・ペニシリンの科学


(1)史上最大のセレンディピティ

 「アオカビ」の生産する未知の物質に、ブドウ球菌や肺炎球菌、淋菌などに対する「殺菌作用」があることを発見したのは、イギリスの細菌学者であるアレクサンダー・フレミングでした。この物質は、全くの偶然に発見されたものでした。

19289月、セントメリー病院に勤務していたフレミングは、ブドウ球菌の変異株を研究していました。ところが、フレミングは、ブドウ球菌を培養しようとしていたシャーレをそのままにして、長期間の家族旅行に出てしまいます。そして偶然にも、そのシャーレの中にアオカビの胞子が飛び込み、化学反応を起こします。これは、微生物学では「コンタミネーション」といわれるもので、単一の微生物を培養していたのに、そこに他の微生物が混ざり込んでしまう現象です。普通の研究者なら、コンタミネーションが起こると実験が失敗したと見なして、シャーレの中身を捨ててしまうところです。フレミングも同様に、シャーレを片付けようと、洗浄の準備を始めます。

しかし、フレミングはその作業に入る直前、ある発見をします。シャーレ内のアオカビの大きなコロニーの周囲では、ブドウ球菌のコロニーが透明になっていて、溶菌を起こしていたのです。「シャーレ内に生えたアオカビが、ブドウ球菌を殺す何らかの物質を生み出しているのかもしれない」と推測したフレミングは、この未知の抗菌物質を「ペニシリン」と命名しました。これが、やがて数百万の人命を救う発見になるとは、このときはフレミング自身も思いもよらなかったでしょう。1929年にイギリスの実験病理学雑誌に発表されたペニシリンは、ブドウ球菌だけでなく、代表的な病原体である肺炎球菌や淋菌などにも著効を示しました。

 

.1  「抗生物質」の周囲では、黄色ブドウ球菌の繁殖が抑制される

 

しかし、フレミングはこの物質を純粋に分離できなかったので、含量を測定するために、カビの培養濾液を希釈していき、細菌の発育を阻止することができる最低濃度を求める方法を使いました。ちなみに、フレミングのこの方法は、今でも抗生物質の抗菌力を検査するのに用いられています。その結果、フレミングの培養濾液は、200倍、300倍と希釈していっても、いっこうにブドウ球菌の発育阻止を止めず、800倍にまで希釈しても、まだ発育阻止力を保つほど強いことが分かりました。結果的に、このカビの生産するペニシリンは、当時殺菌によく用いられていた消毒薬のフェノールより、数倍も強い細菌発育阻止力を持つことが認められました。

フェノールは、傷口の殺菌はできても、体内に入り込んだ細菌を退治することはできません。口から飲めば、細菌よりも先に、人体の細胞がダメージを受けるからです。一方で、ペニシリンを服用しても、体内の細胞に対して基本的に害がないことが、動物実験によって明らかになっていました。フレミングは、ペニシリンの発見により、体内に巣食った病原菌との闘いに勝利する可能性を見出しました。

 フレミングは、このカビが「ペニシリウム」に属することを認めて、この物質を「ペニシリン」と命名したのですが、後に、このカビはペニシリウム分類の権威であるアメリカ農務省のチャールズ・トムによって、「ペニシリウム・ノタツム」であると同定されました。このカビは、各種のアオカビの中でも珍しい種類であり、しかもずば抜けたペニシリン生産能力を持っていました。この珍奇なカビが、フレミングのシャーレの中に飛び込んできたのは、僥倖としか言いようがありません。

ただし、このカビによって生産されるペニシリンの量はほんのわずかであり、25℃以上になると、ペニシリンを生産しないという問題がありました。しかも、ペニシリンが非常に不安定な化合物であったため、純粋に取り出すことも、長期間保存することも難しかったのです。それ故に、これ以上に研究を進めることはなかなか難しく、当時としては、カビの生産する物質の化学研究において世界一であったロンドン大学のハロルド・レイストリックでさえ、遂にはペニシリンを純粋に分離する研究を断念してしまったほどです。フレミングも、以後ペニシリン研究を続行することはなく、ペニシリンの発見は、それから10年近くもの間、研究者たちから忘れ去られました。

 

.2  「アオカビ」が生えたミカン

 

 しかし、第二次世界大戦直前の1938年になって、オックスフォード大学の生理学者であるハワード・フローリーは、ふとした機会にフレミングの論文に目を止めました。フローリーは、微生物の生産する天然の抗菌性物質の研究をしていましたが、たまたま読んだフレミングのペニシリンの発見に関する論文に興味を魅かれ、同僚の生化学者であるエルンスト・チェーンらと手を組んで、ペニシリンの研究に乗り出すことにしたのです。

 カビの培養は、通常ガラス容器で行うのですが、フローリーたちは、陶器製のフラスコで培養する方法を考案しました。そして、100マイルも離れた工場に頼んで作ってもらい、174個の陶器製の培養フラスコを受け取りました。培養を開始できたのは、1940年のクリスマスイブだったといいます。フローリーたちは、雑菌に汚染されないように注意しながら、何回もペニシリウム・ノタツムの培養を繰り返し、培養濾液からペニシリンを抽出し続けました。フローリーたちは、有機溶媒と酸またはアルカリ水溶液による抽出操作を徐々に改良し、不安定なペニシリンを損なわずに濃縮する技術を確立していきました。不安定なペニシリンは、迂闊な方法で濾液を処理したりすると、すぐに壊れてしまいました。その精製は困難を極め、フローリーたちは数カ月もかかって、やっとほんのわずかな褐色の粉末を得ただけでした。

しかし、この褐色の粉末は、50万倍に希釈しても、ブドウ球菌の発育を阻止するという驚くべき威力を発揮して、フローリーたちを喜ばせました。フローリーたちは、これをほぼ純粋なものと思っていましたが、あとで分かったところによると、このときのペニシリンの純度は、なんと約0.1%であったといいます。しかし、このペニシリンは、ブドウ球菌に感染させたマウスを見事に立ち直らせ、しかもマウスには何の影響も与えないことが分かりました。また、フローリーたちが、この実験にマウスを使ったのは僥倖でした。人間の生理機能と化学組成の大部分は、他の哺乳類と共通していますが、薬物に対する反応は、人間と動物とで異なる場合があります。例えば、アスピリンはネコにとって致命的な毒物ですし、ペニシリンを投与されると、モルモットは死んでしまいます。もしこのときにモルモットが実験に使われていたら、世界初の抗生物質が、生産ラインに乗ることはなかったかもしれません。

 

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.3  モルモットにとってペニシリンは猛毒である

 

 新たにフローリーの部下である化学者のノーマン・ヒートリーを加えた実験チームは、ペニシリンの増産に励み、1941年には、膿瘍に悩む患者への注射ができるまでにこぎ着けました。この患者はバラの棘で指を傷付け、細菌に感染して化膿が全身に及び、瀕死の重傷でした。――これは、いわば冒険的な治療でした。ペニシリンを最初に200 mg注射し、3時間おきに100 mgずつ注射していきました。すると、この患者の症状は、見る間に改善の兆しを見せ、5日後には熱が下がり、食欲も湧いて腫れも引いてきました。この結果を受け、これまで手をこまねいて死を待つしかなかった感染症患者の治療は、夢ではないと思われるようになりました。しかし、すでに1939年にヨーロッパに勃発した第二次世界大戦がまさにたけなわとなっており、ドイツ空軍の爆撃に曝されたイギリス本土では、これ以上のペニシリン研究・生産はほとんど不可能になっていました。

 思い余ったフローリーは、アメリカに渡りました。手を差し伸べたのは、アメリカのロックフェラー財団とアンドリュー・モイヤーでした。そして、194110月にアメリカでのペニシリン生産に関する第一回委員会が開催され、翌19423月には、早くも12,300万単位のペニシリンが作られることになったのでした。奇しくも第二次世界大戦の真っただ中、ペニシリンの登場は、戦場で計り知れない多くのアメリカ兵の命を救ったはずです。19446月には、「史上最大の作戦」ともいわれたノルマンディー上陸作戦が行われ、ペニシリンは、その真価を遺憾なく発揮しました。運ばれてくる戦傷者は、ペニシリンのおかげで、ほとんどガス壊疽や敗血症を起こすことなく、無事回復しました。これが、有名なペニシリン発見物語のあらましです。

 

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.4  ノルマンディー上陸作戦では、200万人近い兵員がドーバー海峡を渡り、コタンタン半島のノルマンディー海岸に上陸した

 

 ペニシリンの功績を称えて、1945年にノーベル生理学・医学賞が与えられていますが、受賞したのはフレミング、フローリー、チェーンの3名で、ヒートリーは受賞していません。ノーベル賞には、各部門3名までという制限があるためです。最後にペニシリンプロジェクトに参加していたモイヤーが、研究開始時の約束を破って、ヒートリーを共著者から外してしまったことも一因かもしれません。イギリス人であるフレミングが発見して、イギリスのオックスフォード大学のフローリーとヒートリーが開発したペニシリンですが、最終段階がアメリカにあったために、ペニシリンの特許料はほとんどイギリスには入っておらず、それどころか、イギリスがアメリカに特許料を支払っている始末であるというのは、何とも皮肉な話です。

 

(2)日本におけるペニシリン

ペニシリンは、アオカビが周囲の細菌から自分の身を守るために作っていると考えられます。微生物の世界では、このような「ある微生物が他の菌の繁殖を抑えて、その微生物のみが増える」という拮抗作用が日常的に起こっています。この現象が捉えられたのは古く、1876年のジョン・ティンダル、翌年のルイ・パスツールによって報告されています。この現象の正体を解明したのは、1907年、日本の微生物学者である斎藤賢道でした。日本酒、醤油、味噌、焼酎などを醸すのに使われる麹菌が、結核菌や多くの悪性ブドウ球菌の生育を阻止する物質を生産することを立証したのです。その物質の構造は、1911年に農芸化学者の薮田貞治郎が決定し、それを「麹酸」と名付けました。しかし、このような化合物を医療に応用しようという発想は、1928年のフレミングのペニシリン発見を待たなければなりません。

 

.5  「麹酸」は、麹菌がグルコースを発酵させることによって生成し、弱い抗菌作用を持つ

 

日本では、1944127日の朝日新聞に、肺炎にかかったイギリスのチャーチル首相が、ペニシリンによって命拾いをしたというニュースが乗りました。このニュースが刺激となって、同年21日には、日本にもペニシリンを研究するための委員会が発足しました。「ペニシリンという名前は敵性語である」ということから、当時はアオカビの「青」にちなんで、「碧素(へきそ)」という和名が付けられています。なお、実はこのニュースは誤報で、チャーチルの肺炎を治療したのは、実際にはペニシリンではなく、サルファ剤であったことが、今は判明しています。

ペニシリンに関する情報は、実のところ、その前年の1943年に、ドイツから帰った日本の潜水艦によってもたらされ、すでに文部省から、陸軍軍医学校の軍医少佐であった稲垣克彦の手に渡っていました。稲垣は、早速これを緊急課題とするべきだと具申していましたが、なかなか取り上げてもらえずにいたのです。ともあれ、日本のペニシリン研究は、稲垣をマネージャー役として、当時の医学・薬学・農学・理学の各分野の権威を集めてスタートしました。

そして驚くべきことに、日本の研究チームは、その年の10月には、早くもペニシリンらしい粉末をアオカビの培養液から採取することができ、11月には、森永製菓の三島工場や万有製薬の岡崎工場で、ペニシリンの生産が開始されました。この間に費やされた時間は、実に1年にも満たなかったといいます。生産されたペニシリンは、数人の患者に投与されて実績を挙げましたが、量産化には失敗し、戦場の兵士たちを救うには至りませんでした。もしこのときにペニシリンの量産が成功していたら、戦後の歴史は違ったものになっていたのでしょうか。

19458月、広島・長崎の原爆投下のあと、日本は終戦を迎えました。同年9月には、GHQ(連合軍総司令部)から陸軍病院へと、被爆者治療用のアメリカ製のペニシリンが届けられました。ガラス瓶に入ったペニシリンは、純度が高くて白かったそうです。1946年に日本ペニシリン学術協議会が設立されると、GHQはペニシリン研究の権威であるテキサス大学のジャクソン・フォスターを招聘し、日本にアメリカの生産技術を公開しました。フォスターの指導の下に、日本の製薬会社各社がペニシリンの生産を開始し、1949年には、上質の結晶ペニシリンも生産できるようになり、自給可能になりました。その結果、日本では抗生物質の開発および生産が著しく増大し、乳児から高齢者までのすべての年齢層で、感染症による死亡率が著しく減少しました。

 

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.6  日本では、ペニシリンは「碧素」と呼ばれていた

 

ちなみに、村上もとか作の漫画「Jin--」は、主人公で医師の南方仁が、幕末にタイムスリップし、その知識を活かして当時の人々を救うという大胆な設定の作品であり、テレビドラマ化もされて、大ヒットしました。この作品では、南方仁が自ら製造したペニシリンで、江戸の町民を救うシーンが前半の大きな山場となっています。発酵・抽出・濾過などの操作に慣れた醤油製造職人たちの協力を得て、アオカビからペニシリンを製造するシーンは、非常にリアリティのあるものになっていたと思います。

しかし、芝哲夫著「化学物語25項」によれば、「谷中の笠森(瘡守)稲荷は徳川家康がカビの汁で、刀傷を癒したことが始まり」とあります。徳川家康は、小牧・長久手の合戦の最中、刀傷から黄色ブドウ球菌のような菌が入り、背中に大きな腫れ物ができてしまいました。日に日に悪化していく容態を見かねて、家臣の1人が笠森稲荷に向かい、「腫れ物に効く」という土団子を持ち帰りました。アオカビの生えたその土団子を背中に塗りつけたところ、おびただしい膿が噴き出て、腫れ物は治癒したといいます。これは、「アオカビに含まれていたペニシリンのおかげであった」というものです。これは少々眉唾ですが、本当の話なら、日本人はペニシリン発見よりも300年以上も前に、抗生物質を利用していたことになります。とはいえ、土壌中には雑菌も多いので、むやみに土を傷口に塗り付ければ、重い細菌感染症になる可能性もあります。真似はしない方が賢明でしょう。

 

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.7  ペニシリンは、徳川家康の刀傷も癒したのだろうか

 

(3)ペニシリンの化学

 なぜペニシリンは動物には害がなく、細菌だけを殺すのでしょうか?ペニシリンの抗菌作用の源泉は、その分子構造の中でも、「β -ラクタム」と呼ばれる部分にありました。これは、炭素原子3個と窒素原子1個からなる四角い環状構造です。β -ラクタムは、極めて珍しい構造であり、天然にこんな化合物が存在するとは、それまで想定もされていませんでした。β -ラクタムの環は、結合を無理やり四角にねじ曲げているので、歪みエネルギーが大きく、何かきっかけがあれば、すぐに環が開いてしまいます。言い方を変えれば、「化学的に反応性が高い」ということになります。

 細菌は、堅牢な網目状の分子でできた「細胞壁」といわれる丈夫な鎧を身にまとうことで、その身体を外界から守っています。ペニシリンは、この細胞壁を合成する酵素に取りつくと、β -ラクタム部分が開いて結合してしまい、酵素機能を失わせます。つまり、ペニシリンは、細菌の細胞壁合成を阻害することで、抗菌作用を示すのです。細菌は、丈夫な細胞壁を合成できなくなると、細胞分裂ができなくなり、細胞壁が内部の浸透圧に耐えられず、破裂して死んでしまいます。人間や動物の細胞は、細菌と違って細胞壁を持たないため、基本的にペニシリンは人体には影響がありません。これが、ペニシリンの抗菌作用のメカニズムであり、β -ラクタムの反応性の高さは、抗菌作用と不可分なものです。なお、細胞壁を持たない細菌であるクラミジアやマイコプラズマに対しては、ペニシリンは抗菌作用を持ちません。また、「細胞」という形態を取らないウイルスについても、同様に有効ではありません。

 

.8  ペニシリンGの構造式(中央付近の四角形がβ -ラクタム環)

 

戦後、ペニシリンについての研究が進むと、ペニシリンは一種類だけでなく、FGXKのように記号を付けられた何種類ものペニシリンが存在することが分かりました。さらに、それらの化学構造には、6-アミノペニシラン酸と呼ばれる基本的な部分が共通して存在することも分かりました。例えば、イギリスで研究されたペニシリウム・ノタツムが主に生産したペニシリンKは、6-アミノペニシラン酸のアミノ基にカプリル酸CH3-(CH2)6-COOHがアミド結合したものであり、アメリカで主としてペニシリウム・クリソゲヌムによって生産されたペニシリンGは、フェニル酢酸がアミド結合したものです。

フェニル酢酸は、トウモロコシからコーンスターチを製造する際に、副産物として得られる「コーンスティープ液」に微量含まれています。これには、カビの生育に必要なビタミン、ミネラル、アミノ酸なども豊富に含まれます。このコーンスティープ液を培地に加えると、ペニシリンの収量が12倍にも向上するといわれています。

 

.9  6-アミノペニシラン酸は、ペニシリンの薬理作用の中核的な部分である

 

 面白いことに、カビを培養するタンクにフェニル酢酸を添加してやると、カビはペニシリンGをよく作ります。試しにフェニル酢酸の代わりにフェノキシ酢酸を加えてやると、フェニル酢酸に代わってフェノキシ酢酸の取り込まれたペニシリンVが生産されました。このペニシリンVは、不安定なKGと違って、酸性条件下でも安定な性質を持っているので、内服しても胃で壊されないペニシリンとしてもてはやされました。このようにして、培養液に様々な酸を加えて、人工的にペニシリンを作り出す試みは広く研究され、様々な特徴を持った多くの「生合成ペニシリン」が作られました。

 ただし、そんなペニシリンにも問題点はあり、その1つに「ペニシリン・ショック」があります。1956年、日本で歯の治療中にペニシリンを投与されたショックで、東京大学法学部長の尾高朝雄が死亡したのです。このことを契機に、ペニシリン投与との関連性が調査されました。その結果、ペニシリン投与による死亡者が、すでに100名を超えていたことが明らかになり、大きな社会問題となりました。ペニシリンは、アレルゲンとしての一面を持ち、アレルギー反応を起こしやすいのです。およそ0.010.001%程度の確率で、重篤なアレルギー症状である「アナフィラキシー・ショック」を引き起こすことが分かっています。

 

(4)抗生物質の現在

 「抗生物質」には、細菌を死滅させる「殺菌作用」や、増殖を抑える「静菌作用」があるため、抗菌薬として用いられます。抗生物質の登場によって、人類は、細菌感染症への強力な対抗手段を得たのです。かつては「死の病」といわれていた数々の病気が、抗生物質の登場後は、やすやすと治るようになりました。明治期から戦前にかけて、日本人の平均寿命は40歳台で推移しています。当時、乳幼児死亡率は高かったし、2030代の若さで亡くなることも、さほど珍しいことではありませんでした。しかし、1950年には、日本人の平均寿命は60歳前後となり、現在では、80歳を超えています。これは、連合国の占領軍の指示によって、急速に改善された衛生環境や栄養状態などの要因が考えられますが、ペニシリンを始めとする抗生物質の普及も、大きな役割を果たしているに違いありません。一説によれば、抗生物質の登場により、日本人の寿命は10年も延びたともいわれています。抗生物質は、今やそこらの病院へ行けば、数百円で処方してくれる、ごくありふれた薬となりました。

 

.10  日本人の平均寿命の推移(厚生労働省および国立社会保障人口問題研究所による推計結果)

 

 以前は、「抗生物質」というと、病原菌に対する作用を有する化学物質のみを指していました。しかし、現在では、抗生物質のそうした生物活性は、抗菌作用だけに止まらず、抗ガン剤として働くものや、免疫の働きを抑制するものなど、様々な作用を持つ物質が発見されています。例えば、抗ガン作用を有する抗生物質の中には、ブレオマイシンやマイトマイシンC、免疫抑制作用を有するものにはタクロリムス(FK506)があり、これらはいずれも日本で発見されたものです。生物が分泌した抗生物質に化学的加工を加えたものや、同様の構造を化学的に合成したものは、厳密には「合成抗菌薬」といいます。しかし、一般的には、これらもすべて「抗生物質」と呼ばれています。

 なお、日本で発見された抗生物質としては、薬学者の大村智が発見した「アベルメクチン」があります。この抗生物質の誘導体の1つである「イベルメクチン」は、大村とメルク社との共同研究で開発されました。イベルメクチンは、アフリカに蔓延しているバンクロフト糸状虫やオンコセルカ(回旋糸状虫)といった、フィラリアの仲間が起こす風土病の症状改善に極めて優れた効果を示します。バンクロフト糸状虫は、寄生すると「象皮症」などを引き起こします。象皮症の患者は、身体の末梢部の皮膚や皮下組織の結合組織が著しく増殖して硬化し、ゾウの皮膚状の様相を呈するため、この名が付いています。また、オンコセルカが寄生して引き起こすオンコセルカ症は、「河川失明症(リバーブラインドネス)」とも称され、川沿いに発生します。オンコセルカ症にかかると、成人になるにつれて失明していくので、この別名があります。

 

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.11  「象皮症」は、ヒトを宿主とするフィラリア類が寄生することにより引き起こされる

 

イベルメクチンは、1988年からはWHO(世界保健機関)を通して、アフリカの当該諸国にメルク社から無償で配布されており、約2億人もの人々を病魔の危険性から救いました。この他にも、大村は微生物の生産する有用な天然有機化合物の探索研究を45年以上行い、これまでに類のない480種を超える新たな化学物質を発見。それらにより、細菌感染症などの予防・撲滅、創薬、生命現象の解明に大きな貢献をしてきました。これらの功績から、2001年には日本学士院の会員、2012年には文化功労者に選定され、2015年にはノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

 

.1  主な抗生物質と合成抗菌薬

 

分類

主な一般名

殺菌作用のある

抗生物質

ペニシリン系

フェネチシリンカリウム

アンピシリン

セフェム系

セファレキシン

塩酸セフォチアム

セフチゾキシムナトリウム

モノバクタム系

アズトレオナム

カルバペネム系

メロペネム

グリコペプチド系

硫酸ポリミキシンB

静菌作用のある

抗生物質

テトラサイクリン系

塩酸ミノサイクリン

マクロライド系

クラリスロマイシン

合成抗菌薬

キノロン系

ピペミド酸三水和物

ニューキノロン計

シプロフロキサシン

レボフロキサシン

 

(5)細菌との終わりなき戦い

 抗生物質の発見は、人類を細菌感染症との戦いから解放したかに思われました。抗生物質の登場により、数百万年に渡って人類を苦しめてきた難病――結核、ペスト、チフス、赤痢、コレラなどの細菌感染症の多くが、このわずか数十年のうちに駆逐されていったのです。しかし、これは新たな戦いの幕開けでもありました。細菌に対して同じ抗生物質を使い続けると、細菌は間もなく、その薬に対する抵抗力を持つようになります。これを「薬剤耐性菌」といいます。

 例えば、1940年代の初めには、早くもペニシリンの効かない細菌が登場していました。ペニシリン耐性菌の場合は、「β -ラクタマーゼ」という酵素を作れるようになっています。ペニシリンの活性の元は、「β -ラクタム」という4員環部分にあります。しかし、β -ラクタマーゼは、このβ -ラクタムの構造を破壊し、無効化してしまうのです。この他の抗生物質に対しても、細菌はこれを化学変換したり、自分自身の構造を変えたりして、抗生物質に対抗していることが分かっています。

 さらに、薬剤耐性菌の出現メカニズムについても、驚くべきことが分かりました。例えば、ある細菌が遺伝子の突然変異により、たまたま薬剤耐性を獲得したとします。細菌は、このような環境に適した形質を獲得すると、その遺伝子をパッケージにして配ります。このパッケージされた遺伝子のことを、「プラスミド」といいます。1匹でも薬剤耐性遺伝子を獲得した変異種が現れると、薬剤耐性プラスミドを他の細菌に分けて回るので、薬剤耐性を獲得した細菌が激増します。たとえ新しい抗生物質を開発したとしても、使い始めて数カ月から数年もすると、いつかは必ずそれが効かない耐性菌が現れます。そして、このような耐性菌に対しては、従来の抗生物質は効力を持たないので、新たな抗生物質の開発が求められます。まさに、薬剤の開発と細菌の進化との終わらなき戦いです。

 

.12  「プラスミド」は、細菌の細胞質内に存在し、DNAとは独立して自律的に複製を行う

 

 また、薬剤耐性は、同じ種類の細菌同士だけでなく、他の種類の細菌にも広がることが分かっています。例えば、薬剤耐性の黄色ブドウ球菌と普通の赤痢菌を混ぜておくと、やがて薬剤耐性プラスミドが受け渡され、赤痢菌は、一挙に薬剤耐性を獲得します。バイオ産業はかなり発展していて、プラスミドは、金さえ出せれば手に入ります。実際に半日もあれば、どんな抗生物質も効かない結核菌やらコレラ菌やらを作れてしまうといいます。イギリスなどでは、耐性菌問題は「テロリズム並みの国家に対する脅威」とされ、対策が講じられています。安易な抗生物質の使用は、耐性菌を育成する環境を作り出すだけなのです。すでに黄色ブドウ球菌では98%、肺炎球菌でも37%にペニシリンが効かないといいます。

特に日本の医療現場は、抗生物質を使いすぎているといわれ、問題視されています。例えば、風邪を引くと、患者自身が医師に対して、抗生物質の処方を求めることがしばしば見られます。しかし、実際には、抗生物質は「細菌感染症」には有効ですが、「ウイルス性の風邪」には効果がありません。風邪の原因の90%はウイルスの感染であるといわれており、大半はアデノウイルスやライノウイルスと呼ばれるタイプです。風邪からの二次感染によって、細菌による気管支炎や肺炎などを発症した際には効果を発揮するものの、その予防効果はほとんどないといわれています。抗生物質を飲んでも、気休めにしかならないのです。

「ウイルス感染」に対する身体の免疫機構が、1422時にかけて活発になるのに対し、「細菌感染」に対する身体の免疫機構は、512時にかけて活発になるという報告もあります。この報告に従えば、午後に発熱が起こった場合は、ウイルス性の風邪である可能性が高いということになります。しかし、医師自身も、多少の細菌感染の疑いがある場合や、肺炎の恐れがある場合には、細菌感染の検査をする前に、抗生物質を処方してしまうことがあるようです。一説には、現在使用されている抗生物質の半分から3分の1は、実際には不必要なものであるともいわれています。初期の軽度な風邪に抗生物質をバシバシと出す医者は、バイオハザードを起こしたがっているとしか思えません。

 安易な抗生物質の使用により、すでに危険な耐性菌が出現しています。例えば、「MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)」という耐性菌は、「メチシリン」という特別な抗生物質にも耐性を持った黄色ブドウ球菌です。メチシリンは、β -ラクタマーゼによって分解されにくく、耐性菌に強い抗生物質として登場しました。しかし、これさえもMRSAには効かないのです。MRSA自体は、健康な人の皮膚や腸内にあっても、何の害も及ぼしませんが、これにはペニシリンを含む多くの抗生物質が全く効きません。MRSAは、抗生物質が多用される大病院などで多く発生し、免疫力の低下した入院中の患者に「院内感染」することが問題になっています。一度感染すると、ほとんどの抗生物質が効かないため、治療は極めて困難になります。適切な治療が受けられないと、肺炎や髄膜炎、敗血症などを引き起こし、症状が重いと、死に至る危険性もあります。

 

.13  「メチシリン」は、ペニシリンに耐性を持つ細菌に対抗するために1960年に作られた

 

このような薬剤耐性を持った黄色ブドウ球菌に対しては、バンコマイシンなどの少数の抗生物質のみが殺菌力を発揮します。バンコマイシンは、1956年の登場以来、30年以上も長らく耐性菌が出現せず、「最強の抗生物質」としての地位を守り続けてきました。バンコマイシンは、細胞壁の材料分子に対して立体的に結合し、細胞壁の形成を妨げ、またタンパク質の合成に必要な分子の生産も妨害します。このため、従来は「耐性菌が発生しない薬」と考えられていました。

しかし、この最強の壁も、遂に崩れるときがやってきました。1987年、このバンコマイシンにも耐性を持つ細菌の出現が報告されたのです。「最強の抗生物質」と思われていたバンコマイシン敗退のニュースは、世界の医学界に大きな衝撃を与えました。この薬剤耐性菌は、人間の腸の中に常在する腸球菌で、「VRE(バンコマイシン耐性腸球菌)」といいます。VREでは、細胞壁の材料分子の構造がわずかに変化しており、バンコマイシンが結合しにくい状態になっています。VRE出現の原因は、ヨーロッパ畜産業者が、食肉にする鳥や動物にバンコマイシンに似た抗生物質(日本では使用されていません)を、無節制に与え続けていたことにあると考えられています。腸球菌自体は、あまり有害性の高い病原菌ではなく、通常は感染してもほとんど発症しません。しかし、高齢や病気などのために免疫力が低下していると、激しい症状を現します。

アメリカ疾病管理センター(CDC)によると、アメリカでは腸球菌のうち、バンコマイシンに耐性を持つ菌(VRE)の割合は、1989年には0.3%でしたが、1993年には8%1996年には10%に上昇したということです。VRE感染症を発症した患者の致死率は70%を超えると報告されており、院内感染が発生した場合は、極めて深刻な事態が生じると考えられています。さらに2002年には、薬剤耐性プラスミドがVREから黄色ブドウ球菌へと伝わり、VRSA(バンコマイシン耐性黄色ブドウ球菌)が登場しました。いずれ、さらに病原性の強い細菌が、バンコマイシンへの耐性を獲得することも、十分にあり得ることです。

 

.14  「バンコマイシン」は、ほとんどの抗生物質に対して耐性を獲得したMRSAに対する特効薬とされていた

 

現在は、もはや治しようのない細菌感染症が出現しても、全くおかしくない状況にあります。最近では、抗生物質に耐性を持つ結核菌も増えており、すでに終息したかのように思われていた結核感染が、再び拡大しています。どのような抗生物質を用いたとしても、いつかは必ずその抗生物質が効かない耐性菌が現れます。私たちにできることは、抗生物質が有効に使える期間を少しでも長くすること――すなわち、不要な抗生物質な使用を止めて、耐性菌の出現を遅らせることしかありません。

 抗生物質研究の第一人者であった細菌学者の梅澤濱夫は、かつて「科学は耐性菌と競争しているが、科学の方が耐性菌より大分先を進んでいる」と述べたことがあります。梅澤は、ガンに有効な抗生物質を、世界で初めて開発したことでも知られています。しかし、現実は梅澤の言葉とは相容れず、細菌が突然変異する猛烈なスピードに、科学は圧倒されつつあります。抗生物質の出現によって、人類は細菌感染症との戦いに勝利したかに思われました。しかし、細菌との戦いはこれからもまだ続き、残念ながら、それは終わりの見えない戦いであるようです。


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・参考文献

1) 鈴木勉「毒と薬【すべての毒は「薬」になる!?】」新星出版社(2015年発行)

2) 船山信次「毒の科学-毒と人間のかかわり-」ナツメ社(2013年発行)

3) 山崎幹夫「新化学読本-化ける、変わるを学ぶ」白日社(2005年発行)

4) 左巻健男「面白くて眠れなくなる化学」PHP研究所(2012年発行)

5) 佐藤健太郎「化学物質はなぜ嫌われるのか」技術評論社(2008年発行)

6) 船山信次「こわくない有機化合物超入門」技術評論社(2014年発行)

7) 枝川義邦「身近なクスリの効くしくみ」技術評論社(2010年発行)

8) 矢沢サイエンスオフィス編「薬は体に何をするか」技術評論社(2006年発行)

9) 大宮信光「面白いほどよくわかる 化学」日本文芸社(2003年発行)

10) 山崎幹夫「面白いほどよくわかる 毒と薬」日本文社(2004年発行)

11) 佐藤健太郎「世界史を変えた薬」講談社(2015年発行)

12) 深井良祐「なぜ、あなたの薬は効かないのか?」光文社(2014年発行)