・DDTの科学


(1)「沈黙の春」でやり玉にあげられたDDT

 1962年、アメリカの生物学者であるレイチェル・カーソンは、著書「沈黙の春」の中で、農薬で利用されている化学物質が引き起こす「環境問題」に警鐘を鳴らしました。カーソンは、「ジクロロジフェニルトリクロロエタン(dichloro-diphenyl-trichloroethaneDDT)」を始めとする農薬などの「化学物質の危険性」を、「鳥達が鳴かなくなった春」という出来事を通して、世間に訴えたのでした。「沈黙の春」は、発売されて半年で50万部も売れ、1964年にも新潮社から「生と死の妙薬-自然均衡の破壊者<科学薬品>」という題名で、日本語訳されて出版されています。

 

.1  「自然は沈黙した。薄気味悪い。鳥たちはどこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感に怯えた」(沈黙の春の有名な一節)

 

DDT」という化学物質は、1873年にオーストリアの化学者であるオトマール・ツァイドラーによって、初めて合成されました。しかし、当時は、DDTの「殺虫作用」は明らかになっておらず、それから長きに渡って放置されてきました。そして、1939年にスイスの化学者であるパウル・ヘルマン・ミュラーによって、その優れた「殺虫効果」が発見されました。当時、蛾による毛皮や毛糸の食害が問題になっており、ミュラーは蛾に対する有効な「殺虫剤」となる成分を探っていましたが、DDTは蛾だけでなく、多数の昆虫に有効でした。さらに、従来の殺虫剤は「経口摂取」に頼っていましたが、DDTは昆虫の体表に触れるだけで「接触毒」として作用するので、非常に効率的でした。ミュラーはこの功績によって、1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

 

.2  DDT」は、有機塩素系の強力な殺虫剤である

 

かつて、日本は「除虫菊」の世界的な生産国でした。除虫菊には、殺虫作用のある「ピレスロイド」が含まれています。ピレスロイドは、「哺乳類」や「鳥類」に対する毒性が低く、「昆虫」や「両生類」などに対する毒性が強いという特徴を持ち、「人畜防虫剤」として有用です。1895年、大日本除虫菊株式会社の創始者である上山英一郎は、この除虫菊を使って、渦巻き型の「蚊取線香」を発明しました。するとこれが評判になり、1905年には、日本のみならず、海外にも販売するほどの大ヒットとなりました。

アメリカでも、日本の蚊取線香は「モスキートコイル」の名で人気を博していましたが、第二次世界大戦が始まると、日本からの供給が途絶えてしまいました。そこで、アメリカが目を付けて、実用したものが「DDT」です。非常に安価に大量生産できる上に、多くの昆虫に対して少量で効果があり、ヒトや家畜に無害であるように見えたため、爆発的に広まりました。特にアメリカでは、マイマイ蛾が大発生したこともあって、ヘリコプターを使って、大規模にDDTを散布したこともありました。また、DDTの使用によって、黄熱病やチフス、マナリアなどの「病原体」を媒介する蚊やシラミなどを駆除することができ、戦後の日本や発展途上国などで、昆虫を原因とする「感染症」の撲滅に一役買ったのです。DDTの「殺虫作用」を発見したミュラーがノーベル賞の対象になったのも、「疫学的問題」を解決したということが主な理由です。

 

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.3  アメリカでは、DDTをヘリコプターを使って散布することもあった

 

 しかし、「魔法の薬」とも思われたDDTの栄光は、そう長くは続きませんでした。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」が、その契機となりました。カーソンは、DDTが食物連鎖によって、昆虫を食べる鳥の体内に蓄積し、鳥たちを死に追いやっていると訴えたのです。これを受けて調査が行われた結果、「カワウソの消滅」、「ワニのペニス異常」、「アザラシの免疫機能低下」など、野生動物に様々な異変が起こっていることが、次々と報告されました。さらに、「長期に渡る環境への残存性」、「ヒトに対する発ガン性」などが次々と指摘され、一気に「DDT禁止運動」は加熱していきました。その後、水や食品、南極の氷に至るまでDDTが検出され、さらに人間の母乳までもが汚染を受けていることが分かって、DDTは、1968年にその使用が全面禁止されることとなりました。この後、1990年代に入って、さらにDDTには「内分泌攪乱作用」があるのではないかという疑いが持たれ、かつての妙薬のイメージは、これ以上落ちようがないというところまで落ちてしまったのです。

 

(2)DDTの復活

 しかし、最近の研究によれば、DDTは、少なくともヒトに対しては、「発ガン性」がないということが分かっています。また、「環境残存性」に関しても、普通の土壌では、細菌によって2週間で分解され、海水中でも、1カ月で9割が分解されることが分かっています。さらに、「内分泌攪乱作用」については、現在では、人体に対してほぼ心配ないということが明らかになっています。実際、戦後に頭からDDTの粉末を大量に被っていた子供たちは、現在も元気に生きています。また、当時、オスのワニが生まれなくなった要因を、DDTに求める記述もありましたが、ワニの性別は卵の温度で決まるため、その指摘自体が誤りではないかと考えられています。危険性を訴える研究に対して、こうした研究は話題性に欠けるため、メディアで大きく扱われることがほとんどないので、世間にはあまり知られていないのです。

 

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.4  戦後、日本ではシラミを除去するために、DDTを子供たちの頭に振りかけた

 

 スリランカでは、1948年から1962年までDDTの定期散布を行い、それまで年間250万を数えたマラリア患者の数を、31人まで減少させることに成功しました。しかし、DDTが「環境を守る」という名目の下に禁止されてからわずか5年のうちに、もとの年間250万人まで逆戻りしています。DDTによって救われた人命の数は、5,000万人とも1億人ともいわれており、これはどんな化合物をも上回るものです。その「利益」と「リスク」を総合的に考えた際、これほど安価で高い効果を挙げていたDDTを、本当に全面的に使用禁止する必要があったのかと、疑問に思います。特に、経済的にも工業的にも弱体である発展途上国では、DDTに代わる殺虫剤を調達することは困難であり、「パラチオン」などのDDTよりも毒性が強いことが判明している農薬が、使用されている実態もありました。

 

.5  「パラチオン」は、非常に強い毒性を持ち、日本を含む主な先進国では、使用が禁止されている

 

 このため、2006年に入り、遂にWHO(世界保健機関)は、「発展途上国において、マラリア発生のリスクがDDT使用によるリスクを上回る場合、マラリア予防のためにDDTを限定的に使用することを認める」という声明を発表したのです。しかし、この発表には、いくつかの環境保護団体が、猛抗議をしています。「DDTの散布によって多くの昆虫が死に、それを食べる鳥や動物の餌を失わせる。また、DDTの発ガン性や内分泌攪乱作用についても、完全に疑いが晴れた訳ではない」というのが、彼らの主張です。それに対して、WHOは、「少量のDDTを家の壁などに噴霧しておく」という使用法を奨励しています。このようにすれば、環境中にDDTが放出される心配はなく、効果的にマラリア蚊を殺して、マラリアの蔓延を抑えられます。また、たとえDDTに発ガン性があったとしても、この使用法では、人体に取り込まれる量は極めてわずかです。DDTが原因でガンになる人よりも、マラリアで死ぬ人の方が、何桁も多いと見込まれています。

 

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.6  マラリア蚊によって、世界では年間2億人以上の人が、マラリアに感染している

 

 このように、DDTの使用を全面的に禁止した結果、多数のマラリア被害者と、DDTよりも危険な農薬による大きな被害が発展途上国で発生し、特に欧米などでは、近年カーソンへの批判の声が強まっています。しかし、それはやや結果論的な批評でもあります。それまでは、生態系などへの環境に対する影響自体が軽視されており、環境と人間との関わりから、「環境問題の告発」という大きな役割を果たし、人間が生きるための環境をも見据えた「環境運動」への先駆けとなった功績は、やはり評価されて然るべきでしょう。ただし、「DDTの利用禁止」を世間に訴えるに際して、そのことが「発展途上国」にどのような影響を与えるのかを、カーソンはもっとよく考えておくべきだったとも思います。環境とは、「自国や自分だけの健康が守られれば良い」という訳ではないでしょう。DDTが排斥されてから、発展途上国に住む何億人もの人が、「先進国の環境を守る」という名目の下にマラリアで死亡し、また現在も死に瀕しています。

 なお、一般的には、カーソンの主張したことが「DDTの全面的な使用禁止」であるとされていますが、それには誤謬があります。カーソンが実際に主張したことは、「農薬など、マラリア予防以外の目的でのDDTの利用を禁止することにより、マラリア蚊がDDTに対する耐性を持つのを遅らせるべきだ」という内容だったのです。カーソンも、マラリア蚊に対するDDTの「利益」に対しては、一定の評価を与えていたのです。実際に、DDT耐性を獲得したマラリア蚊が、DDT散布後、数年以内に多数報告されており、DDTの散布だけでは、直接の解決策にはなり得ないものになっています。


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・参考文献

1) 薬理凶室「アリエナイ理科ノ教科書」三才ブックス(2004年発行)

2) 薬理凶室「アリエナイ理科ノ教科書UB」三才ブックス(2006年発行)

3) 薬理凶室「アリエナイ理科ノ教科書VC」三才ブックス(2009年発行)

4) 薬理凶室「アリエナイ理科」三才ブックス(2012年発行)

5) 鈴木勉「毒と薬【すべての毒は「薬」になる!?】」新星出版社(2015年発行)

6) 船山信次「毒の科学-毒と人間のかかわり-」ナツメ社(2013年発行)

7) 武田邦彦「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」洋泉社(2007年発行)

8) 佐藤健太郎「化学物質はなぜ嫌われるのか」技術評論社(2008年発行)

9) 船山信次「こわくない有機化合物超入門」技術評論社(2014年発行)