました。すると、この患者の症状は、見る間に改善の兆しを見せ、5日後には熱が下がり、食欲も湧いて腫れも引いてきました。この結果を受け、これまで手をこまねいて死を待つしかなかった細菌感染症患者の治療は、夢ではないと思われるようになりました。しかし、すでに1939年にヨーロッパに勃発した第二次世界大戦が、まさにたけなわとなっており、ドイツ空軍の爆撃に曝されたイギリス本土では、これ以上のペニシリン研究・生産は、ほとんど不可能になっていました。
思い余ったフローリーは、アメリカに渡ることにしました。手を差し伸べたのは、アメリカ最大の慈善事業団体であるロックフェラー財団と、アメリカの微生物学者であるアンドリュー・モイヤーでした。そして、1941年10月にアメリカでのペニシリン生産に関する第一回委員会が開催され、翌1942年3月には、早くも1億2,300万単位のペニシリンが作られることになったのでした。奇しくも時世は第二次世界大戦の真っただ中、ペニシリンの登場は、戦場で計り知れない多くのアメリカ兵の命を救ったはずです。1944年6月には、「史上最大の作戦」ともいわれたノルマンディー上陸作戦が行われ、ペニシリンは、その真価を遺憾なく発揮しました。運ばれてくる戦傷者は、ペニシリンのおかげで、ほとんどガス壊疽や敗血症を起こすことなく、無事回復しました。これが、有名なペニシリン発見物語のあらましです。
図.6 ノルマンディー上陸作戦では、200万人近い兵員がドーバー海峡を渡り、コタンタン半島のノルマンディー海岸に上陸した
ペニシリンの功績を称えて、1945年にノーベル生理学・医学賞が与えられていますが、受賞したのはフレミング、フローリー、チェーンの3名で、ペニシリンの臨床実験に大きな貢献をしたヒートリーは受賞していません。ノーベル賞には、各部門3名までという制限があるためです。最後にペニシリンプロジェクトに参加していたモイヤーが、研究開始時の約束を破って、ヒートリーを共著者から外してしまったことも一因かもしれません。イギリス人であるフレミングが発見して、イギリスのオックスフォード大学のフローリーとヒートリーが開発したペニシリンですが、最終段階がアメリカにあったために、ペニシリンの特許料はほとんどイギリスには入っておらず、それどころか、イギリスがアメリカに特許料を支払っている始末であるというのは、何とも皮肉な話です。
(2) 日本におけるペニシリン
ペニシリンは、アオカビが周囲の細菌から、自分の身を守るために作っていると考えられます。ペニシリンを分泌することで、他の細菌との生存競争を有利に進めることができるのです。微生物の世界では、このような「ある微生物が他の菌の繁殖を抑えて、その微生物のみが増える」という拮抗作用が日常的に起こっています。この現象が捉えられたのは古く、1876年のアイルランドの物理学者ジョン・ティンダル、翌年のフランスの細菌学者ルイ・パスツールによって報告されています。この現象の正体を解明したのは、1907年、日本の微生物学者である斎藤賢道でした。日本酒・醤油・味噌・焼酎などを醸すのに使われる「麹菌」が、結核菌や多くの悪性ブドウ球菌の生育を阻止する物質を生産することを立証したのです。その物質の構造は、1911年に農芸化学者の薮田貞治郎が決定し、それを「麹酸」と名付けました。しかし、このような化合物を医療に応用しようという発想は、1928年のフレミングのペニシリン発見を待たなければなりません。
図.7 「麹酸」は、麹菌がグルコースを発酵させることによって生成し、弱い抗菌作用を持つ
日本では、1944年1月27日の朝日新聞に、エジプト遠征した際に肺炎にかかったイギリスのチャーチル首相が、ペニシリンによって命拾いをしたというニュースが掲載されました。このニュースが刺激となって、同年2月1日には、日本にも陸軍軍医学校内にペニシリンを研究するための委員会が発足しました。また、「ペニシリン」という名称についても、日本で得られたものが、必ずしもフレミングの発見したペニシリンとは限らないので、後にアオカビの「青」にちなんで、「碧素(へきそ)」という和名に改められています。なお、実はこのニュースは誤報で、チャーチルの肺炎を治療したのは、実際にはペニシリンではなく、「サルファ剤」であったことが、今は判明しています。
図.8 「碧素」は、敗血症や肺炎などによく効いたため、生産当初は薬剤の色から「黄色の魔術」と呼ばれたこともあった
ペニシリンに関する情報は、実のところ、その前年の1943年の秋頃に、ドイツから帰った日本の潜水艦によってもたらされ、すでに文部省から、陸軍軍医学校の軍医少佐であった稲垣克彦の手に渡っていました。稲垣は、東京大学医学部在学中に陸軍の依託学生になり、軍医任官後は、満州などの勤務を経て、1942年に陸軍軍医学校の教官となった人物です。稲垣は、当時治療薬として広く用いられていた「サルファ剤」が効かない病気にもペニシリンが効くと知り、早速これを緊急課題とするべきだと具申していました。しかし、軍はペニシリンの優先順位は低いと見なし、なかなか取り上げてもらえずにいたのです。ともあれ、チャーチルのニュースが切っ掛けとなって、日本のペニシリン研究は、稲垣を主任者として、当時の基礎医学・物・臨床・化学・農芸化学・薬学・植物などの各分野の権威を集めてスタートしました。
そして驚くべきことに、日本の研究チームは、その年の10月には、早くもペニシリンらしい粉末をアオカビの培養液から採取することができ、11月には、森永乳業の三島工場や万有製薬の岡崎工場などで、ペニシリンの生産が開始されたといいます。11月の朝日新聞には、「短期間に見事完成 世界一碧素 わが軍陣医学に凱歌」という題で、大々的に研究成果を報じています。この間に費やされた時間は、実に1年にも満たなかったのです。生産されたペニシリンは、純度は低かったものの、不思議とよく効きました。純度が低いため、体外へ排出されにくくなり、よく効いたのではないかといわれています。しかし、物資不足により量産化には失敗し、戦場の兵士たちを救うには至りませんでした。もしこのときにペニシリンの量産が成功していたら、戦後の歴史は、違ったものになっていたのでしょうか。
1945年8月、広島・長崎の原爆投下のあと、日本は終戦を迎えました。同年9月には、GHQ(連合軍総司令部)から陸軍病院へと、被爆者治療用のアメリカ製のペニシリンが届けられました。ガラス瓶に入ったペニシリンは、純度が高くて白かったそうです。1946年に日本ペニシリン学術協議会が設立されると、GHQはペニシリン研究の権威であるテキサス大学のジャクソン・フォスターを日本に招聘しました。フォスターは、日本各地でペニシリン生産上の秘訣を公開講演し、日本各地の工場を積極的に回って指導しました。フォスターの尽力もあって、1949年には、日本の製薬会社各社が上質の結晶ペニシリンを生産できるようになり、自給可能になりました。その結果、日本では抗生物質の開発および生産が著しく増大し、乳児から高齢者までのすべての年齢層で、感染症による死亡率が著しく減少しました。
図.9 日本製のペニシリンは褐色だったが、アメリカ製のペニシリンは純度が高くて白色だった
ちなみに、村上もとか作の漫画「Jin-仁-」は、主人公で医師の南方仁が、幕末にタイムスリップし、その知識を活かして、当時の人々を救うという大胆な設定の作品であり、テレビドラマ化もされて、大ヒットしました。この作品では、南方仁が自ら製造したペニシリンで、江戸の町民を救うシーンが、前半の大きな山場となっています。発酵・抽出・濾過などの操作に慣れた醤油製造職人たちの協力を得て、アオカビからペニシリンを製造するシーンは、非常にリアリティのあるものになっていたと思います。
しかし、芝哲夫著「化学物語25項」によれば、「谷中の笠森(瘡守)稲荷は徳川家康がカビの汁で、刀傷を癒したことが始まり」とあります。徳川家康は、「小牧・長久手の合戦」の最中、刀傷から黄色ブドウ球菌のような菌が入り、背中に大きな腫れ物ができてしまいました。日に日に悪化していく容態を見かねて、家臣の1人が笠森稲荷に向かい、「腫れ物に効く」という土団子を持ち帰りました。アオカビの生えたその土団子を背中に塗りつけたところ、おびただしい膿が噴き出て、腫れ物は治癒したといいます。これは、「アオカビに含まれていたペニシリンのおかげであった」というものです。これは少々眉唾ですが、これが本当の話なら、日本人はペニシリン発見よりも300年以上も前に、抗生物質を利用していたことになります。とはいえ、土壌中には雑菌も多いので、むやみに土を傷口に塗り付ければ、重い細菌感染症になる可能性もあります。家康の真似はしない方が賢明でしょう。
図.10 ペニシリンは、徳川家康の刀傷も癒したのだろうか
(3) ペニシリンの化学
なぜペニシリンは動物には害がなく、細菌だけを殺すのでしょうか?ペニシリンの分子構造は、1945年にイギリスの生化学者ドロシー・ホジキンらのX線結晶解析によって明らかにされ、それまでに知られていた天然有機化合物とは全く異なり、「β -ラクタム」という構造を持つ新規なものでした。これは、炭素原子3個と窒素原子1個からなる四角い環状構造の部分です。β -ラクタムは、極めて珍しい構造であり、天然にこんな化合物が存在するとは、それまで想定もされていませんでした。β -ラクタムの環は、炭素-炭素結合を無理やり四角にねじ曲げているので、歪みエネルギーが大きく、何かきっかけがあれば、すぐに環が開いてしまいます。言い方を変えれば、「化学的に反応性が高い」ということになります。
細菌は、堅牢な網目状の分子でできた「細胞壁」といわれる丈夫な鎧を身にまとうことで、その体を外界から守っています。ペニシリンは、この細胞壁の主要成分である「ペプチドグリカン」を合成する酵素に取りつくと、β -ラクタム部分が開いて結合してしまい、酵素機能を失わせます。つまり、ペニシリンは、細菌の細胞壁の生合成を阻害することで、抗菌作用を示すのです。細菌は、健全な細胞壁を合成できなくなると、細胞分裂に伴ってその細胞壁はどんどんと薄くなり、増殖が抑制されます。また、細菌細胞質の浸透圧は、動物の体液よりも一般に高いため、細胞壁が薄くなると、内部の浸透圧に耐えられず、破裂して死んでしまいます。人間や動物の細胞は、細菌と違って細胞壁を持たないため、基本的にペニシリンは人体には影響がありません。これが、ペニシリンの抗菌作用のメカニズムであり、β -ラクタムの反応性の高さは、抗菌作用と不可分なものです。なお、細胞壁を持たない細菌である「クラミジア」や「マイコプラズマ」に対しては、ペニシリンは抗菌作用を持ちません。また、細胞という形態を取らない「ウイルス」についても、同様に有効ではありません。
図.11 代表的な「ペニシリンG」の構造式(中央付近の四角形がβ -ラクタム環)
戦後、ペニシリンについての研究が進むと、発見当初に「ペニシリン」と名付けられた物質は混合物であって、実際にはF・G・X・Kのように記号を付けられた何種類ものペニシリンが存在することが分かりました。さらに、それらの化学構造には、「6-アミノペニシラン酸」と呼ばれる基本的な部分が共通して存在することも分かりました。例えば、イギリスで研究された「ペニシリウム・ノタツム」が主に生産した「ペニシリンK」は、6-アミノペニシラン酸のアミノ基(-NH2)にカプリル酸CH3-(CH2)6-COOHがアミド結合したものであり、アメリカで主として「ペニシリウム・クリソゲヌム」によって生産された「ペニシリンG」は、フェニル酢酸C6H5CH2COOHがアミド結合したものです。中でもペニシリンGは、他のペニシリンよりも抗菌活性や培養液からの収量、物質安定性に優れていました。「世界初の抗生物質」として、最初に実用化されたのは、このペニシリンGです。
図.12 「6-アミノペニシラン酸」は、ペニシリンの薬理作用の中核的な部分である
また、ペニシリンGの構造に含まれるフェニル酢酸は、トウモロコシからコーンスターチを製造する際に、副産物として得られる「コーンスティープ液」に微量含まれています。これには、カビの生育に必要なビタミン、ミネラル、アミノ酸なども豊富に含まれます。このコーンスティープ液を培地に加えると、ペニシリンの収量が、12倍にも向上するという報告がありました。それならば、カビを培養するタンクにフェニル酢酸を添加したらどうなるのかと実験したところ、カビは「ペニシリンG」をよく作るようになりました。そして、試しにフェニル酢酸の代わりにフェノキシ酢酸C6H5OCH2COOHを加えてやると、フェニル酢酸に代わってフェノキシ酢酸の取り込まれた「ペニシリンV」が生産されました。このペニシリンVは、不安定なKやGと違って、酸性条件下でも安定な性質を持っているので、内服しても胃で壊されないペニシリンとしてもてはやされました。このようにして、培養液に様々な酸を加えて、人工的にペニシリンを作り出す試みは広く研究され、様々な特徴を持った多くの「生合成ペニシリン」が作られました。
ただし、そんなペニシリンにも問題点はあり、その1つに「ペニシリン・ショック」があります。1956年、日本で歯の治療中にペニシリンを投与された東京大学法学部長の尾高朝雄が、「アレルギー反応」を起こして死亡したのです。このことを契機に、ペニシリン投与との関連性が調査されました。その結果、ペニシリン投与による死亡者が、すでに100名を超えていたことが明らかになり、大きな社会問題となりました。ペニシリンは、アレルゲンとしての一面を持ち、アレルギー反応を起こしやすいのです。およそ0.01〜0.001%程度の確率で、重篤なアレルギー症状である「アナフィラキシー・ショック」を引き起こすことが分かっています。
(4) 抗生物質の現在
「抗生物質」には、細菌を死滅させる「殺菌作用」や、増殖を抑える「静菌作用」があるため、「抗菌薬」として用いられます。抗生物質の登場によって、人類は、細菌感染症への強力な対抗手段を得たのです。かつては「死の病」といわれていた数々の病気が、抗生物質の登場後は、やすやすと治るようになりました。明治期から戦前にかけて、日本人の平均寿命は40歳台で推移しています。当時、乳幼児死亡率は高かったし、20〜30代の若さで亡くなることも、さほど珍しいことではありませんでした。しかし、1950年には、日本人の平均寿命は60歳前後となり、現在では、80歳を超えています。これは、連合国の占領軍の指示によって、急速に改善された衛生環境や栄養状態などの要因が考えられますが、ペニシリンを始めとする抗生物質の普及も、大きな役割を果たしているに違いありません。一説によれば、抗生物質の登場により、日本人の寿命は10年も延びたともいわれています。抗生物質は、今やそこらの病院へ行けば、数百円で処方してくれる、ごくありふれた薬となりました。
図.13 日本人の平均寿命の推移(厚生労働省および国立社会保障人口問題研究所による推計結果)
以前は、「抗生物質」というと、病原菌に対する作用を有する化学物質のみを指していました。しかし、現在では、抗生物質のそうした生物活性は、抗菌作用だけに止まらず、抗ガン剤として働くものや、免疫の働きを抑制するものなど、様々な作用を持つ物質が発見されています。例えば、抗ガン作用を有する抗生物質の中には「ブレオマイシン」や「マイトマイシンC」、免疫抑制作用を有するものには「タクロリムス(FK506)」があり、これらはいずれも日本で発見されたものです。生物が分泌した抗生物質に化学的加工を加えたものや、同様の構造を化学的に合成したものは、厳密には「合成抗菌薬」といいます。しかし、一般的にはこれらもすべて、「抗生物質」と呼ばれています。
なお、日本で発見された抗生物質としては、薬学者の大村智が、静岡県伊東市川奈で採取した土に棲んでいた放射菌から発見した「アベルメクチン」があります。この抗生物質を化学変換した「イベルメクチン」は、大村とアメリカの製薬会社メルク・アンド・カンパニーとの共同研究で開発されました。イベルメクチンの効果は強烈で、寄生虫が5万匹棲みついているウシに対して、たったの0.2 mgを1回投与しただけで、寄生虫が全滅するほどの威力があります。イベルメクチンは、寄生虫の神経細胞が持つチャネルに入り込み、神経伝達を阻害することで、寄生虫を麻痺させて死に至らせます。イベルメクチンは、アフリカ諸国で蔓延している「バンクロフト糸状虫」や「オンコセルカ(回旋糸状虫)」といった、「フィラリア」と呼ばれる寄生虫の仲間が起こす風土病の症状改善に、極めて優れた効果を示しました。
図.14 「フィラリア」は細長い糸状の寄生虫で、蚊やブユのような吸血昆虫を介して感染する
バンクロフト糸状虫は、寄生すると「象皮症」などを引き起こします。象皮症の患者は、体の末梢部の皮膚や皮下組織の結合組織が著しく増殖して硬化し、ゾウの皮膚状の様相を呈するため、この名が付いています。有名なものでは、幕末の維新の志士である西郷隆盛が象皮症に感染し、陰嚢が人の頭大に膨れ上がっていたという記録が残されています。西郷は、そのために晩年は馬に乗ることができず、もっぱら駕篭を利用していたようです。また、オンコセルカが寄生して引き起こす「オンコセルカ症」は、「河川失明症(リバーブラインドネス)」とも称され、川の近くに棲むブユに刺されることで感染します。体内に入り込んだオンコセルカが目に入り込むと、視神経に障害を与えて、最悪の場合失明に至ります。視力を失わせることもさることながら、川の近くの土地が耕作地として利用不可能になることにも繋がりますので、非常に影響の大きい病気です。
図.15 「象皮症」は、ヒトを宿主とするフィラリア類が寄生することにより引き起こされる
イベルメクチンは、1988年からはWHO(世界保健機関)を通して、アフリカの当該諸国にメルク社から無償で配布されており、現在までに推定で2億人以上もの人々を病魔の危険性から救いました。このペースで行けば、フィラリアが引き起こす風土病を2020年までに撲滅できると見られています。イベルメクチンは、まさに「アフリカを救った薬」といえるでしょう。この他にも、大村は微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまでに類のない480種を超える新たな化学物質を発見しています。それらにより、細菌感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に大きな貢献をしてきました。これらの功績から、2001年には「日本学士院の会員」、2012年には「文化功労者」に選定され、2015年には「ノーベル生理学・医学賞」を受賞しています。
図.16 薬学者の大村智は、2015年に日本人で3人目となる「ノーベル生理学・医学賞」を受賞した
ちなみに、大村が長年行っていた研究は、天然の植物や微生物から医薬を見つけ出すという、極めて古典的な手法です。分子生物学の最先端を行く分子標的治療薬の開発のような、学問的な意味での派手さはなく、言ってしまえば「泥臭い研究」です。大村がノーベル生理学・医学賞を受賞したあと、2001年にノーベル化学賞を受賞した化学者の野良良治は、「大村博士の人格への受賞でもあり、ノーベル平和賞でも良かったのではないか」という意味のコメントをしています。これは、2015年のノーベル生理学・医学賞の本質を突いた一言ではないかと思います。近年のノーベル賞は、貧困の解消や環境問題への貢献が重視される傾向があるからです。例えば、2014年のノーベル物理学賞は、青色LEDを開発した赤ア勇・天野浩・中村修二の3名に贈られましたが、その受賞理由には、地球資源の節約、配電網を利用できない地域の生活の質を高めることへの期待などが盛り込まれています。貧困の解消や生活環境の改善に結び付く医薬こそ、ノーベル賞という最高の栄誉にふさわしいと評価されたのです。
表.1 主な「抗生物質」と「合成抗菌薬」
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分類 |
主な一般名 |
殺菌作用のある 抗生物質 |
ペニシリン系 |
フェネチシリンカリウム アンピシリン |
セフェム系 |
セファレキシン 塩酸セフォチアム セフチゾキシムナトリウム |
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モノバクタム系 |
アズトレオナム |
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カルバペネム系 |
メロペネム |
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グリコペプチド系 |
硫酸ポリミキシンB |
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静菌作用のある 抗生物質 |
テトラサイクリン系 |
塩酸ミノサイクリン |
マクロライド系 |
クラリスロマイシン |
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合成抗菌薬 |
キノロン系 |
ピペミド酸三水和物 |
ニューキノロン計 |
シプロフロキサシン レボフロキサシン |
(5) 細菌との終わりなき戦い
抗生物質の発見は、人類を細菌感染症との戦いから解放したかに思われました。抗生物質の登場により、数百万年に渡って人類を苦しめてきた難病――結核、ペスト、チフス、赤痢、コレラなどの細菌感染症の多くが、このわずか数十年のうちに駆逐されていったのです。しかし、これは新たな戦いの幕開けでもありました。細菌に対して同じ抗生物質を使い続けると、細菌は間もなく、その薬に対する抵抗力を持つようになります。このような抗生物質が効かない細菌を、「薬剤耐性菌」といいます。
例えば、1940年代の初めには、早くもペニシリンの効かない細菌が登場していました。ペニシリン耐性菌の場合は、「β -ラクタマーゼ」という酵素を作れるようになっています。ペニシリンの活性の元は、「β -ラクタム」という四員環部分にあります。しかし、β -ラクタマーゼは、このβ -ラクタムの四員環構造を破壊し、無効化してしまうのです。この他の抗生物質に対しても、細菌はこれを分解して無効化したり、自分自身の構造を変えたりして、抗生物質に対抗していることが分かっています。
さらに、薬剤耐性菌の出現メカニズムについても、驚くべきことが分かりました。例えば、ある細菌が遺伝子の突然変異により、たまたま薬剤耐性を獲得したとします。細菌は、このような環境に適した形質を獲得すると、その遺伝子をパッケージにして、他の細菌に配ります。このパッケージされた遺伝子のことを、「プラスミド」といいます。1匹でも薬剤耐性遺伝子を獲得した変異種が現れると、「薬剤耐性プラスミド」を他の細菌に分けて回るので、薬剤耐性を獲得した細菌が激増します。たとえ新しい抗生物質を開発したとしても、使い始めて数カ月から数年もすると、いつかは必ずそれが効かない耐性菌が現れます。そして、このような耐性菌に対しては、従来の抗生物質は効力を持たないので、新たな抗生物質の開発が求められます。まさに、薬剤の開発と細菌の進化との終わらなき戦いです。
図.17 「プラスミドDNA」は、細菌の細胞質内に存在し、「ゲノムDNA」とは独立して自律的に複製を行う
また、薬剤耐性は、同じ種類の細菌同士だけでなく、他の種類の細菌にも広がることが分かっています。例えば、薬剤耐性を持った黄色ブドウ球菌と普通の赤痢菌を混ぜておくと、やがて薬剤耐性プラスミドが赤痢菌へと受け渡され、赤痢菌は一挙に薬剤耐性を獲得します。バイオ産業はかなり発展していて、薬剤耐性プラスミドは、金さえ出せれば手に入れることができるといいます。実際に半日もあれば、どんな抗生物質も効かない結核菌やらコレラ菌やらを作れてしまうのです。イギリスなどでは、耐性菌問題は「テロリズム並みの国家に対する脅威」とされ、対策が講じられています。安易な抗生物質の使用は、耐性菌を育成する環境を作り出すだけなのです。すでに黄色ブドウ球菌では98%、肺炎球菌でも37%にペニシリンが効かないといいます。
特に日本の医療現場は、抗生物質を使い過ぎているといわれ、問題視されています。日本は、健康保険によって医療費の自己負担額が少なくなるため、軽度な症状にも、抗生物質を処方することが多いのです。例えば、風邪を引くと、患者自身が医師に対して、抗生物質の処方を求めることがしばしば見られます。しかし、実際には、抗生物質は「細菌感染症」には有効ですが、「ウイルス感染症」には全く効果がありません。風邪の原因の90%はウイルスの感染であるといわれており、大半は「ライノウイルス」や「コロナウイルス」と呼ばれるタイプです。風邪で免疫力が落ちたところに、病原性細菌に「二次感染」し、気管支炎や肺炎などを発症した際には効果を発揮するものの、その予防効果はほとんどないといわれています。抗生物質を飲んでも、気休めにしかならないのです。
表.2 風邪症候群の原因となるウイルス
病原体 |
風邪に占める割合 |
ライノウイルス |
30〜50% |
コロナウイルス |
10〜15% |
パラインフルエンザウイルス |
10〜15%
|
RSウイルス |
|
インフルエンザウイルス |
|
アデノウイルス |
|
その他のウイルス |
5% |
未発見ウイルス |
30〜35% |
β-溶血性連鎖球菌 |
5〜10% |
「ウイルス感染」に対する体の免疫機構が、14〜22時にかけて活発になるのに対し、「細菌感染」に対する体の免疫機構は、5〜12時にかけて活発になるという報告もあります。この報告に従えば、午後に発熱が起こった場合は、ウイルス性の風邪である可能性が高いということになります。しかし、医師自身も、多少の細菌感染の疑いがある場合や、肺炎の恐れがある場合には、細菌感染の検査をする前に、抗生物質を処方してしまうことがあるようです。一説には、現在使用されている抗生物質の半分から3分の1は、実際には不必要なものであるともいわれています。初期の軽度な風邪に抗生物質をバシバシと処方する医者は、「バイオハザード」を起こしたがっているとしか思えません。
図.18 「アデノウイルス」は、風邪の原因となる主要病原ウイルスの1つ
安易な抗生物質の使用により、すでに危険な耐性菌が出現しています。例えば、「MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)」という耐性菌は、「メチシリン」という特別な抗生物質にも耐性を持った黄色ブドウ球菌です。メチシリンは、β -ラクタマーゼによって分解されにくく、耐性菌に強い抗生物質として登場しました。しかし、これさえもMRSAには効かないのです。MRSA自体は、健康な人の皮膚や腸内にあっても、何の害も及ぼしませんが、これにはペニシリンを含む多くの抗生物質が全く効きません。MRSAは、抗生物質が多用される大病院などで多く発生し、免疫力の低下した入院中の患者に「院内感染」することが問題になっています。一度感染すると、ほとんどの抗生物質が効かないため、治療は極めて困難になります。適切な治療が受けられないと、「肺炎」や「髄膜炎」、「敗血症」などを引き起こし、症状が重いと、死に至る危険性もあります。
図.19 「メチシリン」は、ペニシリンに耐性を持つ細菌に対抗するために1960年に作られた抗生物質
このような薬剤耐性を持った黄色ブドウ球菌に対しては、「バンコマイシン」などの少数の抗生物質のみが殺菌力を発揮します。バンコマイシンは、1956年の登場以来、30年以上も長らく耐性菌が出現せず、「最強の抗生物質」としての地位を守り続けてきました。バンコマイシンは、細胞壁の材料分子に対して立体的に結合し、細胞壁の形成を妨げ、またタンパク質の合成に必要な分子の生産も妨害します。このため、従来は「耐性菌が発生しない薬」と考えられていました。
しかし、この「最強の壁」も、遂に崩れるときがやってきました。1987年、このバンコマイシンにも耐性を持つ細菌の出現が報告されたのです。「最強の抗生物質」と思われていたバンコマイシン敗退のニュースは、世界の医学界に大きな衝撃を与えました。この薬剤耐性菌は、人間の腸の中に常在する腸球菌で、「VRE(バンコマイシン耐性腸球菌)」といいます。VREでは、細胞壁の材料分子の構造がわずかに変化しており、バンコマイシンが結合しにくい状態になっています。VRE出現の原因は、ヨーロッパ畜産業者が、食肉にする鳥や動物にバンコマイシンに似た抗生物質(日本では使用されていません)を、無節制に与え続けていたことにあると考えられています。VRE自体は、あまり有害性の高い病原菌ではなく、通常は感染してもほとんど発症しません。しかし、高齢や病気などのために免疫力が低下していると、激しい症状を現します。
アメリカ疾病管理センター(CDC)によると、アメリカでは腸球菌のうち、バンコマイシンに耐性を持つ菌(VRE)の割合は、1989年には0.3%でしたが、1993年には8%、1996年には10%に上昇したということです。VRE感染症を発症した患者の致死率は、70%を超えると報告されており、院内感染が発生した場合は、極めて深刻な事態が生じると考えられています。さらに2002年には、薬剤耐性プラスミドがVREから黄色ブドウ球菌へと伝わり、「VRSA(バンコマイシン耐性黄色ブドウ球菌)」が登場しました。いずれ、さらに病原性の強い細菌が、バンコマイシンへの耐性を獲得することも、十分にあり得ることです。
図.20 「バンコマイシン」は、ほとんどの抗生物質に対して耐性を獲得したMRSAに対する特効薬とされていた
現在は、もはや治しようのない細菌感染症が出現しても、全くおかしくない状況にあります。最近では、抗生物質に耐性を持つ結核菌も増えており、すでに終息したかのように思われていた結核感染が、再び拡大しています。どのような抗生物質を用いたとしても、いつかは必ずその抗生物質が効かない耐性菌が現れます。私たちにできることは、抗生物質が有効に使える期間を少しでも長くすること――すなわち、不要な抗生物質の使用を止めて、耐性菌の出現を遅らせることしかありません。
抗生物質研究の第一人者であった細菌学者の梅澤濱夫は、かつて「科学は耐性菌と競争しているが、科学の方が耐性菌より大分先を進んでいる」と述べたことがあります。梅澤は、微生物化学研究所を開設して、ガンに有効な抗生物質を、世界で初めて開発したことでも知られています。しかし、現実は梅澤の言葉とは相容れず、細菌が突然変異する猛烈なスピードに、科学は圧倒されつつあります。抗生物質の出現によって、人類は細菌感染症との戦いに勝利したかに思われました。しかし、細菌との戦いはこれからもまだ続き、残念ながら、それは終わりの見えない戦いであるようです。
・参考文献
1) 枝川義邦「身近なクスリの効くしくみ」技術評論社(2010年発行)
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5) 佐藤健太郎「世界史を変えた薬」講談社(2015年発行)
6) 左巻健男「面白くて眠れなくなる化学」PHP研究所(2012年発行)
7) 鈴木勉「毒と薬【すべての毒は「薬」になる!?】」新星出版社(2015年発行)
8) 深井良祐「なぜ、あなたの薬は効かないのか?」光文社(2014年発行)
9) 船山信次「こわくない有機化合物超入門」技術評論社(2014年発行)
10) 船山信次「毒の科学-毒と人間のかかわり-」ナツメ社(2013年発行)
11) 矢沢サイエンスオフィス編「薬は体に何をするか」技術評論社(2006年発行)
12) 山崎幹夫「面白いほどよくわかる 毒と薬」日本文社(2004年発行)
13) 山崎幹夫「新化学読本-化ける、変わるを学ぶ」白日社(2005年発行)