・料理の科学


(1)料理の加熱

料理とは、食品や食材を調味料などと合わせて、加工することです。その加工には、加熱・発酵・冷却・攪拌など様々なものがありますが、多くの料理には、加熱が行われます。加熱をすることによって、食感が良くなったり風味が増したりと料理がおいしくなるのはもちろんですが、加熱をすることによって、寄生虫や微生物を殺すこともできるのです。加熱の方法には、「焼く」「炒める」「揚げる」「煮る」「蒸す」の5つが考えられます。

 

(i)焼く

「焼く」は、人類が火を発見したときから始められた、最も古い原始的な料理法です。たかだか1万年ほどの歴史しかない「煮る」や「蒸す」、油を使いこなすようになってから可能になった「炒める」や「揚げる」という料理法に比べて、「焼く」は桁外れに歴史が古いのです。人類が火を日常的に使用し始めたのが125千年ほど前と言われていますから、「焼く」はまさに料理法の王道なのです。

「焼く」は、直火焼き・炭火焼き・鉄板焼き・炙り焼きなど、その焼き方は多岐に渡りますが、基本的には、炎などの熱源の放射熱や、空気を媒体としての熱の対流を利用して、食材を加熱する方法です。炎は触れれば火傷しますし、熱いのは分かりきっていることですが、私たちは直接炎に触れなくとも、炎の熱を肌で感じることができますよね。簡単に言えば、この温かさが放射熱と呼ばれるものであり、それは遠赤外線が原因です。遠赤外線は電磁波の一種であり、水分子などに運動エネルギーを与えることで温度を上げる効果があります。炎からは遠赤外線が出ているので、離れていても温かく感じるのです。

ところで、この遠赤外線を上手く生かした料理法が、炭火焼きです。地球上のすべての物質は、プランクの法則より、多かれ少なかれ遠赤外線を放射していますが、木炭は特に遠赤外線を多く放射する物質として知られており、その遠赤外線発生量は、ガス火のおよそ4倍とも言われています。「肉を焼くとなれば最上は炭で焼くこと」とはよく言いますが、これにはきちんとした科学的根拠があるのです。

遠赤外線は電磁波なので、風などの空気の影響を受けません。また、加熱効率が非常に良いために、短時間で調理を済ませることができ、肉の脂やうま味を食材に閉じ込めることができるのです。さらに、そのような遠赤外線の効果だけではなく、炭火によって肉の表面に炭の香りやミネラルを含んだ炭の灰が付着することで、肉の味わいが増す効果もあるので、炭火で焼いた肉は特においしいのです。

 

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.1  遠赤外線を大量に放出する炭火

 

(ii)炒める

 「炒める」は、フライパンなどの加熱容器に少量の油を入れ、野菜や肉などの食材をかき混ぜながら加熱して、調理する料理法です。「焼く」との区別は曖昧ですが、「炒める」は、油を使ってかき混ぜながら加熱をするという違いがあります。「炒める」は、野菜炒め・炒飯・焼きそばなどで行われる一般的な料理法であり、その真髄は、油を使いこなすことにあります。

油の比熱は水の1/2以下であり、わずかな熱でも温度が上がりやすいのです。また、油が容器一面に広がることによって、加熱の温度を均一にでき、容器と食材の間に油膜ができることによって、食材と容器の付着を防ぐという役割も果たしています。さらには、油に脂溶性の香り分子を溶解させることで、食材に色々な香りを付けることもでき、具材に油膜が張ることによって、味にまろみや風味が出るのです。

通常は食材を炒めるときは、フライパンなどを十分に空焼きして、水分を飛ばしてから油を少量入れ、そのあとに食材を入れて炒めます。しかし、テフロン製のフライパンなどは、空焼きをすると表面のコーティングが劣化する上、テフロンは油を弾いてしまい、表面に均一な油膜ができにくいので、本格的な炒め料理をするときは、やはり鉄製のフライパンに限ります。鉄製のフライパンは、油がよくなじんで表面に薄い油膜ができるので、食材に均一に熱が入るのです。

また、食材を炒めるときは、強火で短時間で調理するのが基本です。炒め料理は、短時間でも強火なので、しっかりと食材の内部まで熱が入っており、野菜などは、食感が生に近いシャキシャキの状態に仕上がります。

一般的に炒め料理といったら、やはり思いつくのは中華料理です。中華料理は、この「炒め」の技術が特に優れており、厚手の中華鍋などは、強火で食材を加熱するのに最適な構造です。中華鍋は鉄製で重く分厚いため、熱容量が大きくなり、食材を加えても鍋の温度が下がりにくく、さらに底面が曲面になっているため、表面積が大きくなり、すべての食材に均一に熱を加えることができるのです。「中華料理は火加減が命」とはよく言ったものですが、中華鍋はまさに中国人が叡智を尽くして作った調理器具なのですね。

 

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.2  中華鍋は炒め料理に最適な構造である

 

(iii)揚げる

「揚げる」は、100℃以上の高温に熱した多量の油の中で食材を加熱し、油の対流によって熱を伝える料理法です。液体の対流による加熱であることが「煮る」に似ていますが、揚げ物に使用される油は、沸点が100℃を超えるので、水で「煮る」のとは異なり、短時間で高温の加熱調理ができます。このように「揚げる」と「煮る」の最大の違いは液体の温度であり、たとえ油で揚げていても、100℃以下の温度で調理する場合は「揚げる」とは言いません。

また、油は熱を伝える役目だけでなく、食材に吸収されて、栄養価や風味を高める働きもします。揚げ物は、通常150~190℃という高温で調理し、材料の水分を急速に蒸発させ、表面を熱変性させ硬化させます。よく天ぷらなどをすると、調理時にブクブクと食材から泡が出ますが、あれは食材の水分が蒸発して生じた水蒸気です。揚げ物は、このように表面の水分を失って硬化することで、表面がサクサクとした食感になるのです。

また、天ぷらの変わり種として、アイスクリームの天ぷらがありますが、これは「揚げる」が短時間で終わる調理法だから可能なことです。高温・短時間こそが、揚げ物の加熱の最大の特色なのです。

 

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.3  天ぷらは油の沸点の高さを利用している

 

(iv)煮る

 「煮る」は、水を媒体にして熱の対流を利用する料理法であり、最大の利点は、温度管理をしやすいということです。水は圧力鍋などを使わない限り、100℃までしか温度が上がりません。それ以上の加熱をしても、水蒸気になるだけです。したがって、水がある限り、食材の温度は100℃を超えないので、食材は焦げることがなく、長い時間加熱をすることができるのです。

さらに、水を媒体にした加熱料理は、溶媒としての水の性質に着目する必要があります。溶媒としての水は、食材中の水溶性の成分を溶解させたり、食品に味を付けるための調味料の運搬役となったり、大きな比熱を生かして食材を保温したりと、様々な働きをします。

人類が「煮る」という料理法を始めたのは、1万年ほど前に土器を発明してからだといわれていますが、人類はこれから、ほとんど何でも食べられるようになりました。それまでは、ある種の野草などは、苦味や渋味があるため食べることができませんでしたが、野草をわら灰や木炭を溶いたアルカリ性の水で煮ることで、灰汁が抜けて、おいしく食べられるようになったのです。この理由は、灰汁の原因となる有機酸塩やアルカロイドが、煮ることで水に溶け出てしまうからです。野山に生える植物をよく食べた縄文人も、このように土器で灰汁抜きをすることで、生活が可能になったのです。

 

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.4  煮物は温度管理がしやすい

 

なお、灰汁抜きは、本来「えぐみ」を取るなど、食味の問題から行っていたことですが、灰汁抜きにより、有害物質が除去されるときがあります。例えば、ワラビに含まれるプタキロサイドは、動物実験で100%発ガンしますが、この物質は、灰汁抜きの操作でほとんどが分解され、また、残ったものも茹で汁に移行するので、安全に食べられるようになるのです。フキに含まれる肝毒性を現すピロリチジン系アルカロイドや、タケノコに含まれる青酸配糖体なども、灰汁抜きの操作によって除かれることが分かっています。

さらに、灰汁抜きで除かれる化合物の中には、シュウ酸やその塩もあります。サトイモ科には有毒植物が多く、その1つであるクワズイモは、シュウ酸カルシウムの結晶を大量に含んでおり、これを口にすると、口の中に水疱ができたり、舌や咽頭に浮腫が生じたり、唾液の分泌亢進が起きたりして、しゃべるのが困難になるような症状が2448時間続きます。そして、舌の浮腫が酷ければ、呼吸困難に陥ることもあるといいます。その他のサトイモ科の植物(カラスビシャクやミズバショウ、ザゼンソウなど)にも、シュウ酸カルシウムの結晶を大量に含むものがあります。

一方で、サトイモ科以外の植物では、タデ科のオオイタドリやスイバなどに、シュウ酸水素ナトリウムなどの水溶性シュウ酸塩が大量に含まれています。そのため、スイバの野菜スープを大量に摂取し、嘔吐や下痢、意識障害をきたし、死亡した例があります。これは、水溶性のシュウ酸水素ナトリウムNaHC2O4が、血液中のカルシウムイオンCa2+と結合し、不溶性のシュウ酸カルシウムCaC2O4を生成するために起こる中毒です。

 

NaHC2O4 + Ca2+ CaC2O4 + Na+ + H+

 

この中毒の際の剖検によれば、腎皮質や肝臓の毛細血管、肺、心臓にシュウ酸カルシウムの結晶が認められたといいます。これは、大量の水溶性シュウ酸塩の摂取によって、低カルシウム血症となり、さらに、臓器内でシュウ酸カルシウムの結晶が沈着して、障害を引き起こしたのです。

 

(v)蒸す

 「蒸す」は、水を加熱して発生した水蒸気の対流を利用して、食材を加熱する料理法です。水蒸気自体は、加熱をすれば100℃以上になります。しかし、蒸し料理は、水蒸気の熱が食材に奪われていく過程で加熱をする調理法なので、食材の温度は100℃以上にならずに、ゆっくりと加熱をすることができます。そのため、蒸し料理の仕上がりは、ふっくらしっとりとするのです。

同じ水の対流を利用することは、「煮る」と似ています。しかし、その違いは、「蒸す」が気体の対流を利用することです。したがって、「煮る」ことによって生じる、うま味や栄養の流失が極めて少ないのです。さらに、液体の中では、水の物理的な動きによって食材は煮崩れしてしまうことがありますが、「蒸す」ではその型崩れが起きることがなく、綺麗な状態で仕上げることができます。

一昔前の日本では、どの家庭にも蒸籠(せいろ)などの蒸し器があったものです。茶碗蒸しや赤飯などの蒸し料理は、家庭料理の代表だったのです。今では、電子レンジが蒸し器のような働きもできるので、その座に取って代わっていますが、やはり電子レンジよりも本物の蒸し器で作った蒸し料理の方が、格別においしく感じます。

 

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.5  蒸籠で蒸し料理を作る

 

(2)肉のおいしさとメイラード反応

焼いた肉は、なぜおいしいのでしょうか?肉を食べるときに、焼かずに生で食べるという人はまずいないでしょう。タルタルステーキのように生食を楽しむ食べ方もありますが、肉は焼いて食べるのが一般的です。

その理由は、肉は焼いて食べることで、食中毒などのリスクを減らすことができますし、何よりもおいしくなるからです。人類は大昔から狩猟によって動物を捕らえ、その肉を食べてきました。人類が火を発見する以前は、動物の肉は生で食べられていたのです。生で食べるなんて今では信じられませんが、それでも動物の肉はおいしいので食べられていたのです。

 

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.6  肉は生食よりも火を通した方がおいしい

 

動物は死ぬと、直ちに死後硬直を起こします。その理由は、呼吸による筋肉への酸素供給が止まって、細胞の好気的な代謝は停止しても、嫌気的な代謝は継続して行われるからです。すなわち、動物は死んでも、細胞では解糖系による代謝が続くのです。これにより、筋肉中のグリコーゲンは嫌気的に代謝され、乳酸になっていきます。

乳酸濃度が大きくなっていくと、筋肉中のpHは低下していき、筋肉のタンパク質が変性して、硬い状態になります。この状態が、いわゆる死後硬直です。

筋肉は最大硬直を過ぎると、微生物やタンパク質分解酵素などの作用で、自己消化が始まって軟らかくなり、タンパク質やATP分解され、イノシン酸などのうま味物質が生成し、おいしくなります。食肉分野では、特にこれを熟成と呼び、長いものでは乾燥熟成肉(ドライエイジング)などの方法によって、4~8週間も熟成させることがあります。

しかし、肉はそのままでは、筋繊維がコラーゲンの強靭な結合組織で囲まれていて、食べにくいです。コラーゲンは加熱すると収縮し、さらに加熱するとコラーゲン間の結合が切れ、ゼラチン化が起こります。このようにすると、結合組織の強靭な結合は弱くなり、筋繊維がほぐれて、肉は軟らかくなるのです。焼いた肉が軟らかく、噛み切りやすいのはこのためです。

しかしながら、肉は加熱とともに筋繊維のタンパク質も変性が始まるので、加熱しすぎると肉が硬くなっていきます。ステーキなどでは、レア・ミディアム・ウェルダンなど、様々な焼き方がありますが、加熱中の肉の硬さは、この筋繊維の硬化と、コラーゲンのゼラチン化の進行の兼ね合いで決定されるのです。

肉は焼くことによって、肉の脂が融解してとろみが増し、食感が良くなっておいしくなりますが、実はこの「焼く」という過程には、肉をおいしくするもう1つの秘密が隠されているのです。肉を鉄板などで焼くと、肉の表面がカリカリに焼けて、食欲をそそる香ばしい匂いを発するようになりますが、これはメイラード反応という化学反応が進行しているからです。

メイラード反応とは、アミノ化物と還元糖の混合物を加熱したときなどに見られる、褐色の重合体を生成する反応のことです。褐色物質はメラノイジンとも呼ばれ、様々な高分子化合物の混合物です。肉を焼いたときに、表面が褐色になるのは誰でも知っていることだと思いますが、あれは単なる「焦げ」ではないのです。あの焦げのようにも見える褐色物質こそ、肉をおいしくしている物質の正体なのです。

メイラード反応は、還元糖のアルデヒド基にアミノ化物のアミノ基が求核攻撃して、結合を作る反応から始まり、数段階の反応および副反応を経て、褐色物質を生成していきます。このようにして生成した褐色物質は、特有の香気を持ち、肉が焼けるときの香ばしい匂いは、この褐色物質の匂いであるといわれています。また、この褐色物質は反応性が高いので、抗酸化作用を持ち、表面を焼いた肉は、生肉と比べて腐敗しにくくなります。焼いた肉の代表的な香気成分としては、ビス-2-メチル-3-フリルジスルフィドがあります。この化合物は、焼いた肉の香りを付けるのに使用されています。

 

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.7  アミノ化物と還元糖を加熱するとメイラード反応が起こる

 

このようなメイラード反応は、他の食品にも多く見られ、食品工業においては、製品の着色香気成分の生成や、抗酸化性成分の生成などに関わる、重要な反応とされているのです。例えば、タマネギを弱火でじっくりと炒めると、飴色になって香ばしい匂いがしますが、あれはメイラード反応が進行しているからです。他には、コーヒー豆の焙煎や麦茶、チョコレート、味噌、醤油などの色素形成、デミグラスソースの褐変、パンやご飯のお焦げの形成など、意外と身近にはメイラード反応を利用した食品が多いのです。

また、このメイラード反応と似たような反応に、牛乳や砂糖などを煮詰めて進行させる、カラメル化反応があります。しかし、これはメイラード反応とは、異なる反応です。カラメル化反応は、糖類だけを煮詰めて褐色の重合体を作る反応であるのに対して、メイラード反応は、糖類の他にアミノ化物も反応に必要だからです。ちなみに、砂糖は還元糖ではないので、アミノ化物と反応させても、メイラード反応は進行しません。

しかしながら、カラメル化反応で生成するカラメルも、メイラード反応の褐色物質ほどではないものの、抗酸化作用を持つため、食品工業では同じく重要な反応の1つとなっています。

 

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.8  カラメルはカラメル化反応によって糖類から作る

 

メイラード反応は、着色・香気・抗酸化作用の働きがあるため、料理をおいしくするためには必要不可欠な反応ですが、料理がおいしくなるからといって、あまりにも加熱し過ぎれば、当然真っ黒に「焦げ」ます。メイラード反応を知らない人にとっては、褐色物質も「焦げ」も同じ物質のように思えるかもしれませんが、生成は全く別の反応機構なのです。

「焦げ」を生成する反応は炭化反応といい、酸素を遮断した状態で有機物を加熱すると分解が生じ、揮発性の低い炭素だけが残る反応なのです。

つまり、加熱中に酸素の供給が不十分であると、「焦げ」ができてしまうのです。フライパンなどで肉を焼いているとき、うっかり放置して焦がしてしまった経験はありませんか?このような炭化反応を進行させないようにするためには、肉を適度にひっくり返したり、かき混ぜたりして、食材に十分な量の酸素を供給して、温度を上げ過ぎない必要があるのです。食材を加熱するときにひっくり返したりするのは、食材に熱を満遍なく伝えるためでもありますが、炭化反応の進行を阻害して、効率よくメイラード反応を進行させるためでもあるのです。

 

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.9  「焦げ」にはヘテロサイクリックアミンなどの発ガン性物質が含まれる

 

「焦げ」は、栄養分が消失していて苦味を持ち、さらにはヘテロサイクリックアミンなどの発ガン性物質が含まれています。「焦げ」に含まれる発ガン性物質の濃度は微量だとも言われていますが、それ以前に「焦げ」はおいしくないですし、あまり進んで食べたいものではありません。

理論上は酸素の供給が十分なら、いくら強火で加熱しても炭化反応は進みませんが、タマネギなどの焦げやすい食材を焦がさずに強火で調理するのは、不可能に近いです。メイラード反応を選択的に進めるためには、弱火でじっくりと加熱するのが一番良いのです。

 

(3)魚の刺身のおいしさ

新鮮な動物や魚の肉を切り取って生で食べることは、人類史の初期の段階で行われてきたことです。しかし、人類が火を使いこなすようになってからは、生食の習慣は次第に廃れていき、加熱などの調理をして肉を食べるようになりました。それは、食中毒などのリスクを考えれば当然のことかもしれません。加熱をすることで、動物や魚の肉は、ある程度の期間は保存ができるようになったのですから。

しかしながら、日本は四方を海で囲まれ、新鮮な魚介類をいつでも手に入れられるという恵まれた環境があったために、魚介類を生で食べる習慣が残りました。これは、世界的に見ても珍しい習慣であり、現在では寿司や刺身などの日本料理は世界的に楽しまれている料理ですが、以前は「魚を生で食べるなんて・・・」というような悪いイメージがあったのです。

日本人は、古くから魚を生で食べることを重要な文化として伝えてきました。これは、日本料理では「割主烹従」といい、素材に手をあまり加えず、素材そのものの風味や良さを引き立たせるという調理法が、尊重されていたからです。

「割主烹従」の割とは切ること、烹とは煮たり焼いたりすることという意味です。すなわち、「割主烹従」とは、食材を切って生で食べることを主とし、煮たり焼いたりして食べることを従とするものなのです。日本料理は、このように食材を切ることを非常に重視しており、食材を切ることのみでおいしくするのが、日本料理の真髄なのです。

特に刺身などは、食材を切ることのみで調理を終わらせる料理であり、古くから日本人に親しまれてきました。実はこの刺身のおいしさにも、科学的な秘密が隠されているのです。

 

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.10  刺身は死後硬直した魚を食べる

 

魚肉と畜肉類では、その食べ方に大きな違いがあります。畜肉類は強固なコラーゲンに囲まれた筋繊維を持つため、死後硬直中は硬くてうま味も少なく、しかもドリップ(にじみ出てくる水分)が多くて、とても食べられたものではありません。

ところが、死後硬直後は先にも説明したように、自己消化による肉の熟成が始まり、うま味成分が増加して、おいしくなるのです。しかし、畜肉類は熟成した肉でも、生でそのまま食べるということはあまりしません。馬刺しなどの例外はあるものの、畜肉は焼いて食べるのが一般的なのです。

それに対して魚肉は、コラーゲンの少ない軟らかな筋肉からなるので、熟成を待たなくても、すぐに食べることができます。これがまさに魚の刺身であり、刺身は死後硬直中の魚肉を食べているのです。魚の刺身は、より新鮮なものが好まれますが、これは新鮮なものほど死後硬直が顕著で、食感が良いとされるからです。ちなみに、同じ刺身でも、馬刺しなどの畜肉類の刺身は、ある程度の熟成はさせています。これが畜肉類と魚肉の刺身の違いですね。

 とはいえ、魚の刺身は新鮮ならば何でも良いという訳ではなく、例えば魚を活けしめにしておくと、数時間経ってうま味が増します。これはやはり熟成が進み、うま味成分であるグルタミン酸やイノシン酸ができてくるからです。これは魚をどう食べるかにもよりますが、例えばマグロや大型のヒラメなど、畜肉類のように2~3日熟成させてから食べるほうが良いとされる魚もいます。

また、同じ魚でも、関西地域ではうま味よりも食感を重視するため、活けしめ後なるべく早く食べる傾向があります。これは活造りと呼び、宴会などではしばしば見られます。ときに、肉は骨から切り取られているのに、口の辺りがピクピクと動いていることも珍しくありません。

一方で、関東地域では肉質は軟らかくなりますが、しばらく熟成させてうまみ成分を増加させ、食感よりもうま味の方を重視する傾向にあります。

 

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.11  アジの活造り

 

(4)料理を「おいしい」と感じるのはなぜか?

 アメリカの心理学者のアブラハム・マズローは、人間が生命を維持するための基本的な欲求として、睡眠欲・食欲・排泄欲を生理的欲求としました。これらの欲求は、まず何よりも優先される本能の欲求であり、脳の報酬系と呼ばれる神経系と、密接な関わりがあります。つまり、これらの欲求が満たされたとき、私たちは喜びや幸せを感じるように作られているのです。

 

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.12  マズローの欲求段階説

 

私たちは食物を口にするとき、味覚・嗅覚・触覚・視覚・聴覚の五感すべてを通じて、食物を認識します。その五感を通じて得られる喜びや幸せこそが「おいしさ」であり、食物をおいしく食べるということは、生理的欲求を満たし、喜びや幸せを感じるということです。

一般的に、私たちは欠乏している栄養素などを摂取したとき、つまり、生理的欲求を満たす食物を食べたときは、「おいしい」と感じます。逆に生理的に有害な物質、例えば毒などに対しては、苦味などの情報から「まずい」と感じます。これは、毒となるアルカロイドが苦味を持つことが多いため、「苦味=毒」と本能的に感じているからだと思われます。

このように、食物を口にしたときに感じる本能的な感覚こそが、おいしさを決定する大きな要因であり、人間が食物を口にしたときに味覚から得られる情報は、一般的に次のように整理することができます。

 

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.13  味覚から得られる情報

 

 私たちは普段何気なく食物を口にして味わっていますが、脳は無意識的に味覚からこれらの情報を読み取っているのです。「おいしい」と感じる食物に共通していることは、その食物の栄養素が、生命を維持するのにプラスになっていることです。これはとてもよくできたシステムで、人は「おいしい」と感じれば、その食物を本能的に摂取し続けます。逆に苦味などを感じると、脳は本能的に毒の存在を予知し、「まずい」と感じさせ、食物の摂取を中止するのです。これが意味することは、脳は身体に良いものを本能的に知っているということです。栄養学の概念がない動物なども、味覚から情報を読み取り、本能で身体に良いものを選択的に食べているのです。こう考えると、凄いことだと思いませんか?

ただ、科学が発達している現代では、本能に頼らなくても、私たちは身体に良い食べ物を選択的に摂取することができます。例えば、青汁などは苦味があって、本能的には「苦味=毒」を予知させますが、ビタミンやミネラルが豊富なことを知識で知っているので、私たちは「おいしい」と思うことができるのです。よく小さな子供は野菜を嫌いますが、これは「野菜は身体に良いのだ」ということを、知識で知らないからです。確かにビタミンやミネラルは身体に必要な栄養素ですが、野菜を食べなくても、他の食物からある程度は摂取できる栄養素なので、本能的には「おいしい」と感じにくいのだと思われます。よく大人になってから野菜が食べられるようになる人がいますが、これは「野菜は身体に良いのだ」ということを、知識で理解するようになったからです。したがって、野菜嫌いの子供には「野菜は身体に良いのだ」ということを理解させれば、野菜を食べられるようになるかもしれません。

 

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.14  青汁は苦味があってアルカロイドなどの毒物を連想させる

 

しかしながら、知識である程度身体に良い食物を見分けられるようになったからといって、私たちは本能の感覚を失うわけではありません。基本的には身体に良いものは、「おいしい」と感じるようにできているのです。一体どのような食物が、本能的に「おいしい」と感じるのでしょうか。

味覚の中で最も強く本能に「おいしい」と感じさせる味覚は、甘味です。これを以外に思う人は多いかもしれませんが、甘味は糖の存在を予知させる味覚です。糖は栄養でいうと炭水化物になりますが、炭水化物は、動物の主要なエネルギー源です。特に脳では、大半のエネルギー源をグルコース(ブドウ糖)に依存しているので、糖は動物にとって、最も重要なエネルギー源であるといっても過言ではありません。甘いものが嫌いという人ももちろんいると思いますが、糖はご飯や麺などの穀物にも含まれているので、これらのものまですべて嫌いだという人は、いないかと思います。

 

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.15  グルコースの分子モデル

 

このように、甘味は本能的に「おいしい」と感じる味覚なのですが、この甘味が「おいしい」と感じる理由には、実は大きな生理学的要因があります。人は甘いものを食べて甘味を感じると、脳の中でβ -エンドルフィンなどの麻薬様物質が分泌されることが分かっています。このβ -エンドルフィンは、脳内で麻薬のように働きかけ、報酬系に作用して多幸感を生じさせるのです。このように強く報酬系に作用するのは、味覚の中では甘味だけであり、このため甘味は、特殊な味覚となっているということができます。

砂糖依存症という病気がありますが、これはまさに糖が「麻薬」であることを証明しているものです。砂糖を過度に摂りすぎると、ドラッグのように依存を形成してしまうのです。糖は人にとって大切なエネルギー源ですが、砂糖などの摂りすぎは、糖尿病の原因になる場合すらあります。甘い食物はほどほどにしましょう。

また、味覚ではないものの、糖と同じように脂肪が、脳内の報酬系に作用することが分かっています。脂肪は栄養でいうと脂質で、三大栄養素の中では、最も高カロリーな栄養素です。

文明が発達した今でこそ、人は飢えで死ぬことはなくなりましたが、人類史のほとんどの期間、人は飢えとの戦いでした。現に人の身体で空腹時に働く血糖値を上げるホルモンは、グルカゴンやアドレナリンなどたくさんありますが、満腹時に働く血糖値を下げるホルモンは、インスリンの1つだけです。

したがって、高カロリーである脂肪を摂取することは、人を含めすべての動物にとって、飢えをしのぐために重要なことだったのです。だから脂肪を多く含むラーメンなどの食物を食べると、「おいしい」と感じるのですね。また、マヨラーと呼ばれるマヨネーズが大好きな人たちがいますが、これはマヨネーズに多量含まれている油に依存している可能性が高いです。


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・参考文献

1) 日本化学会編「身近な現象の化学 PART-2 台所の化学」倍風館(1989年発行)

2) 都甲潔/飯山悟「トコトン追究 食品・料理・味覚の科学」講談社(2011年発行)

3) 船山信次「こわくない有機化合物超入門」技術評論社(2014年発行)

4) 大宮信光「面白いほどよくわかる化学」日本文芸社(2003年発行)