・脳の科学
【目次】
(1) 頭がなくなったら死ぬ?
(i) ギロチンで処刑された化学者
もしあなたの首が切断されて頭と体が分離したら、どのくらいの時間だけ意識を保っていられると思いますか?首を落とされた人間に、どのくらいの時間だけ意識があるのかは興味深い問題ですが、これを自ら実践して確かめた化学者がいます。それは、18世紀に活躍し、様々な化学に関する業績から「近代科学の父」と評される、フランスの化学者アントワーヌ・ラボアジエです。ラボアジエは、1772年にかの有名な「質量保存の法則」を発見したことでも知られています。
ラボアジエは、裕福で資産を十分に持っており、実験器具を買うお金があったにも関わらず、実験器具を買う費用を資産からは出さず、自分の資産を有利に運用しようと、1768年頃より市民から税金を取り立てる徴税請負人の仕事に就いていました。「ラボアジエにとって、実験とは道楽である」と物理学者の小山慶太は述べています。週に1日は実験にふけり、ラボアジエはその日を「幸福の1日」と呼んでいました。ところが、1789年にフランス革命の火が湧き起こると、凶作続きで飢えた市民が暴徒と化し、ラボアジエにも危険が迫りました。王権が倒れ、ルイ16世やマリー・アントワネットなどの王族たちが次々に処刑される中、ラボアジエも国民から多額の税金を取り立てたとして、処刑されることになってしまいました。ラボアジエの処刑には多くの科学者が反対し、ラボアジエの死に際して、18世紀最大の数学者ルイ・ラグランジュに「彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つ者が現れるまでには100年はかかるだろう」と言わしめました。
図.1 ラボアジエはギロチンで処刑されたあと、処刑後の人に意識があるのかを実験したという
1794年5月8日午前10時、ラボアジエは革命法廷に引きずり出され、革命政府は死刑判決を言い渡します――「我が共和国は科学者などを必要としていない」と。その日の18時15分、ラボアジエはコンコルド広場に連行され、断頭台ギロチンにかけられました。ラボアジエはギロチンで処刑される際に、「ギロチンで処刑されて自分の首が落ちた後、意識があるかどうかを見ていてくれ」と周囲の人に頼んだそうです。ラボアジエは「もし自分の意識があったら自分はその受け答えをする。話すことはできなくても目で合図する。首を切られてから可能な限りまばたきを続ける」と宣言しました。そして処刑の当日、ギロチンで首を切り落とされたラボアジエは、実際に何回かまばたきをしたそうです。しかし、人は首を落とされると、出血により急激に血圧が下がり、すぐに意識がなくなると考えられているため、この話はどこまで本当なのか分かりません。
(ii) 頭がなくても死ななかった「首なしマイク」
人間の場合は、頭がなくなれば生命を維持することは困難ですが、ニワトリの場合はどうでしょう?「首なしマイク」と呼ばれたニワトリは、頭がない状態で18カ月も生存していたことで有名です。マイクは、1945年4月にコロラド州フルータで生まれました。そして、その年の9月10日、所有者である農夫のロイド・オルセンによって、食用にするために裏庭で首を刎ねられました。ところが、驚いたことにマイクは怪我をものともせず、それまでと全く変わらない様子で暮らし続けました。頭がないにも関わらず、地面からせっせと餌をついばむ様子や、羽づくろいをする様子も見せたといいます。その後、マイクは見世物小屋のプロモーターとともに、所有者のオルセンと18カ月の間アメリカ国内を巡業しましたが、最期は餌を喉に詰まらせて息絶えました。オルセンが、興行先に給餌用のスポイトを忘れたことが原因とされています。スポイトがないので、餌をかき出すことができず、手の施しようもないまま窒息して死亡しました。
図.2 首なしマイクは、ギネス記録に「首がないまま最も長生きしたニワトリ」として記録されている
ところで、なぜマイクは頭がないにも関わらず、18カ月も生きていられたのでしょうか?マイクの体をユタ大学の研究者が調べたところ、首は間違いなく完全に切断されていました。ただし、マイクの「脳幹」は、ほぼそのまま残っていました。脳幹は、生命維持に欠かせない多様な機能をコントロールしています。例えば、心臓の拍動や呼吸、睡眠や摂食、嚥下などです。――それは、ニワトリが日常的にやっている行動のすべてなのでは?それ故、ひとたび頸動脈が血液の塊で塞がれて失血死を免れたら、マイクは誰憚ることなく、自分の日常に戻っていけたという訳です。
ニワトリであれ人間であれ、脳幹は休むことなく大事な仕事をしています。脳幹が働かなければ呼吸もできないし、心臓の拍動を制御することもできません。その点は間違いないのですが、脳の他の部分がダメージを負ったらどうなるかは、そこまではっきりと予測しにくいです。脳は柔軟に変化する性質を持っているので、傷付いていない脳領域に仕事を移すことができます。また、脳は右脳と左脳に分かれているため、損傷がどちらか片方に限定されていれば、大きなダメージを負っても脳は持ちこたえます。それを示す絶好の例が、次項で紹介するフィニアス・ゲージの事故です。
(iii) 事故で脳の半分を失った男
19世紀前半、鉄道建設の現場では、現代よりも安全基準がいささかルーズでした。当時25歳だったアメリカの鉄道建築技術者フィニアス・ゲージは、バーモント州カヴェンディッシュの外れで、鉄道の路盤を建設するための発破を行う任務にあたっていました。爆薬を仕掛けるために、岩に深く穴を掘って火薬を入れ、直径約3 cm、長さ約1 mの鉄の棒で、火薬を突き固める作業がありました。本来なら、発火を防ぐために、そこに少量の砂も加える必要があります。ところが事故が起こった1848年9月13日、ゲージはその手順を怠りました。砂なしで火薬を棒で突いたため、爆発が起きて鉄の棒が吹き飛びました。鉄の棒はゲージの左側の顎を貫き、左目の後ろを通って左脳を完全に突き抜け、頭頂部から飛び出して数十m先に落ちました。
図.3 鉄の棒は、ゲージの頭を完全に突き抜けて、彼の左前頭葉の大部分を破損した
驚くべきことに、そんな目に遭っても、ゲージは一命を取り留めたばかりか、意識を失うことすらありませんでした。事故から数分も経たないうちに口を利き、ほとんど人の手も借りずに歩き、街にある自宅までの1.2 kmを馬車に乗って一人で帰りました。そして、事故から2カ月後には、ニューハンプシャー州レバノンの実家へ帰れるくらいに健康を取り戻していたのです。ただし、鉄の棒がゲージの左前頭葉を破損してからは、ゲージの人格が変わったらしきことに、友人たちは気付きます。友人たちに「もはやゲージではない」と言わしめるほどに、感情表現が変わってしまったのです。このことについて、主治医は「悪態をつくことが多くなり、仲間に対する敬意もほとんどなくなった」と書き記しています。結局は事故のあと、ゲージは鉄道会社を辞職することになり、鉄の棒と一緒に各地を回ったり、色々な土地で働いたりしながら、その後も12年間生きました。
この事故で、ゲージが一命を取り留めたのは、ただ運が良かったからです。鉄の棒による損傷は、脳の左半球だけに留まっていました。そして、脳の重要な機能というのは、もう片方の脳半球に予備が備わっていることが少なくありません。つまり、棒を脳に貫通させる際は、前後ないし上下の方向に棒が通るようにして、片方の脳半球だけを破壊するのがお勧めです。耳から耳へと頭の中を左右に棒が通り抜けた場合は、助かる確率が大きく下がります。ゲージの事故は、それまでの生理学の理論を覆し、19世紀当時の精神と脳に関する議論、とりわけ脳内の機能分化に関する議論に大きな影響を及ぼしました。またこの事故は、脳の特定の部位への損傷が、人格に影響を及ぼし得ることを示唆した初めての事例となりました。
図.4 ゲージと彼の脳を破壊した鉄の棒
脳へのダメージが時間をかけてゆっくり進行した場合には、ゲージよりもっとたくさんの脳組織を失っても、全く平気なこともあります。それを明らかにしたのが、イギリスの神経学者であるジョン・ローバーです。1970年代の終わり、ローバーがシェフィールド大学の教授になったとき、ある非常に優秀な学生の頭が、異様に大きいのに目を留めます。その学生にCATスキャンでの検査を勧めると、一つの問題が明らかになりました。何とその学生には、ほとんど脳がなかったのです。脳があるべき場所の95%が「脳脊髄液」で埋め尽くされ、灰白質の薄い層が頭蓋の内側に少し貼り付いているだけでした。この学生は「水頭症」という病気だったのです。水頭症は、脳脊髄液の産生・循環・吸収などのいずれかの異常により、髄液が頭蓋腔内に溜まってしまう病気です。重症の場合には、図.5のように頭部が通常の2倍近くに膨れ上がってしまうこともあります。
図.5 「水頭症」により、頭部が通常の2倍近くに膨れ上がった少女
ただし、この水頭症の学生には、注目すべき点がありました。知能指数(IQ)が126もあったことです(平均値は100)。ここで重要なポイントは、こと脳に関しては、「脳の大きさと知性」はあまり関係ないということです。何しろ、私たちの頭には1,300〜1,500 gほどの脳が詰まっているのに、この学生は約110 gの脳で見事な成績を収めていたのですから。
一昔前の科学者は、脳の大きい動物ほど賢いと考えていました。ところが、後にゾウの脳が5,000 gほどあることが分かると、その仮説は修正を余儀なくされました。それならば、知性に関わるのは、「脳が体重に占める比率」なのでは?――この説は正しそうな気がしましたが、実際に計算してみると、ヒトの比率は野ネズミ並でした。結局、知性を左右するのは「脳の大きさ」ではなく、その中に「どれだけの神経細胞が入っているか」なのでしょう。「脳の大きさで動物の知性を推し量る」のは、「コンピュータの大きさで性能を判断する」のと変わりません。現在のスマートフォンの処理速度は、1960年代の巨大なコンピュータより圧倒的に速いのですから。
(2) 脳の記憶の仕組み
(i) 海馬と神経細胞
「記憶」は、経験した情報を記銘し、記銘された事柄を保持し、保持された内容を必要に応じて想起あるいは再認する時間的過程のことを指します。「想起」は、記銘した内容を再現する形式です。それに対して「再認」は、再現する必要はなく、最初の情報とその後の情報が同一であるかどうかを認知することです。記憶のメカニズムについては、長い間研究されてきたものの、未だにほとんどの部分が解明されていません。しかし、脳が情報を記憶として蓄えるときには、その主役が「海馬」と「神経細胞(ニューロン)」であることは判明しています。
大脳辺縁系にある海馬は、「記憶の司令塔」のような役割を果たす組織で、耳の奥辺りに左右一つずつあります。「海馬」というのは、その形が「タツノオトシゴ」に似ているからです。海馬に様々な感覚情報が入ってくると、それを統合して「経験」という記憶にまとめます。記憶は最初に海馬で形成されますが、記憶が海馬に留まっているのは長くても一カ月程度です。その後は、大脳の「側頭葉」という部分に情報が送られて、保存されることになります。長期的に保存する必要のない記憶は、このときに海馬から消去されます。
図.6 「海馬」は記憶に関わり、その名前の通り「タツノオトシゴ」に形状が似た組織である
もう一つの主役である神経細胞(ニューロン)からは、複雑に分岐する「樹状突起」とロープのような長い突起である「軸索」が伸びています。この神経細胞同士が互いに繋がり合うことで、巨大な神経回路を形成して、記憶は「神経回路の変化」として保存されます。その神経細胞同士の接点となるのが、軸索の先端にある「シナプス」です。シナプスは、樹状突起とは直接密着せず、少しだけ隙間を空けて繋がっています。神経細胞同士は、シナプスから放出される様々な「神経伝達物質」を介して、情報の伝達をしています。
神経回路の変化には、二通りの方法があります。一つは、すでに存在しているシナプスを利用する方法です。既存のシナプスを利用する方法では、シナプス間における「信号の通りやすさ」を変化させることで、実質的な神経回路の変化を起こしています。しかし、この方法で海馬に記憶が保存されるのは、長くても一カ月くらいです。そしてもう一つは、「新たなシナプス」を形成する方法です。この新しいシナプスの形成というのは、長期に渡る安定な記憶に関係していると考えられています。自転車の乗り方や泳ぎ方など(体で覚える記憶)は、新たなシナプスの形成による記憶であるため、一度覚えたら簡単には忘れないのです。このような体で覚えるような記憶を「手続き記憶」といいます。
図.7 神経回路の仕組み
ところで、人間の記憶量は、コンピューターの情報量に換算すると、どの程度なのでしょうか?人間の脳は、大脳で数百億個、小脳で千億個、脳全体では千数百億個もの神経細胞(ニューロン)で構成されています。もし脳細胞の数に応じて記憶量が決まるとしたら、「人間の記憶量には限界がある」といえるでしょう。アメリカのノースウェスタン大学のポール・レバーは、「合理的な計算方法に基づくと、人間の脳のデータ容量は数PB(ペタバイト)にも及ぶ」と発言しています。1 PBは1024 TB(テラバイト)であり、書類をめいっぱい収納した4段式キャビネット2,000万個分の文字情報に相当します。HD(high definition:高解像度)品質の映像データ量で表すなら、13.3年分に匹敵します。つまり、人間の脳は、私たちの身の回りのPCやスマートフォン、ハードディスクなどとは、比べようがないほど膨大な容量を持っているのです。もちろん、人間の脳の作りは電子機器以上に複雑であるため、データ容量と並べて単純に比較するのは無理があることは承知しています。ほとんどの人は、自分の脳の容量が数PBと言われても、納得するのは難しいでしょう。
図.8 私たちの脳の容量は数PBで、その容量は128 GBのスマートフォン数万台分もある
(ii) 短期記憶と長期記憶
人間の記憶は、数秒単位の極めて短い時間内に生じる「短期記憶」と、数分から数十年に渡る「長期記憶」に分けられます。記憶される期間が数秒から数十秒とされる短期記憶に関しては、その容量の上限は「マジカルナンバー7(The Magical number seven)」であると、アメリカの心理学者のジョージ・ミラーが論文の中で発表しています。「マジカルナンバー7」とは、人間の短期記憶においては、「ランダムなアルファベットや人の名前などを7個前後覚えるのが限度」ということです(個人差により±2の変動があるとされています)。このような一時的な短期記憶を「ワーキングメモリ(作業記憶)」といいます。ただし、この短期記憶は、リハーサル(記憶すべきことを何らかの方法で唱えること)を繰り返して海馬に刺激を与えることで、忘れにくい長期記憶に移行させることができます。
図.9 短期記憶と長期記憶
「記憶力がよい」という表現を、私たちは日常的に使います。しかし、実際には「記憶能力の個人差はあまりない」というのが、現在の脳科学の考えです。短期記憶だけでは記憶量に限界があるので、一般的に記憶力がよいとされる人は、短期記憶をリハーサルすることで長期記憶として脳に残しているのです。一方で、老化に伴う記憶力の低下を、日々感じている人は多いと思います。若い頃はすぐに覚えられた10桁の電話番号が、年齢を重ねるとともに覚えにくくなったと感じたことはないでしょうか。確かに、人間の体は40歳代を過ぎると、脳の「前頭葉」という組織が老化し始めます。前頭葉は、長期記憶の保持にも関係しているので、老化に伴って私たちは記憶力の低下を感じるのです。さらに、脳細胞組織の老化・減少だけでなく、脳全体が委縮した場合には、「老人性認知症」と呼ばれる記憶障害を引き起こします。
ただし、老化による記憶力の低下は、短期記憶にはほとんど関係がないとも言われています。ドイツの心理学者であるヘルマン・エビングハウスは、無意味な言葉の丸暗記から、「忘却は覚えた直後に進む」という法則を発見しました。つまり、脳は常に情報の記憶量の更新をして、過去の不必要な情報を捨てているため、際限なく情報を記憶できるのです。実際に、2009年に富山大学の井ノ口馨らの研究チームが、新しい神経細胞(ニューロン)ができることによって、海馬に蓄えられている古い記憶の連結が弱まるか、消去されることを確認しています。また、エビングハウスは、短期記憶に年齢差は関係ないことも示しています。つまり、私たちは40歳、50歳、60歳と年を重ねていっても、短期記憶で覚えた内容について、意欲的にリハーサルを繰り返し長期記憶に変化させることで、10〜20歳代に劣らない記憶力を保ち続けることが可能なのです。
今から百年ほど前、スペインの神経解剖学者であるサンティアゴ・カハールは、「脳は再生せず、死滅するばかりである」という説を発表し、これが長年の定説となっていました。ところが、1998年にスウェーデンの科学者が、「成人の脳でも海馬で新たな神経細胞が生まれる」という説を発表。成人の脳にも、神経幹細胞(神経細胞のもとになる細胞)がわずかに含まれていることが確認され、年を取っても脳では常に新しい神経細胞が生まれ続けていることが証明されたのです。しかし、せっかく新しい神経細胞ができても、そのまま放っておいたら、わずか数週間で新しい神経細胞は消えてしまいます。神経細胞を残しておくには、「学習」という負荷が必要です。継続して何度も負荷を与えることで、新しい神経細胞は既存の神経回路に取り込まれて、ネットワークの一員として生き残ることができるのです。
図.10 加齢による知能の変化
年を取っても記憶力を維持できることを証明する一例として、円周率の暗記があります。日立製作所の技術者だった原口證は、退職後に円周率の暗記を始め、2004年に54000桁の円周率の暗記で世界記録を達成しました。その後も68,000桁、8,3431桁と更新し続け、2007年にはついに10万桁と突破しました。この記録は今も破られていないのですが、原口が世界記録に挑戦したのは定年退職後ですから、人間の能力に限界はないといっても過言ではありません。原口は、円周率の数字を仮名に置き換える語呂合わせで、円周率を「松前藩の武士が旅に出る物語」として記憶しているようです。
図.11 原口證(はらぐちあきら)は、独特の記憶術で円周率を10万桁記憶した
(iii) 記憶力を増強するには?
一粒でも飲めば、たちまち記憶力が増強され、難しい本もすぐに理解してしまう――そのような薬はあり得るでしょうか?近い将来、「脳のバイアグラ」とも呼ばれるような「記憶力増強薬」が登場するかもしれません。記憶力を増強するためには、シナプスの働きを増強する物質が必要です。すでに1970年代には、脳の視床下部から放出される「バソプレシン」というホルモンが、長期記憶に関係しているという報告がありました。しかし、今になって考えると、そのような1種類の化学物質だけで、記憶力が大きく変化するとは考えにくいです。「記憶物質」とも呼べるような物質は、この世に存在しないのでしょうか?
「記憶物質」に関する新しい報告は、1996年に行われました。カリフォルニア大学の神経生理学者ギャリー・リンチらが、「記憶物質」の有力候補を発表したのです。その物質は「アムパカイン」といいます。この物質を投与すると、高齢者でも若者並みの学習能力を見せるようになるというのです。その効果を確かめる実験が、スウェーデンのカロリンスカ研究所で行われました。まず65〜73歳の男性被験者を3グループに分けます。そして第1グループには偽薬(プラシーボ)、第2グループには少量のアムパカイン、第3グループには多量のアムパカインを与えました。そして、彼らに関連性のない5つの単語を読ませ、5分後に同じ順序でそれらの単語を繰り返させました。このテストでは、通常65歳以上の人々は、1語思い出すのがやっとです。ところが、第2グループ(低用量アムパカイン)は第1グループ(偽薬)の2倍、第3グループ(高用量アムパカイン)は3倍という目覚ましい成績を残したのです。第3グループの短期記憶は、何と20〜25歳の若者と同レベルでした。同じテストを若者のグループで行ったところ、これほど顕著な記憶力の改善は見られなかったといいますから、記憶力の衰えが目立つ人ほど、改善効果が高かったのです。リンチらは、アムパカインは記憶に関係する神経伝達物質の受容体の働きを活性化させると推測しています。これによって、神経細胞同士の情報伝達が速まり、記憶力が向上するというのです。
図.12 「アムパカイン」を服用すると、高齢者でも若者並みの記憶力になる
また、記憶力を増強するには、食生活も重要です。イギリスの栄養化学研究所のM・クロフォードは、「日本の子供が欧米の子供よりIQや記憶力が高いのは、魚をたくさん食べているからだ」「水辺に古代文明が発達したのは、魚などの海産物が脳を発達させ、人間を進化させたからだ」と述べました。これは、水産物に豊富なドコサヘキサエン酸(DHA)などの脂肪酸が、脳の発達に影響しているからです。DHAは、ヒトに欠かせない必須脂肪酸の一つで、神経細胞のリン脂質に多く含まれ、成人の脳の脂質の約10%を占めます。DHAが欠乏すると、脳細胞の膜が上手く作れなくなります。これまでの動物実験では、DHAの投与で記憶力の向上、視力回復、血栓防止、血圧低下、抗ガン作用などが確認されています。また、魚をよく食べる地方に花粉症や喘息が少ないので調べてみると、DHAには抗アレルギー作用のあることも判明しました。
DHAは、ヒトの母乳に多く含まれていますが、牛乳にはほとんど含まれていません。日本人の母乳にはDHAが特に多く、平均100 mL中に22 mgが含まれ、アメリカ人の7 mgを大きく上回ります。日本人の母乳で育った子は、頭が良いという報告もあります。マグロ、ブリ、サンマ、イワシなどの魚の脂にもDHAは多く含まれ、牛や豚の脂肪には全く含まれていません。DHAは高級不飽和脂肪酸のため酸化しやすく、酸化したものは毒性があります。煮ても焼いても含有量はほとんど変わりませんが、油で揚げると量がかなり減ります。摂取するなら新鮮な刺身が一番です。
表.1 可食部100 g当たりの魚類のDHA含有量
魚類の種類 |
DHA含有量〔mg/100 g〕 |
サンマ |
1,600 |
サバ |
970 |
アジ |
570 |
アナゴ |
550 |
マグロ(赤身) |
120 |
アユ |
58 |
タラ |
42 |
(3) 頭の良さはどう決まる?
(i) ギフテッドとは?
一般の人より勉強や芸術、運動、リーダーシップなどで、生まれつき優れた才能を持つ人たちのことを、「神から特別な能力を贈られた(ギフトされた)人間」という意味で、「ギフテッド(Gifted)」と呼びます。これは、医学的にも教育学的にも根拠のある専門用語であり、アメリカ合衆国教育省が公式用語として定義している言葉です。非ギフテッドが、早期教育や先取り学習によってギフテッドに成長することはなく、「ギフテッドの才能を伸ばす」という言い方はできますが、「こうすればギフテッドになる」とは言いません。ギフテッドの特性は、成人後も持続すると考えられ、英才教育に関する過去100年間の長期的研究で、様々な結果が報告されています。
ギフテッドの定義は文化によっても異なりますが、一般には「1,000人に1人の天才と言われるレベル(偏差値80以上)」から上をギフテッドとしています。その中でも特に天才的な人間は、「パーフェクトギフテッド」と呼ばれます。パーフェクトギフテッドは300万人に1人ぐらい(偏差値100程度)しかいないと言われており、彼らを全米からかき集めたとしても、1クラス分くらいの人数にしかならないでしょう。
「ギフテッド」とされる基準
1.能力を発揮するのは学業に関わらず、多様な分野(知性、独創性、芸術性、リーダーシップなど)であること 2.同じ年齢や環境の他のグループとの比較に基づくこと 3.能力を伸ばす支援が必要であることを示す将来性があること |
パーフェクトギフテッドは、16歳で医学部を卒業して医師免許を取ったとか(アメリカの医師免許は3段階の試験に合格する必要があり、試験は年2回受験できるので、医学部の学生であれば最短で1年半で取得可能)、14歳で弁護士の試験に合格したとか、超人的な記録保持者だらけです。機械と生物、制御と通信を統一的に扱う「サイバネティックス」という科学の新分野を作った数学者ノーバート・ウィーナーも、11歳でタフツ大学に入学、14歳で数学の学位を取得してハーバード大学の大学院に入学、18歳で数理論理学の論文により博士になっています。一方で、16歳でハーバード大学に入学して25歳でカリフォルニア大学の助教授になったものの、2年で退職して連続爆破殺人犯になった「ユナボマー」こと、セオドア・カジンスキーのようなテロリストもいます。ギフテッドが「自分以外の人間には価値がない」などと言い出さないよう、情操面の教育が非常に重要なのです。アメリカでは、「ジェイコブ・K・ジャビッツ・ギフテッド・タレンテッド学生教育法」というギフテッドを保護するための特別な法律があり、彼らの教育に力を入れています。ちなみに、アメリカがギフテッド教育に力を入れるようになったのは、東西冷戦時代に人工衛星の打ち上げ競争で、ソビエトに負けたからだとも言われています。「ソビエトに勝つために天才科学者が必要だ」ということで、天才集めを始めた訳です。
図.13 ノーバート・ウィーナーは「サイバネティックス」の提唱者として知られている
とはいえ、「頭の良い子だけを集めて特別クラスを編成し、エリートを養成する」という思想は、古くから世界中にあったりします。中国では神童を宮廷に集めて特別教育を施していましたし、イスラム社会では神童だけを専門に買ってくる奴隷商人がいました。「マムルーク」と呼ばれるこの奴隷たちは、幼いころから特別な教育を受け、成人すると平時には官僚や商人、戦時には軍人という役割を与えられました。マムルークとなれば、かえって異郷で栄達する可能性もあったことから、進んで自らの子供を奴隷商人の手に預けた親も多かったといいます。この制度を熱心にやり過ぎた結果、買ってきた奴隷たちの子孫が国を支配する「奴隷王朝」ができてしまったぐらいです。
日本でも、戦前は飛び級を認めていました。通常ならば尋常小学校6年、旧制中学校5年、陸軍士官学校2年を経て、20歳前後で陸軍少尉になります。しかし、旧制中学校4年生時に士官学校を受験して合格すると、1年早く合格できたのです。さらに戦争が始まり、昭和16年(1941年)を過ぎると、陸軍士官学校が戦時短縮で1年となったため、2歳早く任官する人が続出しました。日本での飛び級の最高記録は、6年制の尋常小学校を5年修了、5年制の旧制中学校を4年修了、陸軍士官学校を戦時短縮により1年で卒業した本間鉄心という軍人です。しかも早生まれだったので、任官当時16歳と、他の人よりも4歳も若くして陸軍少尉になっています。そして何とこの人は、大日本帝国華族侯爵家の出身で、親は財閥の総帥かつ貴族院議員、自宅の敷地は12,000坪もあったという漫画のような設定を持っています。ただし、侯爵の実子ではなく、神童だと見込んで養子に貰って英才教育を施した子だそうです。つまり、日本でギフテッド教育を受けた事例の一つといえる訳です。日本の飛び級記録は3年と、アメリカに比べると呆気ない記録ですが、戦後は飛び級を認めていないので、この記録が塗り替えられることはなさそうです。
(ii) 知能指数とは?
1800年代後半から、ヨーロッパ諸国においては義務教育が導入されました。しかし、数%の子供たちはどんなに丁寧に勉強を教えても理解できず、落第を繰り返してしまいます(フランスの小学校には落第留年があります)。フランスの心理学者であるアルフレッド・ビネーと弟子のセオドア・シモンは、このような子供たちのために特別クラスを作って、適切な教育を行うべきであると働きかけました。そこで、1904年にフランス文部省は、「異常児童への教育を確実に行うための方法を検討する委員会」を設立します。ただ、知的障害を持つ異常児童をどうやって識別するかが問題でした。骨相学をはじめ、様々な方法を試したものの有用性が低かったため、新しいテストが作られることになりました。
1905年にビネーとシモンは、「ある年齢の健常児の大半が正解し、それより下の年齢では正答率が低くなる課題」があることに注目して、それぞれの年齢段階に対応する課題のリストを作りました。これが「ビネー式知能検査」であり、いわゆる「IQテスト」と呼ばれるものの元祖です。この知能検査では、子供が何歳の問題まで解けたかをもとに、「精神年齢(Mental Age)」を算出します。つまり、被験者の知能程度を得点ではなく、精神年齢で測定しようとしたのです。それに対して、子供の実際の年齢を「生活年齢(Chronological Age)」といいます。スタンフォード大学の心理学者であるルイス・ターマンは、1916年にこの検査を発展させて、知能指数(Inteligence Quotient:IQ)を求める式を作りました。アニメや漫画などでは、「知能指数(IQ)が300の天才」などの設定がありますが、この数値は次のような単純な計算式で求めたものです。
もし5歳児なのに15歳ぐらい(中学3年生並)の知能を持つ場合は、(15/5)×100=300となり、知能指数(IQ)300という結果になります。しかし、ギフテッドでもここまで極端な値になることはありません。ギネスブックに載っている世界記録ですら228です(1916年版スタンフォード・ビネー式知能検査)。アメリカ史上最年少の9歳で大学に入学した子供が200を超えていると言われているぐらいで、「知能指数(IQ)が300の天才」が現実に存在した例はありません。しかもこの方式だと、実年齢(生活年齢)が上がるほど知能指数(IQ)の数値が下がっていき、大人になればなるほど常人との差がなくなっていきます(同じ10歳差でも、15歳が25歳の知能を持つ場合は167となる)。ちなみに、このビネー式知能検査はフランス語で書かれており、フランスの常識問題で構成されているため、外国ではそのまま使えません。そこで、各国で常識問題を変更するなどして標準化が行われています。
ビネー式知能検査は、全体的な知能水準を把握するのには有効でしたが、知能を因子別に分析することはできませんでした。また、言語的な課題からできていたので、幼児などには不向きでした。これらの点を補ったのが、1939年にアメリカの心理学者であるデビッド・ウェクスラーによって発表された「ウェクスラー・ベルビュー式知能検査」です。最大の特徴は、知能指数(IQ)を廃止して、偏差知能指数(DIQ)を採用したことです。この方式で計算すると、標準偏差が関わる都合で上限値が160ぐらいに固定されます。もし特別に頭の良いギフテッドがいた場合は、それ以上の数値になることもあり得ますが、それでも200といった極端な数字になる訳ではなく、「160+」と評価されます。スタンフォード・ビネー式知能検査も、1960年版では知能指数(IQ)を廃止して偏差知能指数(DIQ)に変わり、1986年版では「優秀児の特定」、つまりギフテッドの発見が検査に盛り込まれました。
表.2 偏差知能指数(DIQ)の定義
偏差知能指数(DIQ) |
評価 |
145〜160 |
パーフェクトギフテッド |
130〜144 |
ギフテッド |
120〜129 |
天才 |
110〜119 |
平均より上 |
90〜109 |
平均 |
80〜89 |
平均より下 |
70〜79 |
ボーダーライン最低線 |
55〜69 |
軽度の知的障害または発達障害 |
40〜54 |
中程度の知的障害または発達障害 |
日本においては、フランスのビネー式知能検査を日本語に合わせて標準化した「田中・ビネー式知能検査」が1847年に作られました。改良が続けられ、2003年版「田中・ビネー式知能検査V」が出ていますが、欧米ではすでに廃止された知能指数(IQ)が現在でも採用されています。実は、21世紀になっても知能指数(IQ)に固執しているのは日本、韓国、香港、台湾など極東地域一部のみです。これらの国では、今でに知能指数(IQ)への信仰が強く、知能検査の練習や予習を行って、いかにして高得点を取るかが競われています。欧米諸国やアフリカ、中東、インドなどでは、ウェクスラー式やスタンフォード式を基準にした偏差知能指数(DIQ)が標準になっています。
(4) 何のために眠るのか?
(i) 人が睡眠をとる理由
私たちはなぜ眠るのでしょうか?ヒトにとって睡眠は不可欠であり、睡眠欲は生理的欲求の一つで、体が眠りを必要とするときには眠気が現れます。一説には、人間には1日で8時間の睡眠が必要と言われますが、これは1日の三分の一にあたります。人生を後期高齢者と線引きされた年齢で75年と考えると、人生のうち25年間も眠って過ごすことになります。こうして改めて考えてみると、これだけの膨大な時間の睡眠が、本当に人間には必要なのでしょうか?スタンフォード大学の睡眠学者であるウィリアム・デメントは、ナショナルジオグラフィック誌の取材に答えて、「人は眠たくなるから眠るのだ」と大真面目に語ったことは有名です。
かつては、睡眠について深く考える必要はありませんでした。人類がその歴史の大部分を過ごしてきた狩猟や採集生活の時代には、日が出ている昼の間に食べ物を手に入れるために肉体を酷使し、日が暮れて夜になると体を休めるというサイクルが、自然と行われていたからです。しかし、現代のように文明が発達すると、24時間営業の店があって、家には冷蔵庫や電子レンジがあって好きなときに食べ物が入り、すぐに空腹は埋められます。社会は24時間休みなく動き、そのための夜間労働者もいれば、国際線フライトで眠って到着した先がまた夜などということも起こります。そうして睡眠リズムが乱れる人が増え、日常生活に悪影響を与えるようになり、「睡眠の科学」が注目されることとなりました。その際、睡眠の謎を解く一助となったのが、脳科学の発達でした。
図.14 人類の文明が発達すると、睡眠リズムが乱れるようになった
人間が眠る重要な理由の一つは、短期記憶から長期記憶への移行が、睡眠時に行われるためだと考えられています。そのプロセスは「固定化」と呼ばれ、とりわけ熟睡時に行われます。眠っている間に、脳はその日の出来事から、どれを保存して長期記憶を作るかを選り分けています。きちんと眠らなければこうしたプロセスは機能せず、記憶に影響が出ます。ある調査では、学生に迷路の解き方を覚えさせました。その後、一部の学生は1時間昼寝をし、残りの学生は起きていました。5時間経ったあと、その迷路の解き方をどれくらい覚えているかを調べると、起きていて迷路のことをずっと考えられた学生たちよりも、少し眠った学生たちの方が良く覚えていたのです。この結果からは、「記憶の定着」に睡眠がいかに重要な役割を果たしているのかが伺えます。特に成長過程の早期、乳幼児期に記憶として取り込む情報を処理する脳の回路形成に、睡眠は大きな役割を果たしています。生まれたばかりの新生児の睡眠時間が長いのは、目覚めているときに得た体験を、記憶として保存していくのに必要だからではないかと考えられています。
図.15 新生児は1日あたり平均で10〜18時間も眠る
また、マウスとサルを観察した結果から、睡眠は「脳内洗浄機」の一種なのではないかとの可能性も浮上しています。目覚めているとき、脳細胞は老廃物として有毒なタンパク質(アミロイドβなど)を排出しています。その量は1日に数gにもなり、1年間ではほぼ「脳と同じ重さ」の老廃物が出ることになります。それが周囲に溜まっていると、脳機能が損なわれます。その老廃物を脳外へ綺麗に洗い流してくれるのが、「脳脊髄液」なのです。日中に脳が活動しているときは、細胞と細胞の間の間隔が狭いために、脳脊髄液が上手く流れてくれません。しかし、ひとたび眠りにつけば脳細胞が縮み、脳脊髄液は脳全体を勢いよく流れるようになり、有毒な老廃物を洗い流してくれます。このような仕組みを「グリンパティックシステム」といいます。一晩徹夜しただけで、神経細胞間の間隙に存在する有毒な老廃物は5%も増加するという報告もあります。
不眠が続くと頭が急激に働かなくなるのは、これが理由なのでしょう。1日6時間以下の睡眠が10日間続くと、24時間起きていたのと同じくらい集中力が低下するといいます。ワシントン大学のデイヴィッド・ホルツマンらが、マウスを使った実験で脳を調べた結果、有毒なタンパク質は日中起きているときには増加し、夜間眠っているときには減少することを突き止めています。有毒なタンパク質の蓄積は、アルツハイマー病の原因となり、人間の場合も睡眠の効率が悪いほど、アルツハイマー病になりやすい傾向があるようです。まだ謎の多い睡眠ではありますが、脳科学と歩調を合わせて、睡眠システムの解明が進められています。
(ii) ギネス記録から抹消された不眠記録
人間が健康に生きていくためには、良質な睡眠が不可欠です。しかし、もし十分な睡眠をとることできない状況に置かれたとしたら、人の体にはどのようなことが起こるのでしょうか?1950年から60年代にかけて、人間の限界を解明するために、断眠実験が盛んに行われました。まず1959年に、アメリカのラジオ局WMGMのDJであるピーター・トリップが、小児麻痺救済の資金集めのために、「200時間不眠マラソンラジオ」を決行しました。タイムズ・スクエアのブースで、安全に配慮して医師に見守られながら、ピーターは無謀とも思える不眠記録に挑戦したのです。そして見事に、200時間(8日と8時間)という不眠の大記録を打ち立てました。ところが、その大記録と引き換えに、ピーターにはある異変が起こっていたのです。
ピーターに異変が起こったのは、100時間を過ぎた3日目からです。突然笑ったり声を上げて泣いたりして情緒不安定になり、単純な数学の問題やアルファベットの復唱が難しくなりました。5日目になると、「体を虫が這い回っている」と頻繁に幻覚を見るようになり、さらには実験を見守っていた医師を葬儀屋と勝手に思い込み、「自分を葬るのか」と逃げ回る騒ぎを起こしました。最後の66時間は、覚醒作用のある薬を服用し、何とか起きていたものの、ピーターの心身はすでに限界を超えていました。友人の顔が判別できないばかりか、自分自身も誰だか分からなくなり、「ピーター・トリップとは自分が演じている男の名前に過ぎない」と発言するなど、重度の精神疾患患者のような状態になったのです。
図.16 不眠が長時間に及ぶと、重度の精神疾患患者のような状態になる
しかし、不眠記録への挑戦は、これだけでは終わりませんでした。ピーターの挑戦から5年後の1963年12月28日、ピーターの記録を超える264時間(11日間)という不眠記録に、カリフォルニア州サンディエゴのポイント・ロマ高校に通うランディ・ガードナーという17歳の少年が挑戦したのです。ランディは、クリスマス休暇の自由研究のために、それまでのギネス記録であった260時間の不眠記録を更新することを目標としました。もともとランディは、1日で平均7時間弱の睡眠をとる普通の高校生でしたが、スタンフォード大学の精神科医ウィリアム・デメントが全面的に協力し、実験を開始させました。
実験開始2日目、ランディは頭が朦朧とし、軽度の記憶障害を起こしました。さらに4日目には集中力がなくなり、自分が別人になったような幻覚を見始めます(自分がプロのアメフト選手だと信じて疑わなくなりました)。5日目には感情のコントロールが難しくなり、7日目には体の震えと言語障害が頻発しました。9日目にもなると、無表情で話の内容もまとまりがなくなり、11日目には脳の異常が視神経を通じて眼球に現れ、両目が左右でバラバラに動くなど、危険な兆しが随所に現れるようになります。スタンフォード大学の協力と、さらにマスコミの注目度の高さに煽られて264時間12分という大記録を達成したものの、チャレンジ末期のランディは異様な雰囲気に包まれており、「明らかに人体に危険がある」と判断されました。連続不眠記録は、かつてギネスブックに掲載されていたこともありました。しかし、人の心身に多大なダメージを与えることが分かった現在では、ギネスブックの登録対象から削除されています。
図.17 264時間(11日間)という不眠記録に挑戦したランディ・ガードナー
ちなみに、ランディは実験終了後に海軍病院に運ばれ、半日ほど(14時間40分)眠り続けました。そして、実験の1週間後には、ほぼ完全に元の生活リズムを取り戻しています。つまり、不眠では深刻な後遺症は残らず、その後にきちんと睡眠をとれば、元の健康な状態に戻れるのです。とは言え、この結果を見て、「元に戻るのなら不眠に挑戦しよう」と軽々しく判断するのは危険です。なぜなら動物実験では、悲惨な結果が確認されているからです。
ロシアの科学者が、犬を無理やり運動させて不眠状態にする実験を行ったところ、96〜120時間程度で死んでしまいました。また、アメリカの睡眠研究者が、特殊な装置(眠ろうとすると水に落として覚醒させる仕掛け)でラットを長時間断眠する実験を行いましたが、こちらも2週間足らずですべて死亡。ラットの最終的な死因は敗血症でしたが、直接的な原因は解剖されても不明でした。不眠によって免疫力低下や体温低下、ストレスホルモンの大量分泌など様々な変化が重なった結果、ラット自身の腸内にいた微生物による感染が起こったものと考えられています。
では、ランディが動物実験で見られた結果と違って、死に至らなかったのはなぜでしょうか?それは、ランディが完全な不眠状態ではなかったからだと考えられています。人間は、少し目を閉じるだけでごく短時間の睡眠がとれる「マイクロスリープ」という機能が備わっています。数秒目を閉じるだけで、スッキリした気分になることがあるのは、この機能のおかげです。ランディの実験では、外見から覚醒していることを確認したのみで、脳波は測定していませんでした。そのため、一見すると眠っていないように見えても、まばたきの延長で、上手にマイクロスリープをとっていた可能性があります。追い込まれた人間は、意外なほど効率の良い睡眠がとれるのです。
図.18 「マイクロスリープ」は、短ければ数分の1秒、長くても30秒程度睡眠状態に陥ることである
(iii) 人はなぜ夢を見るのか
人は、睡眠中には必ず夢を見ているといいます。ただし、目覚めて内容を覚えていれば「夢を見た!」と実感できますが、忘れてしまうことも多く、その場合は夢を見ていてもその実感はありません。「私は夢なんか見ない」という人もいるでしょうが、基本的に人は夢を見ているので、見ないという人は、ただ見た夢を忘れているだけなのです。睡眠は脳を休めるためにあるはずですが、夢を見るということは、睡眠中でも脳は何らかの働きをしているということです。睡眠中に脳は、どのような働きをしているのでしょうか?
人間の睡眠は、一晩のうちにおよそ90分の周期の中で、異なる種類の眠りを繰り返しています。短くて浅い「レム睡眠」と、深く長い「ノンレム睡眠」です。人間が寝付くと、まず浅い眠りである「レム睡眠」となり、続いて深い眠りである「ノンレム睡眠」となります。この「レム睡眠」から「ノンレム睡眠」までを1つの睡眠周期として、正常な睡眠であれば、この周期が一晩に4〜5回ほど繰り返されます。「レム睡眠」は英語にすると、「rapid eye movement sleep(急速眼球運動睡眠)」となり、その名の通り脳が活動して覚醒状態にあり、睡眠中でも眼球が急速に運動しています。レム睡眠時には、脳の強い活動の反映として、夢を見ることになるのです。ちなみに、レム睡眠は鳥類と哺乳類にのみ見られる現象で、サルやネコも人と同じように夢を見ているという研究があります。なお、「ノンレム睡眠(Non-rapid eye movement sleep)」は「rapid eye movement(急速眼球運動)」がない睡眠ということなので、脳は完全に休息状態であり、いわゆるぐっすり眠った状態のことです。ノンレム睡眠では、脳が覚醒していないため、この間に夢を見ていたかどうかの確認は難しいとされています。人は、浅いレム睡眠のときに夢を見て、その後に深いノンレム睡眠に入ると、夢はそこで忘れられてしまいます。朝起きても覚えている夢は、起きる直前のレム睡眠のときに見たもので、その後ノンレム睡眠に入らなかったために覚えているのです。
表.3 「レム睡眠」と「ノンレム睡眠」の違い
|
レム睡眠 |
ノンレム睡眠 |
大脳の活動 |
部分的に活発に活動 |
全体的に低い |
体の活動 |
筋肉は弛緩状態でほとんど動かない |
軽い緊張状態で寝返りなどをする |
眼球の運動 |
素早く運動する |
入眠時だけゆっくりとした運動がある |
自律神経系 |
不安定で、交感神経活動も見られる |
副交感神経が優位(リラックス状態) |
心拍数・呼吸 |
変動する |
低下する |
夢 |
鮮明な夢を見る |
夢はほとんど見ない |
それでは、レム睡眠のときになぜ脳は活動するのでしょうか?「夢判断」の著書で知られる精神医学者のフロイトは、「科学は夢の本質に触れるような、あるいはその謎のいくつかに解答を与えることには全く貢献していない」という意味の発言を残しています。それでも科学者は、フロイトのように夢の内容を分析するのではなく、人体の仕組みとしての「夢」の解明に勤しんできました。人は何のために夢を見るのか――これがたった一つの命題でした。
こうして分かってきたことが、夢の目的は「情報整理」なのではないかということです。レム睡眠中に、昼間の行動で経験した事柄の中から、重要な情報だけを選んで、記憶として海馬に保存しているのではないかと考えられています。また、昼間に脳が受け取った情報のうちで、不要なものを海馬から消去しているという説もあります。そうしなければ、コンピューターがメモリ不足で動かなくなってしまうことがあるように、人間の脳も情報で溢れかえって収拾がつかなくなるというのです。この二つの説は、「保存」と「消去」という全く逆の働きのように聞こえますが、「情報整理」という観点からすれば、ほとんど同じことです。また、心理学者の中には、目覚めていたときに処理し切れなかった意識が「感情」として蓄積された結果、その感情を「夢」という形で処理していると唱える人もいます。しかし、これも「起きている時間に蓄えられたものを処理している」と考えれば、保存と消去という働きと同一線上にあります。
一方で、全く別の見解で、「夢は脳の生理現象に過ぎない」という説もあります。脳幹の神経の集中した部分が、脳の中枢へ何らかの信号を発することがあり、その信号が目に見える映像を作り出しているだけだという考えです。いずれにせよ、睡眠のメカニズムすら完全に解明されていない現在では、夢の正体までは掴み切れていません。
(iv) 不眠症のリスク
日本人の睡眠時間は、調査機関や調査対象者によって結果は多少異なりますが、世界でも有数の「短時間睡眠民族」であることは間違いありません。忙しくて寝る時間がない人もいるでしょうし、睡眠障害によって睡眠時間が十分に取れない人も少なくないようです。2015年の国民栄養・健康調査によると、睡眠時間が6時間以下の人(ショートスリーパー)の割合は約4割に達し、特に働き盛りである男性の30〜50歳、女性の40〜50歳では、その割合がさらに高くなっています。フランスの皇帝であったナポレオンの睡眠が、毎日3時間程度であったというのは有名な話ですが、そのようなショートスリーパーは、本来はまれな存在です。もっとも、ナポレオンは移動する馬上などでウトウトすることも多かったそうなので、実際にはもう少し睡眠時間が長かったという説もあります。
慢性的な睡眠不足は「睡眠負債」と呼ばれていて、毎日のわずかな睡眠不足であってもそれが積み重なって、大きな負債となってしまいます。負債が蓄積した結果、脳機能が低下し、仕事がはかどらなかったり、うつ病や不安障害の発症率が高まったりします。さらに、睡眠負債の蓄積は、糖尿病や高血圧、高コレステロール、認知症などと関連することも科学的に証明されています。睡眠時間と死亡率の関係を調査した研究では、睡眠時間が7〜8時間の人が最も死亡率が低く、これより短くても長くても死亡率は増加することが明らかにされています。また、睡眠時間が6時間以下の人は、7時間寝ている人より、乳ガンの発症リスクが1.6倍になったとする研究もあります。睡眠時間が短いと肥満傾向になることも指摘されており、女性を対象とした研究では、睡眠時間7時間の人が最もBMIが低かったと報告されています。
図.19 不眠症は、糖尿病や高血圧、高コレステロール、認知症などと関連することが科学的に証明されている
うつ病患者の8割が不眠に悩んでいるように、不眠があるとうつ病になりやすいことは明らかです。それでは、うつ病と不眠の因果関係はどうなっているのでしょうか?すなわち、うつ病になったから不眠になるのか、不眠になったからうつ病になるのか――どちらが真実に近いのかということです。2003年、スタンフォード大学の医師モーリス・オハヨンは、抑うつ気分と不眠症状が現れる時期を比較しました。その結果は、うつ病患者のうちで不眠症状が先に現れてあとから抑うつ気分が現れる割合が41%、不眠症状と抑うつ気分が同時に現れる場合と、抑うつ気分が先であとから不眠症状が現れる場合がそれぞれ約29%ずつでした。つまり、不眠症はうつ病の原因になるか、あるいはうつ病よりも早い時期に現れる症状の可能性が高いということです。
不眠が長く続くとうつ病になりやすいかどうかを知るため、フォードとキャメロウは、18歳以上の一般住民7,954人を1年間観察しました。調査開始の時点でうつ病でなかった人のうち、不眠があり1年後にも不眠が続いていた人は、もともと不眠ではなかった人に比べて、うつ病の発症率が約40倍にもなっていました。日本でも、2006年に日本大学精神科の内山真が、不眠とうつ病の関係性を報告しています。65歳以上の高齢者を対象として行われた研究で、調査開始時点で不眠があった人は、不眠がなかった人に比べて、数年後におけるうつ病発症リスクが3倍になっていました。アメリカのチャンは、1997年に最長34年の追跡調査の結果を発表しています。名門として知られているジョン・ポプキンス大学医学部の男子卒業生1,053名を追跡すると、学生時代に不眠があった人はなかった人に比べて、うつ病の発症率が約2倍になることが明らかになりました。特に追跡期間18年以降にうつ病の発症が急に増え、不眠はうつ病の危険因子であることが分かります。不眠がこれほど長期間に渡って精神にダメージを与え続けるとは、恐ろしいことです。
表.4 うつ病と睡眠障害の関係
|
うつ病より前 |
うつ病と同時 |
うつ病よりあと |
初発うつ病 |
41.0% |
29.4% |
28.9% |
再発うつ病 |
56.2% |
22.1% |
21.6% |
不眠がうつ病を引き起こすメカニズムは、未だにはっきりしていませんが、次のような仮説が考えられています。精神的あるいは身体的なストレスは、不眠の原因となります。強いストレスが続くと、視床下部—下垂体—副腎皮質系(HPA系)の活動が盛んになります。このHPA系は、心身を健全に保つための様々なホルモンを分泌しています。強いストレスに対抗するため、HPA系が分泌するホルモン量は多くなりますが、実はこれらのホルモン(特にコルチゾール)には覚醒度を高める働きもあります。そのため、ストレスがHPA系を活性化し、HPA系から出るホルモンが不眠を増長するという悪循環に陥ってしまいます。多くの人は、ストレスの原因が亡くなれば、再び眠れるようになります。しかし、ストレスに弱い人や上手にストレスに対処できない人は、ストレスの原因が取り除かれても不眠が続きます。不眠が続くと、脳の一部の働きが悪くなってきます。恐らく、ストレスホルモンが脳の海馬を破壊するため、神経回路の機能が低下して、うつ病になるのではないかと考えられています。
(5) アルツハイマー病とは?
(i) アルツハイマー病の進行過程と症状
「アルツハイマー病」は、脳の神経細胞(ニューロン)が次々に死んでいき、精神活動が破壊される病気です。認知症の60〜70%の原因となっており、進行すると言語障害、見当識障害、抑うつ、行動障害などの症状が現れます。高齢になって突然発症するものではなく、数十年をかけて、脳の中でゆっくりと発症に向けて病状が進行していきます。患者の脳は、病気の進行とともに萎縮し、成人では1,300〜1,500 gある脳重量が、最終的には800〜900 gに減ってしまい、二度と回復することはありません。一度症状が現れてしまうと、それを治す薬は現在ありません。アルツハイマー病の薬はありますが、それは病気を根本的に治すものではなく、その進行を遅らせるだけのものです。
アルツハイマー病は、遺伝性の「家族性(若年性)アルツハイマー病」と、症例が圧倒的に多い「アルツハイマー型認知症」に大別できます。遺伝性の「家族性アルツハイマー病」は、研究が進んでおり、現在では「原因が解明された遺伝性疾患」として真っ先に挙げられることも多いです。どちらのアルツハイマー病も、脳の中に「老人斑(アミロイド斑)」という有害なタンパク質が蓄積され、これが神経細胞(ニューロン)を変性させることで引き起こされます。
図.21 アルツハイマー病になると、神経細胞(ニューロン)が破壊されて脳が委縮するようになる
アルツハイマー病の症状は、日常の小さな異変から始まります。例えば、ある朝起き出して食卓に着いたら、目の前に見知らぬ人間が座っている――といったことです。脳の神経細胞(ニューロン)が破壊され始めたために記憶障害が起こり、夫や妻、あるいは自分の子供の顔さえ忘れてしまうのです。これは、認知障害(認知症)の初期症状であり、初めのうちは「健忘症」と見分けがつきません。ところが、健忘症の場合では、思い出せない名前や場所があっても、周囲の人から指摘されれば「ああ、そうそう」と思い出すことができるのですが、認知症の場合では、指摘されても記憶が蘇らないのです。この違いによって、自分が単なる健忘症ではないらしいと自覚することができます。
アルツハイマー病による認知障害は、時間経過とともにエスカレートしていくため、早晩周囲の人間がその異常に気付きます。親戚の人間の写真を見て「これは誰だっけ?」と家族に何度も尋ねる、街で誰かと待ち合わせをしても約束したこと自体を覚えていない、食事をしたばかりなのに食べたことを忘れてしまうなどが、頻繁に起こるようになります。同時に身なりに無頓着になり、ボタンをかけ違えたりしても、それを本人が自覚しない状態になります。仕事をしている人では、計画性や管理能力が著しく低下し、新しい事業計画について打ち合わせができないとか、部下に適切な指示を出せないなどの変化に、同僚が気付くことになります。
また、しばしば妄想が現れるようになり、財布や預金通帳の保管場所を忘れて家族の誰かが盗んだとか、自分は毒を盛られている、夫や妻が不倫しているなどと思い込むこともあります。性格も変わり、積極的で明るかった人がうつ症状を示す、他人の配慮がなくなって暴力的になる、記憶障害を隠そうとして逆に礼儀正しくなる患者もいます。時間や空間の認識も早い段階から失われ、自宅の近くで道に迷ったり、ときには自宅の浴室やトイレの場所が分からなくなったりします。昼夜の区別がなくなり、夜中に起き出して朝の支度を始める、妻を自分の母親と間違えるなどということも起こります。
表.5 健忘症とアルツハイマー病の違い
|
健忘症 |
アルツハイマー病 |
原因 |
脳の老化現象 |
脳の神経細胞の破壊 |
体験の記憶 |
体験した内容の一部を忘れる |
体験した内容のすべてを忘れる |
物忘れの自覚 |
自覚がある |
自覚がない |
判断力 |
低下しない |
低下する |
日常生活の行動 |
特に支障なし |
支障をきたす |
人格 |
変化なし |
変化する場合がある |
アルツハイマー病の発症から数年すると、もはや歩くことも難しくなり、家族の顔も自分の顔も見分けられず、ほとんど寝たきりになります。食べ物を飲み込めなくなるために、体が急激に衰弱して、唾液や食べ物が気管に入ると肺炎を起こしたり、心臓に異常をきたしたりして、最終的には死亡することになります。統計では、患者は発症から平均して6年ほどで死亡します。
社会の高齢化の進展とともに、認知症の患者数も年々増加しています。内閣府の「日本における認知症の高齢者人口の将来推計に関する研究」の推計では、65歳以上の認知症患者数は2020年に約602万人、2025年には約675万人(有病率18.5%)になり、2025年には5.4人に1人程度が認知症になると予測されています。認知症を引き起こす原因は、大半が脳血管障害(脳出血や脳梗塞)とアルツハイマー病ですが、そのうちアルツハイマー病だけで、患者数は約300万人と推定されています。このような脳の病気に冒された人は、社会生活が極めて困難になり、常識的判断ができなくなるため、家庭や介護施設で虐待される、悪質な詐欺の対象となる、患者自身が暴力的になるなど、様々な問題が頻発するようになります。また、徘徊して交通事故に遭う、側溝や川に転落する、車を運転して事故を起こす、夜間に徘徊して凍死するなどのことも珍しくありません。2020年には、約18,000人の認知症患者が徘徊による事故などで死亡、または行方不明になっています。
(ii) アルツハイマー病の発症メカニズム
「アルツハイマー病」という病名は、この病気を初めて報告したドイツの精神科医アロイス・アルツハイマーに由来しています。1906年、アロイスはドイツのある精神病学会で、アウグステという名前の51歳の女性の症状について発表しました。この女性は、医師にかかる5年ほど前から記憶障害を示し始め、方向感覚を失った他、読み書きもほとんどできなくなりました。医師が彼女を初めて診察したときには、彼女自身や夫の名を尋ねても「アウグステ」とだけ繰り返し、他の質問にも的外れな答えしか返ってきませんでした。また、彼女はうつ症状や幻覚にも襲われ、奇矯な行動を示したといいます。
この女性が55歳で亡くなったとき、アロイスは彼女の脳を解剖して調べ、そこに著しい変性を見つけました。大脳全体が委縮していただけでなく、とりわけ「大脳皮質」が目立って薄くなっていたのです。大脳皮質は、思考や記憶、言語、運動などを支配する極めて重要な領域です。そこには小さな黒っぽい「シミ」も無数に現れていました。そのシミは、老人の脳に現れる「老人斑(アミロイド斑)」と似ているものの、彼女のシミは異常に多く、さらに「絡まった糸くず」のようなものも多数見つかりました。これは、後に「神経原繊維変化」と名付けられることになります。アルツハイマー病についての最近の理解では、この病気が脳を破壊するのは、老人斑と神経原繊維のどちらか、または両方が神経細胞(ニューロン)を損傷し、最終的に脳細胞が死んでしまうためと見られています。
図.22 ドイツの医師アロイス・アルツハイマーは、初めて「アルツハイマー病」を報告した
アルツハイマー病が進行すると、大脳皮質だけでなく、脳の深部の神経細胞(ニューロン)も破壊されるようになります。とりわけ、記憶を支配している海馬や、学習と記憶に重要な役割を持つ「マイネルト基底核」と呼ばれる部分が激しく損傷されるようです。アルツハイマー病で亡くなった患者の脳を死後に解剖すると、これらの部分の神経細胞は著しく縮小しており、健常者の20〜30%程度の大きさしかないそうです。マイネルト基底核の神経細胞は、「アセチルコリン」という神経伝達物質を用いていますが、患者の脳ではこのアセチルコリンが激減していることも明らかになっています。
そうだとすれば、アルツハイマー病の患者の脳内のアセチルコリンの量を増やしてやれば、症状が緩和するのではないでしょうか?アルツハイマー病の最初の治療薬「ドネペジル(商品名:アリセプト)」は、日本のエーザイ株式会社によって開発され、使用ができるようになったのは1999年のことです。この薬は、その作用の仕組みから「アセチルコリンエステラーゼ阻害剤」と呼ばれています。これは、アルツハイマー病患者の脳内で、アセチルコリンが減少していることに注目して開発されたものです。アリセプトは2010年に特許が切れたため、現在では各製薬会社からジェネリックが販売されています。
図.23 日本で開発されたアルツハイマー病の治療薬「アリセプト」は、世界的に使用されるようになった
アルツハイマー病には、遺伝性の「家族性(若年性)アルツハイマー病」と、症例が圧倒的に多い「アルツハイマー型認知症」があることは先述しました。アルツハイマー型認知症の場合、通常はかなり高齢にならない限り発症はしません。ところが、症例は少ないですが、40〜50代で発症するのが家族性アルツハイマー病です。こちらは優性遺伝するため、片方の親が正常であっても、その子供は50%の確率で、この遺伝子を引き継いでしまいます。この家族性アルツハイマー病の原因遺伝子として知られているのが、「アミロイド前駆体」「プレセニリン1」「プレセニリン2」です。
そして、アルツハイマー病を引き起こす「老人斑」のもとになっているのは、「アミロイドβ」というタンパク質です。アミロイドβには、40個のアミノ酸からなる「アミロイドβ40」と、42個のアミノ酸からなる「アミロイドβ42」という2種類が主に存在します。健康であれば、脳の神経細胞(ニューロン)からはアミロイドβ40が多く生じるのですが、これは水に溶けるのでほとんど蓄積しません。ところが、アミロイドβ42はアミノ酸がたった2個多いだけなのに、水に溶けない性質を持ちます。何らかの原因でアミロイドβ42が多く生じるようになると、これが神経細胞に蓄積し、その毒性で神経細胞が次々と死滅していくと考えられています。アルツハイマー病が「フォールディング病」の一つに数えられるのは、発症の原因となるアミロイドβ42が、タンパク質の「折り畳みミス(ミスフォールディング)」によって作り出されたものであるためです。こうしてミスフォールディングされた異常なタンパク質が、脳内に10年単位で沈着していくことで、ゆっくりと発症していくことになります。最近では、高血圧が慢性化することで、アミロイドβが蓄積しやすくなることも指摘されています。
表.6 家族性アルツハイマー病の原因遺伝子の種類と発病年齢
種類 |
発病年齢 |
原因遺伝子 |
AD1 |
40〜45歳 |
アミロイド前駆体 |
AD2 |
65歳以上 |
アポリポタンパク質E |
AD3 |
30〜40歳 |
プレセニリン1 |
AD4 |
55〜65歳 |
プレセニリン2 |
このアミロイドβは、アミロイド前駆体から作られるタンパク質(APP)の一部で、健康な人の脳では、アミロイドβが作られないように遺伝子が制御されています。ところが、アミロイド前駆体に突然変異が起こると、アミロイド前駆体から作られるタンパク質(APP)に異常な分解が起こり、アミロイドβが蓄積されていくようになってしまいます。このとき、APPを分解する酵素を活性化させ、老人斑を作る原因となるのが、先述した「プレセニリン1」と「プレセニリン2」です。
アミロイドβが作られる過程のあちこちに、遺伝子異常が見られるのが家族性です。それに比べると、特に遺伝子異常が見られないのが一般のアルツハイマー病という違いはありますが、アミロイドβの蓄積を抑えることができれば、アルツハイマー病の発症を抑えることができるというのは共通しています。発症プロセスのどこを止めるかという問題はありますが、創薬の目途は立ってきた訳です。
(iii) アルツハイマー病の治療
アルツハイマー病の患者の脳では、神経伝達物質「アセチルコリン」が減少していることから、逆にアセチルコリンの量を増やしてあげれば、症状が緩和するのではないか――このようなアプローチで創薬されたのが、「アセチルコリンエステラーゼ阻害剤」という治療薬です。アセチルコリンは、神経細胞間で情報を伝える重要な働きを担っていますが、通常アセチルコリンはその役割を終えると、「コリンエステラーゼ」という酵素によって分解されます。そこで、アセチルコリンエステラーゼ阻害剤は、この酵素の働きを妨げて、アセチルコリンの減少を防ごうとするものです。
世界で初めて開発されたアルツハイマー病の治療薬「アリセプト」は、代表的なアセチルコリンエステラーゼ阻害剤です。アリセプトを服用すると、痴呆の進行が緩やかになり、患者によっては記憶障害も改善し、物事に取り組む意欲が出てくることもあるといいます。薬の服用なしでは、発症から3年程度で家庭での介護が困難になっていたものが、服用を続ければ、5年以上も家庭で過ごすことができるとされています。「患者が自分自身の感情や記憶力によって生きられる時間を延ばせる」という意味で、非常に有意義であると言えるでしょう。家族にとっても、患者の自律性が高まれば、介護のための負担が軽減されることになります。しかしながら、徘徊などが増えて、場合によってはかえって介護が大変になる例もあるようです。
図.24 「アセチルコリンエステラーゼ阻害剤」を服用すると、アセチルコリンの量が増える
ただし、アセチルコリンエステラーゼ阻害剤によって症状が緩和されたように見えても、それは見かけだけに過ぎません。病気の進行、すなわち脳細胞が死んでいく過程を遅らせたり、停止させたりすることはできないのです。そこで現在では、アルツハイマー病のより本質的な治療を目指して、様々な新薬の開発が進んでいます。アルツハイマー病の研究者が最も真剣に求めているのは、この病気そのものを治す薬です。すでに死んでしまった神経細胞(ニューロン)を蘇らせることはできないとしても、原因を取り除いて、病気の進行を止める薬なら作れると考えているのです。
実際、アルツハイマー病が脳細胞を損傷させる仕組みが分かるにつれて、ある種の治療薬の可能性が見えてきました。これらの治療薬は、脳に生じる黒っぽいシミである「老人斑」をターゲットにしています。老人斑は「アミロイドβ」というタンパク質からできていますが、神経細胞の外側にこびりつくアミロイドβは、容易には溶解しません。そのため、20世紀の初めにすでに老人斑が見つかっていたのにも関わらず、なかなかそれを分離することができなかったのです。アミロイドβが死後のアルツハイマー病患者の脳から分離されたのは、ようやく1984年のことでした。皮肉にも、分離に成功した研究者ジョージ・グレナーは、心臓にアミロイドが沈着する病気で死亡しています。
図.25 アルツハイマー病において見られる「老人斑」
アミロイドβは、健康な人の脳内にもわずかに存在するものの、脳の細胞に沈着することはほとんどありません。というのも、健康な人では、不必要なアミロイドβは酵素によって分解されてしまうからです。それでは、なぜアルツハイマー病患者の脳では、アミロイドβが凝集し、脳細胞に沈着するのでしょうか?その理由はまだ十分に解明されてはいないものの、少なくともこの物質が神経細胞(ニューロン)に沈着すると、それが神経細胞同士の接続部(シナプス)の働きを妨害し、それによって神経細胞が死んでしまうことは明らかになっています。ちなみに、この「有害なタンパク質の沈着」は、ダウン症やパーキンソン病の患者の脳にも見られます。
そこで研究者たちは、アミロイドβの脳細胞への沈着を防ぐ薬を、様々な方角から検討しました。患者の免疫系にアミロイドβを攻撃させる一種のワクチン、あるいはアミロイドβの生産を妨害する薬などです。他にも、脳内のアミロイドβが集まって脳組織に沈着するのを防ぐ薬やアミロイドβを分解する酵素、あるいはアミロイドβを吸着して除去する薬などが研究されています。現在開発されているアルツハイマー病の新薬のほとんどは、神経細胞が徐々に死んでいく過程を阻止しようとするものです。少なくともアルツハイマー病の初期なら、認知障害の進行を止めるか遅らせることができる可能性があるからです。ただし、どの新薬も、重症の認知症患者を治療することは期待できそうもありません。認知症が重いということは、患者の脳の神経細胞の多くがすでに死んでいるからであり、それらの細胞を再生させることは、現在の神経細胞生理学の知識から見て困難と思えるからです。
しかし、近年になって、成人の脳にも神経細胞のもとになる細胞(神経幹細胞)が、わずかながら含まれていることが確認されました。つまり、一度死滅したら決して再生しないと考えられていた中枢神経細胞も、もしかすると再生すると考えられるようになったのです。そこで、すでに神経幹細胞を脳に移植する方法が試みられており、神経細胞がまだそれほど破壊されていない初期の患者では、ある程度の効果が見られたとされています。とはいえ、重症の患者でも回復させられるかどうかは分かりません。脳は心臓や肝臓、腎臓などとは本質的に異なり、人間の存在そのものでもあります。単に脳の組織の一部を再生しようとして、他から細胞を移植しても、それは胎児の脳のように記憶も経験もない「裸の細胞」を埋め込む試みです。一度死んでしまったアルツハイマー病の患者の脳が蘇るということとは、全く異なるものなのです。
(iv) アルツハイマー病の予防
ドイツのハインリッヒ・ハイネ大学のザシャ・ヴェーゲンらのグループは、解熱剤や鎮痛剤として幅広く使われている「アスピリン」に、アミロイドβの産生を抑える働きがあることを突き止め、2001年に発表しました。もともと、慢性関節リウマチの患者には、アルツハイマー型認知症が少ないことが1970年代に分かり、リウマチの治療のために服用し続けているアスピリンに、アルツハイマー病の予防効果があるのではないかと指摘されました。その後、数多くのグループが臨床研究を行った結果、やはりアスピリンにはアルツハイマー病に対し、ある程度の予防効果があることが確認されたのです。ただし、アルツハイマー病を予防するためには、長期間に渡り服用することが必要ですが、この場合、胃腸から出血しやすくなるなどの副作用もあるため、現時点ではアスピリンの長期服用がトータルで有効であるかどうかは未決着です。
図.26 アスピリンには、アルツハイマー病の予防効果がある
また、黒ニンニクに含まれる「S−アリルシステイン」というアミノ酸の一種に、アルツハイマー病の予防効果があることが確認されています。黒ニンニクとは、高い温度や湿度などの条件で、熟成させたニンニクのことです。「不思議な黒い果物」と呼ばれるだけあって、果物のような食感を持つ食材です。S−アリルシステインは、熟成しないニンニクにはほとんど含まれませんが、熟成させると数十倍に増加することが確認されています。アメリカのイリノイ大学の研究で、アルツハイマー病を発症するようにモデリングされたマウスに、熟成ニンニクエキスやS−アリルシステインを4カ月間与えたところ、S−アリルシステインがアミロイドβの沈着を抑えることが分かったとの報告があります。黒ニンニクを食べることは、アルツハイマー病の発症を遅らせるのに効果がありそうです。
図.27 黒ニンニクには、アルツハイマー病の予防効果がある
地中海沿岸地方では「不老長寿の秘薬」と言われるオリーブオイルにも、アルツハイマー病の予防効果が確認されています。地中海食では、1日に25〜50 mLものオリーブオイルを摂取します。オリーブオイルに含まれる成分の中で、その作用が注目されるのが「オレオカンタール」という物質です。オレオカンタールについては、炎症を抑えたり酸化を防いだりする効果が、以前より知られていました。近年では、この物質がアルツハイマー病の発症を遅らせる可能性を示す研究結果が発表されています。アメリカのルイジアナ州立大学のアブズナイトらの研究によると、オレオカンタールには脳内のアミロイドβを排出するための出口を多くする作用があるようです。マウスを使った実験では、出口を作るためのタンパク質の量は、オレオカンタールを摂取したマウスでは約1.3倍に増え、アミロイドβの排出量も約1.3倍になっていたということです。
図.28 「オレオカンタール」は、オリーブオイルの辛味成分である
その他に興味深い研究結果として、「携帯電話(スマートフォン)の電磁波がアルツハイマー病の予防になる」という研究が、2010年にある医学雑誌で報告されています。マウスを使った実験により、アルツハイマー病の原因となるアミロイドβが、電磁波によって減少することが判明したのです。電磁波によって有害なタンパク質の凝集が抑制されて血液中に排出されやすくなることと、電磁波によって脳細胞の活性が高まり有害なタンパク質が脳外に流れやすくなることが確認されたからだといいます。まだまだ研究段階であり、人の分厚い頭蓋骨を電磁波がどれだけ透過するのかなど不明点も多いですが、もし本当に効果が実証されれば画期的です。
図.29 携帯電話(スマートフォン)の電磁波が、アルツハイマー病の予防になるという研究結果がある
現在のところ、アルツハイマー病の予防のために最もお勧めできるのは、できるだけ運動をすることです。九州大学の藤島正敏らのグループが、福岡県久山町の住民を対象に行った調査によれば、高齢になっても積極的に運動をする人は、そうでない人に比べて、アルツハイマー病を発症する危険性が80%も低いということです。マウスを使った実験では、遺伝的に認知症を発症しやすいマウスを飼育するゲージの中に、ランニング・ホイール(クルクルと回る用具)を入れて運動の機会を与えておくと、この用具を与えない場合に比べて、発症が遅れるという結果があります。同様の研究結果は、カリフォルニア大学やハーバード大学などの異なる研究グループからも発表されており、運動が予防効果を持つというのは、かなりの信頼が持てそうです。
(6) うつ病とは?
(i) うつ病の症状と診断方法
「うつ病」が進行したときの最終ゴール、それは自殺願望であり自殺です。精神の落ち込んだ状態を放置しておくと、肉体的な病気でなくても、自らの人生にピリオドを打つことになります。「うつ病」は、どんな性格や気質の人でも発症する可能性のある、現代の最も代表的な精神疾患です。自分はエネルギッシュな人間だとか、精神状態がいつも安定していると思っている人でも、いつ「うつ病」という深刻な脳の病気を発症するかは、誰にも予測できません。今の自分を振り返ったときに、このところ感情の起伏が停滞して気分が重苦しいとか、黒いカーテンが頭上に覆いかぶさっているようだなどと感じたら、それはすでに「うつ症状」を示しています。さらに、外の世界の出来事に対する関心が薄れ、人がみな愚かしく思え、見るもの聞くものに何の意味も価値もないように感じてきたら、すでに立派な「うつ病」患者の切符を手にしたことになります。
うつ病を発症する人の数は、他のあらゆる精神疾患の患者数をはるかに上回っています。アメリカでは、うつ病患者についての詳しい統計が公表されています。それによると、アメリカでは10人に1人がうつ病に苦しみ、毎年43,000人近い自殺者がいます(乳ガンや交通事故の死亡者より多い)。男性の12%、女性の20%が、一生のどこかで本格的なうつ病を発症し、また10%以上は生涯に2回以上発症するといいます。日本でも、近年うつ病になる人が激増しており、その数は15人に1人とも見られているので、単純な人口比でいえば800万人以上が、この病気を発症していることになります。周囲を見渡せば、何人かのうつ症状を示している人がいるということであり、それはもしかすると、明日の自分自身かもしれません。次の表.7の簡単な質問に答えると、「うつ病」の自己診断ができます。「合計点×1.25した点数」が、あなたの得点です。49点以下は問題なし、50〜59点は軽度のうつ状態、60〜69点は中程度のうつ状態、70点以上は重度のうつ状態です。
表.7 「うつ病」の自己診断
|
ほとんどない |
ときどきそうだ |
かなりそうだ |
たいていそうだ |
@ 気分が沈んで憂鬱だ |
1 |
2 |
3 |
4 |
A 朝方一番気分が良い |
4 |
3 |
2 |
1 |
B 泣く、泣きたくなる |
1 |
2 |
3 |
4 |
C 夜よく眠れない |
1 |
2 |
3 |
4 |
D 食欲がある |
4 |
3 |
2 |
1 |
E 異性に関心がある |
4 |
3 |
2 |
1 |
F 痩せてきた |
1 |
2 |
3 |
4 |
G 便秘する |
1 |
2 |
3 |
4 |
H 心臓がドキドキする |
1 |
2 |
3 |
4 |
I 朝疲れやすい |
1 |
2 |
3 |
4 |
J 考えがよくまとまる |
4 |
3 |
2 |
1 |
K 何事も容易にできる |
4 |
3 |
2 |
1 |
L 落ち着かない |
1 |
2 |
3 |
4 |
M 将来に希望がある |
4 |
3 |
2 |
1 |
N イライラする |
1 |
2 |
3 |
4 |
O 気軽に決心できる |
4 |
3 |
2 |
1 |
P 自分は役立つ人間だと思う |
4 |
3 |
2 |
1 |
Q 人生が充実していると思う |
4 |
3 |
2 |
1 |
R 自分は死んだ方がいいと思う |
1 |
2 |
3 |
4 |
S 日常生活に満足している |
4 |
3 |
2 |
1 |
(ii) なぜうつ病になるのか?
かつて、うつ病は他のある種の精神疾患と同じように、「遺伝的要因」によるものと考えられていました。すなわち、血縁者にそのような傾向が見られる人は、うつ病を発症する確率が高いとされていたのです。しかし、1950年代のはじめにアメリカで、うつ病が「遺伝的要因」や「環境からのストレス」などが原因で発症するものでないとする見方が生まれました。そして、うつ病の正体は、「脳の神経生理学的な病気」だとされるようになったのです。このような見方が生まれたきっかけは、多数の高血圧患者や結核患者が示したある顕著な症状でした。治療のために長い間、血圧降下剤を使用している人が重いうつ病を発症する、あるいは結核の治療薬を使用した人のうつ症状が軽くなるという報告が、数多くの医療機関から報告されたのです。
そして、血圧降下剤や結核治療薬に含まれる成分が脳に作用して、うつ症状を引き起こしたり、逆に改善したりするのではないかとする見方が強まりました。このとき、うつ病の原因物質として浮上したのが、「モノアミン類(アミノ基を分子内に1つ持つ化合物)」でした。というのも、血圧降下剤が脳内のモノアミン類を減少させ、一方で結核の治療薬はモノアミン類の分解を防ぐように作用することが分かったからです。そこで、「うつ病は脳内のモノアミン類が減少すると発症するのではないか」との学説が発表され、これは以後「モノアミン学説」と呼ばれ、うつ病の仕組みを説明するものとして、専門家たちの間にも定着することになります。モノアミン類にも多くの種類があるため、当時の研究者はどれがうつ病の犯人かを見つけようと、動物実験による探索に没頭しました。そして、ついに突き止めたのが、「セロトニン」という物質でした。この物質は、脳内では神経細胞同士の接続部(シナプス)で分泌され、情報を伝える「神経伝達物質」として働きます。セロトニンの減少でうつ病が引き起こされるのなら、セロトニンを外部から十分に供給すれば、うつ病を治すことができるのではないでしょうか?
図.30 「セロトニン」は精神を安定させ、生体リズムや神経内分泌、睡眠、体温調節などに関与する
こうして1950年代末には、最初のうつ病治療薬としての「三環系抗うつ剤」が次々に合成化され、製品化されました。「三環系」というのは、分子構造の中に3つの環状構造が含まれるという意味です。実際にこれらの抗うつ剤は、脳内のセロトニンの働きを活性化することが確認され、治療に用いられるようになりました。セロトニンは、体内では合成されない必須アミノ酸の「トリプトファン」が脳内で代謝されるときに生成される物質で、私たちの心や体に非常に広範な作用を及ぼします。俗に「ハッピーケミカル」と呼ばれるように、気分の安定に重要な働きをする神経伝達物質です。セロトニンの脳内の濃度が高いと楽観的になり、低いと神経質で不安を感じやすくなります。現在では、脳内のセロトニンが増えたり減ったりすると、食欲や睡眠、記憶、体温制御、気分、行動、心臓血管の働き、筋肉や血管の収縮、内分泌の活動などが影響を受け、さらにうつ病にも深く関わっていることが明らかになっています。
図.31 薬の分子構造に3つの環状構造が含まれるものを「三環系」という。この構造が4つのものは「四環系」という
セロトニンは、脳の神経細胞(ニューロン)から放出されると、シナプス間の間隙を渡って、隣の神経細胞の受容体(リセプター)に取り込まれます。これによって、情報が一つの神経細胞から次の神経細胞へと伝わります。しかし、放出されたすべてのセロトニンが、隣の神経細胞の受容体に取り込まれる訳ではありません。シナプス間に浮遊している一部のセロトニンは、「セロトニントランスポーター」と呼ばれる場所からもとの神経細胞へと再吸収されてしまいます。このとき、もし再吸収が過剰に起これば、情報を伝達するセロトニンは不足状態となり、それが心や体の働きに様々な影響を引き起こすことになります。また、セロトニンの受容体には、分泌したセロトニンをフィードバックし、放出を抑制する「自己受容体」が全シナプスに存在し、これがうつ病に深く関わっている可能性も指摘されています。
このようにうつ病の原因は、脳内の神経伝達系にあると考えられており、セロトニンなどの神経伝達物質の働きを調整することに主眼が置かれています。創薬という観点から見た場合、受容体(ヒトには14種類ものセロトニン受容体がある)やトランスポーター、あるいはセロトニンの合成酵素や分解酵素など、個々のタンパク質の働きによって、セロトニンの分泌量が変化します。化学構造や作用機序によって種類が変わってきますが、開発された年代をたどっていくと、@三環系→A四環系→BSSRI(選択的セロトニン再吸収阻害剤)→CSNRI(セロトニン・ノルアドレナリン再吸収阻害剤)→DNaSSA(ノルアドレナリン・セロトニン作動性抗うつ剤)という、おおよそ5つのグループに分類できます。新しく開発された薬の方が、ターゲットとなる受容体に選択的に作用するため、副作用が少なくより高い治癒効果を期待できる傾向にありますが、薬との相性には個人差があるので、古い薬が不要とは必ずしも言えません。脳の神経伝達の複雑さ、個々の薬の性質などをよく理解した上で、処方に当たる必要があるのです。
図.32 セロトニンの減少により、うつ症状が現れることになる
(iii) うつ病の治療
三環系抗うつ剤の原理は、「セロトニンを再吸収する受容体を塞いで、再吸収が起こらないようにする」というものです。こうすれば、放出されたセロトニンの大半が隣の神経細胞(ニューロン)の受容体に受け渡され、情報が滞りなく伝えられることになります。この種の抗うつ剤は、「アナフラニール」「トフラニール」「イミドール」などの製品名で、広く使用されてきました。
しかし、三環系抗うつ剤には問題もありました。服用を始めてもすぐには効果が現れず、毎日服用して2〜3週間ほどで効果が現れてきます。さらに、セロトニン以外の神経伝達物質の再吸収も妨げることもあって、めまいや立ちくらみ、眠気、口渇、便秘などの様々な副作用も多く現れました。また、多量服用すると急性中毒を起こし、ときには死を招くこともあります。そのため、自殺目的で使用されることも少なくありませんでした。その後、これらの欠点を改良した「四環系抗うつ剤」が開発されました。現在でも、この系統の抗うつ剤は広く使用されているものの、三環系抗うつ剤の問題点が完全に解決した訳ではありません。また、四環系抗うつ剤は、副作用が三環系よりも少なくなったものの、その分うつ病の症状を改善する効果も弱まりました。
図.33 「アナフラニール」は、脳内のセロトニンの神経終末への取り込みを阻害する
そこで、1980年代末に新たに登場したのが、「セロトニンの再吸収を妨害することのみ」を目的にした新世代の抗うつ剤です。それは「選択的セロトニン再吸収阻害剤(Selective Serotonin Reuptake Inhibitors)」のことで、英語名の頭文字を取って「SSRI」といいます。モノアミン類全体に作用する三環系や四環系と違って、SSRIはセロトニンの再取り込みだけを選択的に阻害してくれるため、セロトニンの神経伝達をピンポイントで調整しやすく、しかも副作用が比較的少ないという特長があります。SSRIは登場して間もなく、うつ病の優れた治療薬としてだけでなく、その精神作用に及ぼす劇的効果が、とりわけアメリカでは一種の社会現象を引き起こしました。
SSRIの中で最も有名になった薬は、1980年代末にイギリスのイーライリリー社が発売した「プロザック」です。この薬が世界的に知られるようになった最大の理由はおそらく、うつ上の患者の治療としてよりも、非常に多くの健常者によって使用されるようになったためでしょう。この薬を飲むと、気分が高揚してエネルギッシュで快活になるとされたのです。例えば、これから重要な取引に向かうビジネスマンや、大勢の人々の前で講演などをするというときに緊張しやすい人、あるいは女性との初めてのデートに出かける気弱な男性などが、自宅を出る前にこの薬を服用したとします。すると、明るく自信に満ちて振る舞えるようになるというのです。こうしてプロザックは、病気の治療薬というより、積極的で元気な日常を送り、人生で成功するための「奇跡の薬」のようになってしまったという訳です。プロザックは、1993年にはアメリカの代表的な週刊誌「ニューズウィーク」の表紙を飾り、科学雑誌はその仕組みを解説し、新聞や雑誌にはその広告が繰り返し掲載されました。少なくとも多くのアメリカ人にとってプロザックは、バイアグラなどと並んで、「幸福な人生」に不可欠の薬になったのです。
図.34 「プロザック」は「奇跡の薬」とも言われ、アメリカで大変な人気を博した
プロザックの成分は、「塩酸フルオキセチン」です。この物質は、古くからの抗うつ剤である三環系や四環系の薬物とは化学構造が大きく異なり、セロトニンの再吸収のみを非常に強力に阻害することが確かめられています。このような特徴によってうつ症状を緩和する他、同じようにセロトニンが原因となって起こると見られる強迫性障害や過食症、あるいはパニック障害に対しても、その症状を抑制する効果があるとされています。また、従来の抗うつ剤のように、セロトニン以外の神経伝達物質に対して作用が及ぶことがなく、副作用が少ないとされていることも、爆発的な売れ行きを後押ししたようです。
とはいえ、どんな薬にも副作用はやはり存在します。例えば、この薬を健常者が常用すると、それまで内省的で物静かな性格だった人が、不自然に積極的で活発な表情や振る舞いを示して、一種の興奮状態あるいは躁状態となり、自分で自分をコントロールできなくなるというものです。また、うつ症状を抑制せず、逆に強い自殺衝動を引き起こし、実際に自殺した人もいるとする報告もあります。そこでアメリカでは、「人格の変貌」を引き起こすこれらの薬物に反対する人々が、いくつもの訴訟を起こす事態となっています。
自殺衝動などの危険な副作用については、さらに新たな問題も提起されています。それは、アメリカのある医学雑誌が、1988年に作られたプロザックの製薬企業イーライリリー社の内部資料を入手して調べたところ、そこには臨床試験の段階で、この薬の自殺衝動などの副作用がすでに明らかになっていたことが記されていたとするものです。しかし、イーライリリー社は、アメリカにおける薬の承認作業を行ったFDA(アメリカ食品医薬品局)に、そのデータを提出しなかったといいます。当時、この薬の承認作業に当たった評価委員の一人は、ある取材に対して、「我々はそのデータを提供されなかった。もしそれを知っていたなら、私は薬の安全性について、異なった判断を下していただろう。実際の副作用は、当時我々が考えたレベルを上回っているからだ」と答えています。しかし、このような問題があっても、人々の新しい抗うつ剤への関心は、弱まることがないようです。
(iv) 新たな抗うつ剤の登場
プロザックの登場から6年後の1993年には、SSRIを改良した薬も登場しています。これは、セロトニンと並んでうつ病に関係すると見られる神経伝達物質「ノルアドレナリン」の再吸収をも同時に阻害することから、「セロトニン・ノルアドレナリン再吸収阻害剤(Serotonin Noradrenaline Reuptake Inhibitors)」と呼ばれます。略称は、英語名の頭文字を取って「SNRI」です。この薬は、アメリカのワイス製薬社が最初に発売したもので、「エフェキソール(薬品名は塩酸べンラファキシン)」という名前が付いています。
確かにSSRIもSNRIも、三環系や四環系の抗うつ剤より治療効果は優れています。しかし、使用量が増えるにつれ、作用発現までに時間がかかるようになったり、悪心や嘔吐、下痢などの副作用が現れるようになったりと、問題点も明らかになっています。また、どちらも自殺願望を生じさせる危険のあることが欧米で問題になっており、とりわけイギリスの医薬品規制当局(MHRA)が2004年12月、「SNRIによる死亡率はSSRIの場合より高い」として警告を行ったことなどを見ても、これらの薬の使用には、慎重さが必要であることが分かります。
図.35 「エフェキソール」は、体内と大脳内のセロトニンとノルアドレナリンの濃度を上昇させる
こうした経緯から、臨床の現場からは、副作用がさらに少ない新たな抗うつ剤の開発が望まれるようになりました。SSRIやSNRIとも異なる次世代の抗うつ剤は、「ノルアドレナリン・セロトニン作動性抗うつ剤(Noradrenergic and Specific Serotonergic Antidepressant)」です。略称は、英語名の頭文字を取って「NaSSA」です。その作用機序はSSRIやSNRIとは異なり、ノルアドレナリンの放出を抑えるように働く受容体(α2自己受容体)や、セロトニン放出を抑えるように働く受容体(5—HT2及び5—HT3受容体)を阻害することによって、ノルアドレナリンやセロトニンの放出を促進し、抗うつ作用を発揮します。短時間で治療効果が発現し、しかもその効果が持続的であるという特長があります。オランダのオルガノン社が開発した「ミルタザピン(商品名:リフレックス、レメロンなど)」は、2009年3月までに93カ国で承認され、日本でも2009年7月から製造販売が承認されています。
うつ病の生理的、生物学的なメカニズムはまだ完全に解明されているとは言えません。この精神疾患の中にはやはり、かつて考えられていたように家族性(遺伝性)の症例があるとする研究者、あるいはうつ病はある種のホルモンの分泌異常と深く関係していると考える研究者もいます。優れた薬を開発するには、その全段階として治療対象の病気の原因や仕組みが十分に解明されている必要があります。健康な精神生活を送っていた人間が、突然うつ病を発症し、次第に自殺願望へと進んでいくという生理学的なプロセスを完全に理解できるまで、抗うつ剤には未知の側面が付いて回ることになります。
(v) なぜ日本人にはうつ病が多いのか?
日本人の間でうつ病が多いことは広く知られており、「うつ病は日本の風土病」とまで言う精神科医もいます。ドイツの精神医学者テレンバッハが提唱した「メランコリー親和型うつ病」は、高い神経症傾向に加えて外向性が低い(内向的な)場合に特になりやすいと言われています。「真面目」「几帳面」「責任感が強い」「周囲の目を気にする」「人間関係のトラブルを嫌う」などの日本人の典型的な性格は、うつ病前性格「メランコリー親和型」そのものです。しかし、なぜ日本人の性格は「メランコリー親和型」なのでしょうか。その最も説得力のある仮説は、「脳内のセロトニン濃度が生得的に低いから」です。
セロトニンを運搬する遺伝子(セロトニントランスポーター)には、セロトニンを運搬する能力が高い「L型」と運搬能力が低い「S型」があり、この遺伝子の組み合わせで「LL型」「SL型」「SS型」という3つの遺伝子型が決まります。LL型の運搬遺伝子を持つ人はセロトニン発現量が多く、SL型、SS型とセロトニン濃度が低くなっていきます。このセロトニン運搬遺伝子の型は、人種によって大きく異なっていることが分かっています。傾向としては、アフリカ系やヨーロッパ系はL型が多く、東アジア系はS型が多いです。次の表.8を見れば分かるように、とりわけ日本人はLL型の割合が3.2%と世界で最も少なく、SS型の割合は65.1%と世界で最も多いです。日本人の96%がS型の保有者であり、3人に2人がSS型で脳内のセロトニン発現量が少なく、不安感や抑うつ傾向が強い――これが、うつ病を日本の「風土病」にしている原因なのではないかと考えられています。同様の傾向は、中国や韓国も同じで、ここから東アジアの国でうつ病や自殺が大きな社会問題になっていることが説明できます。東アジア系の人間は、遺伝的・生得的に脳内のセロトニン濃度が少ないことで不安を抱きやすく、強いストレスにさらされると、抑うつ状態になりやすい脆弱性を持っているのです。
表.8 セロトニン運搬遺伝子の国別比率(%)
|
LL型 |
SL型 |
SS型 |
クロアチア |
38.2 |
47.5 |
14.3 |
ロシア(ロシア系) |
31.3 |
48.8 |
29.9 |
ロシア(タタール系) |
27.9 |
44.7 |
27.4 |
ロシア(デュルク系) |
26.4 |
46.4 |
27.2 |
ドイツ |
37.3 |
44.7 |
18 |
オーストリア |
34.9 |
44.5 |
20.6 |
イギリス |
33.4 |
48.7 |
17.9 |
ハンガリー |
35.1 |
45.7 |
19.2 |
スペイン |
34.9 |
44.6 |
20.5 |
イタリア |
14 |
57.3 |
28.7 |
アメリカ |
32.3 |
48.9 |
18.8 |
中国 |
13 |
31 |
56 |
韓国 |
4.8 |
40.9 |
54.4 |
日本 |
3.2 |
31.7 |
65.1 |
ただし、「セロトニンの運搬量が少ないS型の遺伝子がうつ病を引き起こす」という仮説には、大きな疑問があります。それは、進化の過程ではL型の遺伝子が先にあり(そのためアフリカ人に多い)、そのあとにS型の対立遺伝子が登場したことです。これだと、ヒトは「うつ病になるように進化した」ことになってしまいます。S型の遺伝子は、一体何のために存在しているのでしょうか?この疑問は、オックスフォード大学の感情神経科学センターのエレーヌ・フォックスによって解決されました。
フォックスは学生を使った実験により、セロトニン運搬遺伝子についての新たな仮説を提唱しました。それは、「神経伝達物質に作用するいくつかの遺伝子の発現量が低い人は、良い環境と悪い環境のどちらにも、敏感に反応しやすい」というものです。遺伝子と環境の相互作用を調べたこれまでの実験では、被験者に起きたネガティブな出来事やそれがもたらす悪影響ばかりに焦点を当てていたため、SS型はストレスに弱く、不安感を強める脆弱な「うつ病の遺伝子型」というレッテルが貼られていました。しかし、実はそうではなく、SS型はネガティブな刺激に対しても、ポジティブな刺激に対しても、環境の変化に敏感に反応しやすいだけだったのです。逆に言うと、ストレスに強く楽観的な性格に見えたLL型は、実は環境の変化に鈍感なだけだったのです。SS型とLL型のヒトが同じくらい辛い出来事にあうと、その夜により強いストレスを感じるのはSS型です。しかし、その一方で、非常に楽しい出来事があった日の夜には、SS型のヒトが感じるストレスはLL型よりもはるかに少ないのです。S型はネガティブな環境のときには不利に働く遺伝子型ですが、ポジティブな環境のときには大きな利益をもたらす遺伝子型だったのです。
アフリカ系やヨーロッパ系に多いL型の遺伝子は環境に対して低反応ですが、東アジア系に多いS型の遺伝子は環境に対して高反応です。日本人が内向的なのは人嫌いなのではなく、相手の微妙な反応を読み取ろうとして疲れてしまうからです。一方で、欧米人が社交的で明るく見えるのは、相手の反応を気にしない鈍感さから生まれたものなのでしょう。ここから、なぜL型の遺伝子からS型が現れたのかも説明できます。それは、閉鎖的な農耕社会の中で、共同体の親密でストレスフルな人間関係に上手く適応するのに、S型の遺伝子が役立ったからです。これが、いち早く農耕文明に移行した東アジア系にS型の遺伝子が多く、アフリカ系にL型遺伝子が多く残っている理由でしょう。環境の変化を感じやすくなるように進化することで、相手の気持ちを素早く忖度できるようになり、狩猟採集生活ではあり得なかった人口稠密な共同体を維持することが可能になったのです。
・参考文献
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3) Cody Cassidy and Paul Doherty著/梶山あゆみ 訳「とんでもない死に方の科学――もし●●したら、あなたはこう死ぬ」河出書房新社(2018年発行)
4) 橘玲「もっと言ってはいけない」新潮社(2019年発行)
5) 日本博学倶楽部「[決定版]「科学の謎」未解決ファイル」株式会社PHP研究所(2013年発行)
6) 浜村良久「面白いほどよくわかる 心理学のすべて」日本文芸社(2007年発行)
7) 矢沢サイエンスオフィス「薬は体に何をするか―「あの薬」が効くしくみ―」技術評論社(2006年発行)
8) 薬理凶室「悪魔が教える 願いが叶う毒と薬」三才ブックス(2016年発行)
9) 山ア昌廣「人体の限界 人はどこまで耐えられるのか 人の能力はどこまで伸ばせるのか」SBクリエイティブ株式会社(2018年発行)
10) Yuval Noah Harari 著/柴田裕之 訳「サピエンス全史(上)―文明の構造と人類の幸福」河出書房新社(2016年発行)