・無機化学(錯イオン生成反応)


(1)錯イオンとは何か?

気体状態の原子から電子を取り去り、陽イオンにするには、イオン化エネルギーという大きなエネルギーが必要でした。それにもかかわらず、金属元素の原子は、物質中では、たいてい陽イオンの形で存在しています。このようなことが可能なのは、電子を放出して不安定な陽イオンになっても、陽イオンの周囲には多くの電子や陰イオンがあるので、それらと強く引き合うことで、全体としてはエネルギー的に安定になるからです。

例えば、塩化銅(II) CuCl2が水に溶解したときのことを考えましょう。銅(II)イオンCu2+ と塩化物イオンCl- が別れると、銅(II)イオンCu2+ は、極めて不安定な状態となります。しかし、周囲には水H2Oしかいないのだから、銅(II)イオンCu2+ は、水H2Oの持つ電子を引き付けようとします。電子の所有権は、当然酸素Oにありますが、銅(II)イオンCu2+ は、この酸素Oの持つ電子を奪い取ろうとするのです。ところが、電気陰性度の関係からいって、銅Cuが酸素Oの持つ電子を奪い取ることはできません。だとすれば、銅(II)イオンCu2+ は、結合に使われていない酸素Oの有する非共有電子対を貸してもらう以外には、生きる道がなくなります。このようにして、銅(II)イオンCu2+ が酸素Oの非共有電対を引き付けた形の結合が、銅(II)イオンCu2+ と水H2Oの酸素Oとの間に生じます。このように、電子対を一方の原子から他方の原子に、一方的に供給して生じる結合は、配位結合(coordinate bond)と呼ばれます。そこで、このときの水H2Oのような作用をする物質を、配位子(ligand)と呼びます。

 

a.png

.1  (II)イオンCu2+ と水H2Oの錯イオン

 

さて、提供された2個の電子e- の中で、実際はその1/4ぐらいの電荷しか、陽イオンに貸し与えられていません。そこで、陽イオンは1個の配位子だけでは満足できないので、さらにいくつか配位子を集めます。集められた配位子は、反発をできるだけ避けようとするから、規則正しく配列します。このようにしてできたのが錯イオン(complex ion)です。溶液中の金属イオンは、基本的にはこのような錯イオンの形で存在し、これを行動単位としています。

 

a.png

.2  様々な錯イオンの形

 

 ところで、電気陰性度の小さい金属(1族や2族など)のイオンの周囲にも、常に配位子が存在します。例えば、ナトリウムイオンNa+ の周囲には、だいたい4分子の水H2Oが常に存在しています。しかし、トリウムイオンNa+ は、本来電子を引き付ける力が弱いため、水H2Oとは安定な結合を作らず、水H2Oは激しく入れ替わっています。したがって、これらのイオンでは水和は起こっていても、錯イオンを形成しているとはいわないのが普通なのです。錯イオンを作りやすいのは、主に電気陰性度が中程度の遷移金属の陽イオンであるのは、このような理由からです。

 また、錯体の安定性は、各種の配位原子の順序によって、大きく2つのグループに分けられることが経験的に示されています。例えば、アルミニウムイオンAl3+ やカルシウムイオンCa2+、鉄(III)イオンFe3+、コバルト(III)イオンCo3+ などの比較的軽い陽イオンは、次のような順序で、陰イオンと安定な配位結合を形成します。

 

F- > Cl- > Br- > I-

O2- > S2- > Se2- > Te2-

N3- > P3- > As3- > Sb3-

 

一方で、銅(I)イオンCu+ や銀(I)イオンAg+、カドミウム(II)イオンCd2+ などの比較的重い陽イオンは、上記とほぼ反対の傾向を示し、次のような順序で、陰イオンと安定な配位結合を形成します。

 

F- < Cl- < Br- < I-

O2- < S2- < Se2- < Te2-

N3- < P3- < As3- < Sb3-

 

その後、1963年にアメリカの化学者であるピアソンは、これをもとにして硬い酸(hard acid)や硬い塩基(hard base)、軟らかい酸(soft acid)や軟らかい塩基(soft base)というように、様々な酸と塩基を分類し、この概念をHSAB原理(hard and soft acids and bases law)と呼びました。ピアソンによれば、HSAB原理を使うことによって、上記の経験則が整理できるというのです。

 

a.png

 

次の表.1に、代表的な酸塩基のHSAB原理の適用例を示します。一般的には、硬い塩基は硬い酸と反応しやすく、軟らかい塩基は軟らかい酸と反応しやすいです。硬い塩基と硬い酸の反応は、イオン結合を主としてクーロン力による寄与が大きく、軟らかい塩基と軟らかい酸の反応は、共有結合を主として軌道間相互作用による寄与が大きいです。HSAB原理は、錯体化学における錯体の安定性や反応性の理解だけでなく、金属触媒の反応機構や化学分析の原理などの理解に広く用いられています。

 

.1  代表的な酸塩基のHSAB原理の適用例

a.png

 

(4)錯イオン生成反応

水溶液中に存在する水和された金属イオンは、金属イオンが水H2Oを配位子として、アクア錯イオンの形となっています。したがって、金属イオンM2+ の水溶液中での配位子Lとの反応は、配位子がH2OからLに交換する反応です。配位子Lの濃度を上げていくと、次に示す平衡が右へずれて、配位していたH2Oが、後から加えられたLに置き換えられていきます。

 

a.png

 

このように、水溶液中で錯イオンを形成する反応は平衡反応で表せるので、一般的に大量の配位子Lを加えると、平衡が大きくずれて、ほとんどすべてのH2OLで置き換わった錯イオンが生成します。なお、水溶液中では、水H2Oが配位しているのが当然であるから、水H2Oを省略して反応式を書くことも多いです。次に水H2O以外が配位している代表的な錯イオンを示します。

 

(i)配位子がアンモニアNH3のアンミン錯イオン

水溶液中のアンモニアNH3の濃度が高くなると、銀(I)イオンAg+ やコバルト(III)イオンCo3+、ニッケル(II)イオンNi2+、銅(II)イオンCu2+、亜鉛(II)イオンZn2+ などが、NH3分子と錯イオンを形成します。この覚え方は、「銀(Ag)(Co)(Ni)どう(Cu)も会えん(Zn)です。アンモニアNH3が配位子の錯イオンは、アンミン錯イオンと呼ばれます。

 

a.png

 

(ii)配位子が水酸化物イオンOH- のヒドロキソ錯イオン(ヒドロキシド錯イオン)

水酸化ナトリウムNaOH水溶液などを加えて、水溶液中の水酸化物イオンOH- の濃度を高くすると、アルミニウムイオンAl3+ や亜鉛(II)イオンZn2+、スズ(IV)イオンSn4+、鉛(II)イオンPb2+ などが、水酸化物イオンOH- と錯イオンを形成します。これらの金属は、酸にも塩基にも反応するので、一般的に両性金属イオン(amphoteric metal ion)と呼ばれます。この覚え方は、「あ(Al)(Zn)すん(Sn)なり(Pb)と両性に溶ける」です。水酸化物イオンOH- が配位子の錯イオンは、ヒドロキソ錯イオンと呼ばれます。また、錯イオン自身が陰イオンの場合は、語尾を「酸イオン」にする約束になっています。

 

a.png

 

なお、アンモニアNH3は弱塩基なので、その水溶液で高濃度(0.1 mol/L以上)の水酸化物イオンOH- を実現することはできません。よって、アンモニアNH3の濃厚水溶液における水酸化物イオンOH- 濃度では、両性金属イオンのヒドロキソ錯イオンを形成することはできません。

 

(iii)配位子がシアン化物イオンCN- のシアノ錯イオン(シアニド錯イオン)

シアン化カリウムKCN水溶液などを加えて、水溶液中のシアン化物イオンCN- の濃度を高くすると、銀(I)イオンAg+ や亜鉛(II)イオンZn2+、鉄(III)イオンFe3+、鉄(II)イオンFe2+ など多くの金属イオンが、シアン化物イオンCN- と錯イオンを形成します。シアン化物イオンCN- が配位子の錯イオンは、シアノ錯イオンと呼ばれます。

 

a.png

 

(iv)配位子がチオ硫酸イオンS2O32- のチオスルファト錯イオン

 チオ硫酸ナトリウムNa2S2O3水溶液などを加えて、水溶液中のチオ硫酸イオンS2O32- の濃度を高くすると、銀(I)イオンAg+ が、チオ硫酸イオンS2O32- と錯イオンを形成します。チオ硫酸イオンS2O32- が配位子の錯イオンは、チオスルファト錯イオンと呼ばれます。

 

a.png

 

(5)錯イオン生成反応を利用した沈殿物の溶解反応

沈殿というのは、難溶性の塩が沈んでいる状態と考えます。しかし、どんな難溶性の塩でも、必ず一部はイオン解離して溶けているのです。例えば、水酸化銅(II) Cu(OH)2の沈殿が生じている水溶液では、次の溶解平衡が成立しています。

 

Cu(OH)2 Cu2+ + 2OH-

 

しかし、水溶液中である限り、銅(II)イオンCu2+ はそのままの形では存在しておらず、実際には[Cu(H2O)4]2+ というアクア錯イオンの形になっているのだから、この反応は、正確には次のように書き表せます。

 

Cu(OH)2 + 4H2O [Cu(H2O)4]2+ + 2OH-  ・・・(I)

 

そして、この水溶液に大量のアンモニアNH3を加えると、水H2OとアンモニアNH3の配位子交換反応が起こります。

 

[Cu(H2O)4]2+ + 4NH3 [Cu(NH3)4]2+ + 4H2O ・・・(II)

 

そうすると、テトラアクア銅(II)イオン[Cu(H2O)4]2+ が減少するので、式(I)の平衡は右へ移動し、結局のところ、水酸化銅(II) Cu(OH)2の溶解が進むことになります。全体としてのイオン反応式は、式(I)+式(II)より、次のように表せます。

 

Cu(OH)2 + 4NH3 [Cu(NH3)4]2+ + 2OH-

 

そこで、金属イオンを含む水溶液に、アンモニアNH3水や水酸化ナトリウムNaOH水溶液を少しずつ加えていくと、次の表.2のように変化します。アンモニア水を加えていった場合でも、アンモニアNH3は弱塩基なので、生じた水酸化物イオンOH- によって、最初は金属水酸化物が沈殿します。そして、さらにアンモニアNH3を加えていくと、最終的にはアンミン錯イオンを形成する金属は、すべて溶解してしまいます。

 

.2  金属イオンを含む水溶液にアンモニアNH3水や水酸化ナトリウムNaOH水溶液を加えたときの変化

a.png

 

ただし、ハロゲン化銀を溶解させるときには、注意が必要です。ハロゲン化銀の中でも、ヨウ化銀AgIは、共有結合性が特に強いために溶解度が極めて小さく、水1 Lに対して、10-8 mol程度しか溶解しません(Ksp=1×10-16)。そこへアンモニア水を加えても、0.1 mol/Lのアンモニア水1 Lに対し、10-5 mol程度までしか溶解度が上がらないので、事実上、ヨウ化銀AgIはアンモニア水には溶解しません。しかし、ヨウ化銀AgIは、アンモニアNH3より配位子として強力なシアン化物イオンCN- やチオ硫酸イオンS2O32- を含む水溶液には溶解します。

 

.3  ハロゲン化銀の溶解反応

a.png

 

 また、シアノ錯イオンであるヘキサシアノ鉄(II)酸カリウムK4[Fe(CN)6]や、ヘキサシアノ鉄(III)酸カリウムK3[Fe(CN)6]の水溶液は、鉄(II)イオンFe2+ や鉄(III)イオンFe3+ の検出に使われます。鉄(II)イオンFe2+ を含む水溶液に、ヘキサシアノ鉄(III)酸カリウムK3[Fe(CN)6]水溶液を加えると、濃青色沈殿を生じます。また、鉄(III)イオンFe3+ を含む水溶液に、ヘキサシアノ鉄(II)酸カリウムK4[Fe(CN)6]水溶液を加えても、同様の濃青色沈殿を生じます。これは、それぞれの水溶液中にKFeIIFeIII(CN)6の構造を持つ、同一の濃青色沈殿が生じたためです。

(III)イオンFe3+ の検出には、チオシアン酸カリウムKSCN水溶液もよく用いられます。チオシアン化物イオンSCN- は、鉄(III)イオンFe3+ [Fe(SCN)(H2O)5]2+ の構造を持つ錯イオンを形成し、血赤色の溶液となります。

 

.4  (II)イオンFe2+ と鉄(III)イオンFe3+ の検出

a.png


戻る

 

・参考文献

1) 齊藤烈/藤嶋昭/山本隆一/19名「化学」啓林館(2012年発行)

2) 石川正明「新理系の化学()」駿台文庫(2005年発行)

3) 平尾一之/田中勝久/中平敦「無機化学」東京化学同人(2013年発行)