BSEの科学


(1)「カニバリズム」による奇病

 映画「ハンニバル」では、イギリスの名優アンソニー・ホプキンスの演じる精神科医のハンニバル・レクター博士が、野心に満ちたアメリカ司法省監査次官補のポール・クレンドラーを拉致し、彼の頭蓋を切り開いてこじ開け、脳をむき出しにします。露出した脳は、効果的な照明によって、闇から浮かび上がります。高度に知的かつ冷酷な連続殺人犯でもあるレクター博士が、ステーキナイフでクレンドラーの脳を薄く切り取ってフライパンで調理し、本人の口元に持っていくと、薬物で意識朦朧となっているクレンドラーは、自分の脳をおいしそうにむしゃむしゃと食べるのです。――2001年に公開された映画「ハンニバル」のこの場面は、脳を切り取られても本人は痛みを感じないという生理学的知識を、原作者であるトーマス・ハリスが物語中に挿入して、観客を戦慄させようとしたのでしょう。大脳の内部には痛覚受容器がありませんから、解剖さえしてしまえば、麻酔は必要ありません。また、頭皮もそれほど神経が多い部分ではないので、局所麻酔で十分です。クレンドラーが、自分の脳の前頭葉を切り取られて、それをステーキとでも思い込んで食べたのも、そのような身体の仕組みを物語っているのです。

 しかしながら、実際に脳を食べるのは禁忌です。もちろん、道徳的に良くないというのもありますが、実際に人肉を食べる習慣(カニバリズム)のある未開の部族などでは、非常に高確率で、「プリオン病」あるいは「伝達性海綿状脳症」(Transmissible spongiform encephalopathyTSE)と呼ばれる疾患が報告されています。

例えば、パプア・ニューギニアに住む山岳民族のフォレ族には、葬儀に際して死者を弔うため、かつて遺体を食する習慣がありました。フォレ族は死者を埋葬し、数日経過して蛆が群がった遺体を掘り起こしてから解体し、蛆と共に遺体を食していたといいます。女性がこの儀式の主な参加者でしたが、子供や老人も脳を食したため、子供や老人を含む多くの女性が、この「プリオン病」に罹患しました。「プリオン病」の潜伏期間は5年から20年とされており、発症後は重度の運動障害や言語障害、認知症などが起こり、3カ月から2年ほどで死に至ります。1958年にカニバリズムの禁止令が出たことで、以後「プリオン病」に罹患する人は激減して、1970年には発症は見られなくなりました。そのときまでに、実に2,684人もの女性や子供たちが、この「プリオン病」で亡くなっていました。

 

.1  パプア・ニューギニアに住むフォレ族には、かつてカニバリズムの習慣があった(画像はこちらからお借りしました)

 

 そして、近年最も大きな食品不安を引き起こしたものの1つに、牛海綿状脳症(Bovine Spongiform EncephalopathyBSE)の問題があります。BSEは「狂牛病」とも呼ばれ、ウシの脳の中に空洞ができ、脳がスポンジ(海綿)状になる奇病です。この病気が発症したウシは、最初は痙攣を起こしたりする程度で、目立った症状は現れませんが、やがて音や接触に対して過敏な反応をするようになり、病状がさらに進行すると、運動機能に関連する部位も冒されて立てなくなり、遂には死に至る恐ろしい病気です。

この病気の原因は、畜産物残渣の再利用という名目で用いられた「肉骨粉」であると考えられています。「肉骨粉」は、タンパク質やカルシウム、リン酸質が豊富な安価な飼料であり、BSEの問題が起こる前までは、よく用いられていました。しかし、その原料は牛・豚・鶏などの屑肉、脳、脊髄、骨、内臓、血液であり、家畜は人間によって意識しない形で、「カニバリズム」をさせられる形となっていたのです。――そして、実はこのBSEも「プリオン病」の一種だといわれているのです。

 

.2  飼料として用いられた「肉骨粉」がBSEの原因といわれている

 

 BSEの発生が初めて確認されたのは1986年、イギリスの牧場においてでした。BSEに感染したウシは、足元がふらついて立っていられなくなり、やがて餌さえ食べられないほど衰弱して、悶死していきました。この後、イギリスでは約18万頭のウシがこの病気になり、数年後にはヨーロッパ一円にも拡大しました。BSE発生から2年後の1988年には、肉骨粉を飼料として用いることが禁止されていますが、BSEの発生数は1992年が最盛期ですから、肉骨粉を飼料に使っていたときから、少なくとも4年はかかっています。つまり、肉骨粉を食べてからすぐに発症するのではなく、肉骨粉を食べてから一定の期間をおいて発症することが分かって来たのです。

また、BSEは「プリオン病」の一種ですが、それまでは種の壁を越えて「プリオン病」が伝染することはほとんどないと考えられていました。しかし、BSEに感染した獣肉で作られたキャットフードを食べたネコが死亡し、解剖したところ「プリオン病」であったことから、食物から感染した疑いが非常に高くなり、ウシ同士以外でも牛肉を通じての感染が疑われるようになりました。そして、1990年代前半までにイギリスを中心に発生していた「クロイツフェルト・ヤコブ病」(一種のプリオン病)が、その後の調査により、BSE感染牛を通じて感染したことが疫学的に高い確率であることが証明され、世界中にパニックを引き起こした訳です。

 

.3  BSEに感染して立てなくなったウシ

 

(2)謎のタンパク質「プリオン」

 さて、BSEの病原体は、実のところ、細菌でもウイルスでもありません。当初は、その潜伏期間の長さから、ウイルス性の病気、とりわけ「遅発性ウイルス(スローウイルス)」が関与していると考えられていましたが、病原体を紫外線照射したり、100℃の熱湯で煮たり、ホルマリン処理したりしたとしても、感染力を失わないことから、研究者たちは頭を悩ませていました。BSEの病原体は、「プリオン」と呼ばれるタンパク質からなる感染因子だったのです。プリオンは遺伝子を持たず、タンパク質のみで自己増殖を行うという、不思議な性質があります。

タンパク質は、アミノ酸がずらりと一列に長くつながり、一定の形に折りたたまれたものです。この折りたたみ方は、タンパク質が機能を発揮する上で非常に重要であり、アミノ酸の配列が決まれば、多くの場合、その折りたたみ方も一通りに決まります。プリオンタンパク質も、通常は体内で一定の形に折りたたまっているのですが、どういう訳なのか、このプリオンにはもう1つの異なった折りたたみ方が存在するのです。正常プリオンとは立体構造が異なるものを、「異常プリオン」と呼んでいます。健康体のウシなどの体内には、正常プリオンが発現していますが、外部から異常プリオンがやってきて、正常プリオンと直接相互作用すると、その折りたたみ方を変えてしまい、正常型が異常型に変化してしまうのです。異常型に変化したプリオンは、さらに別の正常型のプリオンを異常型に変化させ、ネズミ講式に増えていきます。こうして増殖した異常プリオンは、互いに重合することで「β -アミロイド」と呼ばれる構造体を形成し、それが脳細胞に蓄積することで、組織損傷や細胞死を引き起こします。そして、一度この症状を発症した場合、その進行を食い止める手立ては今のところ全くなく、100%の確率で悲惨な死を迎えることになります。

地球上のすべての生物の遺伝情報は、DNAからRNAへ伝わり、そしてタンパク質へと伝達されます。この考え方は、イギリスの分子生物学者であるフランシス・クリックが提唱したもので、「セントラルドグマ」といいます。プリオンが発見されるまでは、遺伝情報の伝達の流れは一方向で、逆流することはないとされていました。すべての病原体は、核酸(DNARNA)によって自己複製を行うと考えられていたのです。ところが、プリオンは「タンパク質からタンパク質へ核酸の介在なしに情報が伝わる」と、アメリカの生化学者であるスタンリー・プルシナーは主張したのです。これは、それまでの生物学の基本原理を真っ向から否定するものでした。

この「プリオン単独仮説」は、当初突飛な説と思われましたが、その後の状況証拠の蓄積により支持者が増え、基本的な部分はほぼ立証が進んだといっても良い状態です。プルシナーは、プリオン研究の業績により、1997年のノーベル生理学・医学賞を受賞しています。とはいえ、ノーベル賞講演の中で、プルシナーはプリオンがまだ仮説の段階であり、原因がウイルスの可能性は完全には否定できないと述べているなど、プリオンの感染・伝染のメカニズムは、未だに謎に包まれたままであるというのが現状です。そもそも、生体が予め持っている正常プリオンがどういう役割を果たしているのかという、最も基本的な事柄ですら、現状ではよく分かっていないのです。

 なお、余談になりますが、最近の研究では、アルツハイマー病もプリオンに似た「β -アミロイド」というタンパク質の脳細胞への沈着が原因であるという説が有力になっています。加齢に平行して、脳細胞に沈着を増すタンパク質が認められるという点などで、プリオン病と類似しています。アルツハイマー病は、「β -アミロイド」の沈着を防ぐ薬などで治療されていますが、携帯電話の電磁波がアルツハイマー病の予防になるという研究報告があります。携帯電話の電磁波によって、「β -アミロイド」の沈着が抑制され、血液中に排出されやすくなることが確認されたからだといいます。

 

.4  プリオンタンパク質には、感染型と非感染型の2種類がある

 

(3)アメリカ産牛肉は食べても安全なのか

 学問的なことはさておき、一般の関心は、「結局アメリカ産牛肉は食べても安全なのか」という点に尽きるでしょう。日本では、「消費者の安心のため」、世界でも例のない全頭検査を実施し、徹底した患畜洗い出しを図りました。アメリカでも数例BSEが発生したため、日本では、同国産牛肉にこの全頭検査を義務付け、度々アメリカ側からの不満にも、日本としては珍しく、頑なにこれを拒否し続けました。しかし、全頭検査の効果には、疑問符が付けられています。現在の検査方法では、もし感染牛がいたとしても、すべてを検出することは不可能だからです。BSE対策で肝心なのは、感染原因となる肉骨粉を使わないこと、そして、脳や脊髄など危険部位の除去であり、これをきちんと行ってさえいれば、人間への感染はまず防げます。

イギリスでは、BSEの恐れが明らかになる前に、約100万頭の感染牛が食用に供された(もちろん危険部位の除去なしで)と考えられますが、人間のプリオン病罹患者の数は約150人に留まっています。この率から計算すると、もし危険部位を除去せずにアメリカ産牛肉を食べたとしても、日本人の感染者発生は、かなり悲観的に見ても年間0.1人程度で、さらに危険部位を除去している現状では、感染確率はどんなに高く見積もっても10億分の1以下と考えられるのです。こうして、現在においては、BSEは世界的に感染リスクの低い人畜共通疫病の1つであるという考えが一般的になり、すでにWHO(世界保健機構)においては、「BSEは伝染性が低く、緊急度・危険度の低い疾病」とされています。実際にEU圏では、「イギリスのBSE発生は100万頭当たり5,000頭以下まで抑えられたため、十分リスクが低いと見なせる」とし、イギリスからの牛肉輸入を2006年に解禁しています。

しかし、こうしたデータが出てからも、日本では全頭検査は続けられました。「何となくその方が安心できる」「やめると批判が怖い」という気分のために、今まで約4,000億円という巨額の税金が投入されたといいます。これは、報道がBSEの危険性を国民に対して、過剰なまでに煽っていたからでしょう。約18万頭の患畜を出したイギリスでさえ、これだけの対策は行っていません。最近、ようやく見直しが行われる運びになりましたが、あまりに遅きに失したといわざるを得ません。

さらに、このBSEの問題では、報道の過熱によって、日本で公式的には1人も罹患者が出ていないし、まして死者も出ていないのに、「犠牲者」だけが出ました。2002514日の新聞は、BSEの初めての「犠牲者」を次のように報じています。

 

「北海道音別町の乳牛が国内4頭目のBSE(牛海綿状脳症、狂牛病)と確認された問題で、この牛の生体検査を担当した釧路保健所(荒田吉彦所長)勤務で獣医師の女性職員(29)が、釧路市の自宅で自殺していたことが、13日分かった。同保健所などによると、12日午前10時頃、職員が出勤しないため様子を見に行った同僚が、自宅で死亡しているのを見つけた。『獣医師として至らないところがあって、ごめんなさい』というメモが残されていたという」

 

 自殺したこの女性獣医師は、真面目な人で、責任感も人一倍強かったのでしょう。BSE感染牛をBSEと診断できなかったことに、責任を感じたあまり、自ら命を絶ってしまいました。しかし、BSEを目視検査で発見することは不可能であり、この女性獣医師には、本来一切の責任は問われないはずなのです。さらに、同年925日では、北海道の冷凍食品加工会社社長が、「BSEの煽りを受け、経営が苦しい」という遺書を残して自殺しました。日本人に「犠牲者」が出るはずのない状況の下で、2人の命が奪われたのです。――彼らの命を奪ったのは報道です。BSEのリスクをきちんと伝えず、危険性ばかりを論うという報道は、果たして正しいといえるのでしょうか。報道により死んでしまった人は、さぞや無念だったと思われます。


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・参考文献

1) 薬理凶室「アリエナイ理科ノ教科書」三才ブックス(2004年発行)

2) 薬理凶室「アリエナイ理科ノ教科書UB」三才ブックス(2006年発行)

3) 薬理凶室「アリエナイ理科ノ教科書VC」三才ブックス(2009年発行)

4) 薬理凶室「アリエナイ理科」三才ブックス(2012年発行)

5) 武田邦彦「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」洋泉社(2007年発行)

6) 佐藤健太郎「化学物質はなぜ嫌われるのか」技術評論社(2008年発行)

7) 石浦章一「タンパク質はすごい!」技術評論社(2014年発行)

8) 枝川義邦「身近なクスリの効くしくみ」技術評論社(2010年発行)

9) 矢沢サイエンスオフィス編「薬は体に何をするか」技術評論社(2006年発行)

10) 大宮信光「面白いほどよくわかる 化学」日本文芸社(2003年発行)

11) 佐藤健太郎『「ゼロリスク社会」の罠』光文社(2012年発行)