・化学物質の科学


【目次】

(1)「化学物質」は「悪」なのか

(2) 恐怖の化学物質「DHMO

(3)「天然」と「合成」の違い

(4)「化学物質」の「リスク」を考えるということ

(i) 食品添加物は毎日摂取しても安全なのか

(ii)「ゼロリスク」の幻想


 (1)「化学物質」は「悪」なのか

あなたは、「化学」という言葉から、どのようなことを連想しますか?「難しい?」、「嫌な臭い?」、「危険?」、「汚染?」、「発ガン性?」、「爆発?」――以前、私がこの種の質問を勤務する学校で生徒に投げかけたところ、意外なほど、このような答えが多く返ってきました。「面白い」、「楽しい」、「役に立つ」などと答えた生徒は、あまりいませんでした。

世の中には、「化学」という言葉を聞いただけで、拒否反応を示す人さえいます。何であろうと、「化学物質」が入っているというだけで毛嫌いし、まるで病原菌でもあるかのように、神経質にこれを避けたがります。「化学」をこのように考える人が多いのは、「科学教育」に問題があるのかもしれません。しかし、「マスコミ」にも責任があると思います。新聞を広げれば、「危険な化学物質」、「有害な化学物質」、「発ガン性化学物質」、「有毒な化学物質」など、「化学物質」という名詞には、たいてい非難の意味を含む枕詞が付いています。「役に立つ化学物質」、「安全な化学物質」、「有益な化学物質」という言葉は、ほとんど目にすることがありません。

 

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.1  「化学物質」の害を訴える新聞記事

 

多くの人は、「化学物質は危険だから、天然物質や有機物質を使うべきだ」と考えています。しかし、これには大きな誤謬があります。まず、「化学物質」は「原子や分子、および分子の集合体など、独立かつ純粋な物質」という意味であり、「万物の基本成分」なのです。「化学物質」に良いも悪いもなく、毒性の有無や天然・人工の区別は、本来問われません。窓ガラスは二酸化ケイ素や炭酸ナトリウム、木はリグニンやヘミセルロース、食肉はアクチンやミオシン、空気は窒素や酸素といった物質の集まりであり、この世の中にあるものは、すべて「化学物質」でできています。私たちの身の回りには、「化学物質」でないものは、1つとしてないのです。「化学物質」が存在しないのは、完全な真空空間だけです。宇宙空間にだって、「水素原子」という「化学物質」が、平均すると1 cm3当たり1個から数個存在しています。「天然物質」にも、毒性の強いものがあり、「有機」という言葉も、たいていは何の意味もなく使われているということに、多くの人が気付いていないのです。そしてなにより、この100年ほどの間に、「化学」の知恵が、日常生活の数々の苦難から私たちを開放し、未来を希望あるものに変えたという事実が、世間に全く浸透していないのです。

 

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.2  宇宙空間にも「水素原子」という化学物質が存在する

 

「化学物質」はただの物質――万物を構成する物質なのだから、それをどう使用するのかは、私たちの判断にかかっています。すなわち、同じ「化学物質」が、人を殺したりすることも、病を治したりすることもあるのです。例えば、1943122日、連合国側の重要補給基地であるイタリアのバーリ港に停泊していた連合国の護送船団に、ドイツ軍は爆撃を仕掛け、輸送船やタンカーを始めとする艦船16隻が沈没しました。その中に、アメリカ海軍リバティー型輸送船「ジョン・E・ハーヴェイ号」という船がありました。不幸なことに、この輸送船には、100 tもの糜爛性の猛毒ガスである「マスタードガス」が積まれていました。爆撃の被害を受けたハーヴェイ号は、積み荷のマスタードガスを漏らしながら、海中へと沈んでいきました。漏れたマスタードガスが、タンカーから出た油に混じって海中に流出したため、港内は一大惨事となりました。救助された連合国軍兵士たちは、全員がマスタードガスに被爆し、一部の兵士は、「ニンニクのような臭いがした」という報告をしていたそうです。これは、マスタードガスの臭いだったのですが、被曝した兵士たちは、目や皮膚を侵され、重篤な患者は、血圧の低下や末梢血管の血流の急激な減少などの全身症状を引き起こし、白血球値が大幅な減少を示していました。マスタードガスが、白血球を作り出す骨髄細胞を破壊し、機能を失わせていたのです。

 

.3  「マスタードガス」は、カラシに似た臭いがあるのでこの名が付いたが、正確にはこの臭いは不純物によるものだ

 

結果、救助された兵士617名のうち、83名が死亡しました。死亡者数は、被曝後2日目、3日目に最初のピークを迎え、8日目、9日目に再度ピークを迎えました。最初のピークは、「マスタードガス」が直接の原因であり、二度目のピークは、「白血球」の大幅な減少により引き起こされた「感染症」が原因であると考えられました。そして、ここから事態は変わった方向へと進んでいきます。バーリ港での悲劇のあと、この事件の詳細は、アメリカ陸軍化学兵器部隊司令官を補佐し、その研究チームを指導していたコーネリアス・ローズに報告されました。ローズは、ニューヨーク・メモリアル病院の院長であり、全米ガン研究評議会委員長も務めていました。ローズは、この事件で見られたマスタードガスによる障害が、当時の「ガン治療」に用いられていた「X線照射」による障害と、酷似していることに気付きました。どちらも細胞核に強く作用し、「細胞分裂」を阻害する性質を持っていたのです。そして、ここであるアイディアが生まれました――マスタードガスを使えば、「白血球」と同じように細胞増殖のスピードが速い「ガン細胞」を殺せるのではないだろうか。

そこで、当時は「X線照射療法」しかなかった血液ガンの一種である「悪性リンパ腫」の治療が試みられました。マウスに悪性リンパ腫を移植し、そこに致死量に至らない量の「ナイトロジェンマスタード」というマスタードガスの誘導体を、静脈注射によって投与しました。すると、ナイトロジェンマスタードを投与しない試験群では、リンパ腫の増加のために、3週間でマウスは死亡してしまいました。しかし、ナイトロジェンマスタードを投与した試験群では、12週間の生存が確認されたのです。そして、ナイトロジェンマスタードによって、リンパ腫の縮小も確認されました。この結果は、医学界に大きな衝撃を与えました。当時、「手術療法」や「放射線療法」しかなかったガン治療に対し、「化学療法」が有効である可能性を示した、最初の例となったからです。その後、19468月には、末期ガン患者に対して、新たに開発されたナイトロジェンマスタードの誘導体が使用されました。ナイトロジェンマスタードは「NH-2」とも呼ばれていたので、患者に投与されたその新しい誘導体は「NH-3」と名付けられました。こうして、マスタードガスは、世界初の「抗ガン剤」として、歴史の1ページを開いた訳です。

 

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.4  「ナイトロジェンマスタード」は、「ガン治療」における大きなブレイクスルーとなった

 

その他にも、このような例があります。例えば、ボツリヌス菌から生産される毒素である「ボツリヌストキシン」は、体重60 kgの人でわずか0.03 mgが致死量という、最も強力な天然毒素の1つです。しかし、ボツリヌストキシンは、「内斜視の治療」に使われたり、「ボトックス」という商品名で、眉間の皺の除去に利用されたりしています。また、「アンモニア」は、酸と反応させることで「化学肥料」にもなるし、酸化することで「爆薬」になる硝酸アンモニウムの原料にもなります。「塩素」は、強力な酸化力を有するために第一次世界大戦で「毒ガス」として使用されたこともありますが、一方では、水道の「防疫消毒薬」の役割も果たしており、毎年、腸チフスやコレラ、ジフテリア感染から、数百万の人々の命を守っています。さらに、「モルヒネ」は、未熟なケシの抽出物に含まれる天然物質であり、アヘン戦争の原因を作った「アヘン」の有効成分として知られています。モルヒネには依存性や耽溺性があるため、モルヒネのせいで、人生を破滅させてきた中毒者は数知れません。しかし、同時にモルヒネがもたらす「鎮痛作用」は、末期ガンなどで痛みに苦しむ多くの人たちの生活を、耐えられるものにしてきました――つまり、同じ化学物質が、このように全く違う用途で使われているのです。

 

.5  未熟なケシの実に傷を付け、そこからしみ出す乳状の液体を集めて、乾燥させると「アヘン」になる

 

「化学物質」の悪いイメージは、遡って考えてみると、利潤ばかりを追求する化学産業の過失に行きつきます。「化学」という言葉を聞いて、「水俣病」、「酸性雨」、「シックハウス」、「ダイオキシン」、「有毒廃棄物」などを連想する人も多いでしょう。ところが、「アスピリン」、「ペニシリン」、「インシュリン」、「ナイロン」、「LED」、「テレビ」、「スマートフォン」などは、すべて化学者が重ねてきた創意工夫の結晶であることを、理解している人はほとんどいません。

「化学物質」の否定的な面は、肯定的な面よりずっと注目を浴びやすいのです。「化学物質○○は危険である」と叫ぶのは簡単ですが、「化学物質○○は安全である」と叫ぶ方は、あとから危険性が発覚した場合に、責任を負わなければならない訳で、よほどの覚悟と自信がない限り、なかなか「安全宣言」をできるものではありません。「危険」を叫ぶのは、誰でも簡単にできて商売にもなりますが、「安全」を立証する方は、負担が大きくリスキーで、大概得るものは多くありません。マスコミは、「新たな有害物質を発見」などといえば、視聴者や読者が注目して、販売部数が増えたり、視聴率が上がったりする訳ですから、何でもそうすればいいと思っているといっても、過言ではないほどです。かくして世の中には、「危険な食べ物」や「恐るべき化学物質」というような報道が、はこびっていく訳です。

 

(2) 恐怖の化学物質「DHMO

 1997年、当時14歳の中学生だったネイサン・ゾナーが書いた、「私たちはいかにだまされやすいか?」というタイトルのレポートが、アメリカのアイダホ科学展で優秀賞を受賞し、マスコミにも取り上げられて、インターネットを中心に大きな話題を呼びました。中学生のネイサンは、「ジハイドロジェンモノオキサイド(dihydrogen monoxideDHMO)」という化学物質の害を指摘し、この物質の「使用規制」を求めて、街頭で50人の通行人に署名を求め、うち43名のサインを得ることに成功したのです。彼の挙げた「DHMO」の危険性は、次のようなものです。

 

@ 水酸と呼ばれ、酸性雨の主成分である。

A 強い温室効果を持ち、地球温暖化の原因となっている。

B 高濃度のDHMOにさらされることで、植物の成長が阻害される。

C 末期ガン患者の悪性腫瘍から検出される。

D 固体状態のDHMOに長時間触れていると、皮膚の大規模な損傷を起こす。

E 多くの金属を腐食・劣化させる

F 各種の残酷な動物実験に用いられる

 

そして、この危険な物質は、アメリカ中の工場で、冷却・洗浄・溶剤などの用途で何の規制もなく使用・排出され、さらには生物兵器や化学兵器の製造、原子力発電所でも使われているといいます。その結果として、全米の湖や川、果ては母乳や南極の氷にまで、高濃度の「DHMO」が検出されていると、ネイサンは熱心に訴えました。アメリカ政府は、この物質の製造および拡散の禁止を、断固として拒否しています。あなたなら、この規制に賛成し、呼びかけに応じて、署名をするでしょうか?そして、この世にも恐ろしい化学物質「DHMO」の正体は、一体何なのでしょうか?

 ――勘の鋭い人ならお気付きの通り、「DHMO」すなわち「dihydrogen monoxide」は、和訳すれば「一酸化二水素」であり、要するにただの「水H2O」なのです。読み返してみると、多少大げさに言ってあるところはあっても、「DMHO」すなわち「水H2O」の性質に関しては、一切嘘は言っていないことが分かります。確かに、水は「酸性雨」の主成分ですし、水蒸気は「温室効果ガス」として最大の温室効果をもたらしますし、残酷かどうかはさておき、「動物実験」に水は必要不可欠です。

 

.6  恐怖の化学物質「DHMO」の正体は、ただの「水H2O」である

 

 これと同じように、身の回りのあらゆる物質について、その「危険性」を作為的に指摘することも可能でしょう。例えば、「高濃度のガスを吸引すれば、痙攣症状などの中毒を引き起こす。酸化力が非常に強く、火種さえあれば、火災や爆発などの激しい燃焼が引き起こされる」といえば「酸素」のことですし、「多くの病気や疾患の原因となり、過剰摂取は依存症を形成する。高濃度では、あらゆる雑菌が死滅するため、腐食することがない」といえば「砂糖」のことです。

 身近で、普段何気なく日常で使っているものでも、「非日常的な科学的用語」を用いて、毒性や性質について「否定的かつ感情的な言葉」で説明をするだけで、いかにも「危険」なもののように見え、「規制」の対象になりかねなくなる――これは、非常に恐ろしいことです。実際に2003年には、アメリカ合衆国カリフォルニア州アリン・ビエホ市の議会で、「DHMO」のジョークを真に受けた担当者らが、実際に「DHMO規制の決議を試みる」という出来事が起きました。この決議自体は、あとからジョークだと判明したために中止されましたが、これは、笑いごとでは済まされないことです。DHMO」の話から、中学生のネイサンが訴えたかったことは、「あらゆるレベルで科学教育をもっと充実させるべきである」ということです。署名を求められた50人のうち、回答を留保した6人を除き、「DMHO」が水であると見抜いたのは1人だけでした。ネイサンの指摘は、これからの社会を生き抜く上で、私たちに重要な教訓を与えてくれたと思います。

 

(3)「天然」と「合成」の違い

 現在、巷には「天然」や「自然」という言葉を前面に出した商品で溢れています。こういった言葉が付いた商品に、消費者は信頼を置きます。その一方で、「合成」や「化学」という言葉のイメージは最悪です。「合成」や「化学」と付けばすべて体に悪いもの、「天然」や「自然」と付くものはすべて体に良いものというイメージであり、「自然の味わい」、「自然のやさしさ」、「天然ビタミン」という言葉をラベルに表示するだけで、商品の売り上げがぐんと伸びます。これは、「天然物質は合成物質より体に良い」と思い込んでいる人が多いからです。

しかし、私たち化学者の目から見れば、その物質が「天然」であるか「合成」であるかという区分は、実はあまり意味がありません。フグやトリカブトの毒は、「天然」から得られるものですが、毒性の強い危険な化合物ですし、化学的に「合成」された化合物にも、事実上無害なものはいくらでもあります。その化合物が危険であるかどうかは、その化合物の化学構造だけで決まるものであり、その化合物が「天然」であるのか、それとも「合成」であるのかとは、一切関係のないことなのです。「天然」であろうと、「合成」されたものであろうと、その化学構造が同じなら、全く同一の化合物であり、その化合物が「天然」であるか、「合成」であるかの区別は付きませんし、また区別する必要性もありません。「安全=天然」や「危険=合成」といった短絡的な考えは、世間にはこびる科学的な誤解の中で、最たるものでしょう。

 

.7  「トリカブト」には、猛毒の「アコニチン」が含まれている

 

 それにもかかわらず、「天然物質の効能は、工場で合成されたものより優れている」と信じる消費者は多く、そのためなら喜んで余計にお金を払います。例えば、バラの実から抽出した「天然ビタミンC」は、工場でグルコースから化学合成された「合成ビタミンC」よりずっと値が張りますが、この2つは完全に同一の化学物質です。両者の化学構造は全く同じであり、「天然ビタミンC」と「合成ビタミンC」を区別する方法を、私たち化学者は知りません。

 

.8  ビタミンCには、「天然」と「合成」の区別はない

 

また、ラン科のバニラの果実であるバニラビーンズから抽出した「天然バニラ香料」は、製紙用パルプの廃物から作ることができる「合成バニラ香料」よりもずっと高価です。バニラビーンズから「天然バニリン」を得るためには、バニラビーンズを粉末ないし液状にし、それを繰り返し発酵・乾燥させるなど、大変な長い時間と労力がかかるからです。「合成バニリン」の原料が「廃物」と聞くと、確かにあまり食欲をそそられませんが、「合成バニリン」は、「天然バニリン」と全く同じ化合物です。

 

.9  「合成バニリン」と「天然バニリン」は、全く同じ化学物質である

 

200710月、国立国際医療センター研究所の研究員であった山本麻由が、「天然バニリン」の抽出により、「人々を笑わせ、考えさせてくれた研究」に贈られる「イグ・ノーベル化学賞」を受賞しました。日本人の女性研究者が受賞したということで、メディアでは大きく話題になったのですが、ユーモラスな点は、その「原料」にありました。山本は、ウシの排泄物、つまり「牛糞」からバニリンを抽出したのです。

実は、バニラビーンズに含まれる天然バニリンは、樹木などに含まれる木質成分「リグニン」を酸化分解することで生成します。という訳で、廃材などに含まれるリグニンをアルカリ中で水熱処理して、バニリンを得る方法も報告されていたのですが、この方法では不純物が多過ぎて、あまり実用的ではありませんでした。そこで、山本が目を付けたのが「牛糞」です。ウシが採食している草にもリグニンが含まれているのですが、リグニン自体は難消化性のため、ウシの体内で分解されず、糞として排泄されてしまいます。山本は、この糞からバニリンを得ることはできないだろうかと考えたのです。

山本の「牛糞からのバニリン抽出作戦」は、国立国際医療センター研究所の一室で展開されました。抽出実験に当たっては、研究所にある連続式の高温高圧水熱装置が使われました。この装置に牛糞1 g当たり4 mLの水を入れ、200℃で60分の高温圧縮処理を行ったところ、牛糞1 gからバニリン50 μgを抽出することに成功しました。その成果は早速、「亜臨界水熱反応による家畜排泄物からの植物ポリフェノールの新規抽出法」と題した論文にまとめられました。山本によると、この方法で製造するバニリンのコストは、「バニラビーンズを原材料にする方法」の半分程度になるそうです。原材料が「バニラビーンズ」であろうと「牛糞」であろうと、そこから得られる「バニリン」は、同一の「天然バニリン」です。しかし、この方法が実用化されることはないでしょう。なぜなら、消費者は多少値段が高くても、バニラビーンズから抽出した「天然バニリン」を選ぶに決まっているからです。原料が「牛糞」であるバニリンは、「天然バニリン」であることに違いありませんが、化学的に「合成」されたものと同じように、イメージが最悪なのです。

 

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.10  山本麻由は、授賞式でのスピーチで「イメージしてみて下さい。牛糞を温めたニオイを」と述べ、会場の笑いを誘った

 

 そこで、多くの企業は、酵素の働きをする特殊な「微生物」の発見に大きな関心を寄せています。というのも、こうした「微生物」の力を利用した発酵食品には、堂々と「天然」というラベルを貼ることができるからです。例えば、リンゴの主な味わいは、「リンゴ酸」という化学物質にあり、これがあの爽やかなリンゴの酸味の素になっています。理論的には、リンゴから直接抽出したリンゴ酸に、「天然リンゴ香料」とラベルを貼ることもできます。そして、これを利用して、リンゴ味の食品を作れば、「天然リンゴ香料入り」と表示することもできます。しかし、リンゴから直接リンゴ酸を抽出するのは、コストの面で実用的でなく、実際に抽出できたとしても、その製品は非常に高価になるでしょう。それ故に、多くの企業は、特殊な微生物を利用して、デンプンなどの安価な化合物から、リンゴ酸を製造しているのです。デンプンからリンゴ酸ができるまでの化学変化は、すべて自然に発生する微生物によって行われているので、こうしてできた製品には、堂々と「天然」というラベルを貼ることができます。

 

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.11  「リンゴ酸」は、爽快感のある酸味を持つ

 

 もちろん、微生物を用いずに、リンゴ酸を石油などから「化学合成」することもできます。こうした方法は、一般的にコストがかからず、製品は安価になることが多いです。ところが、この「合成リンゴ酸」は、「天然リンゴ酸」と全く同じ物質であるにもかかわらず、法の定めにより、「天然」と表示することができません。だから売れないのです。なぜ多くの企業が、デンプンのようなありふれた原料から、様々な化学物質を、微生物による化学反応で作ろうとしているのかが分かるでしょう――そのような微生物がいれば、製品を「天然」と称して、販売することができるからです。微生物には、人間がフラスコの中で起こすことができない化学反応を、いともたやすく進行させる力があり、「微生物を用いて化学合成する方法」を否定するつもりは、毛頭ありません。現に、微生物の生産する化学物質の中には、抗ガン剤や抗生物質などの「医薬品」として使われているものもあります。しかし、多くの企業が、経済的コストが低い「化学合成法」を用いず、敢えて「微生物」を用いようとする背景に、このような事情があるということが、私は残念で仕様がありません。

 

(4)「化学物質」の「リスク」を考えるということ

(i) 食品添加物は毎日摂取しても安全なのか

 「化学物質」の有害性を煽る類の本では、「物質○○を食べさせた動物に、××という症状が現れた」ということを、大きく書き立てます。しかし、実はこれは当たり前のことで、こうした化合物の安全性試験では、何か悪影響が出るまで投与量を上げていかなければならないからです。どのような化学物質を用いようとも、投与量を上げていけば、必ず有害な作用が現れます。「どのような症状が現れたのか」ということだけでなく、「どのくらいの投与量で症状が現れたのか」ということにも、注意する必要があります。

私たちが食物を通して摂取する化学物質には、「一日摂取許容量(Acceptable Daily IntakeADI)」という基準値が設けられています。「ADI」とは、食品に用いられたある特定の「化学物質」について、ヒトが一生涯に渡り毎日摂取し続けても、健康に影響が出ないと考えられる一日当たりの摂取量を、体重1 kg当たりで示した値(単位:mg/kg)のことです。例えば、ADI5 mg/kgの「化学物質」の場合、体重60 kgの人がこの「化学物質」を毎日300 mgずつ摂取し続けても安全ということになります。

 

 

私たちの身の回りには、ありとあらゆるところに人工的な「化学物質」が用いられています。それ故に、これら「化学物質」の基準値は、食事などから体内に入ってしまうこれらの「化学物質」を一定水準以下に制限し、私たちの健康に影響を与えないように、極めて厳しい水準で決められています。

 「ADI」を決定するには、まずマウスなどを用いた「動物実験」によって、基準値を決めたい化学物質の「無毒性量」を定めます。定め方としては、マウスに体重1 kg当たり10 mg20 mg40 mg80 mg・・・・・・といった具合に、投与量を段々と増やして投与していき、毎日繰り返し食べても、全く異常がでない最高の投与量を「無毒性量」とするのです。例えば、体重1 kg当たり80 mgで「毛並みが悪くなった」、「体重増加が見られなくなった」などの異常が出た場合、40 mg/kgが「無毒性量」となります。本当は、60 mg/kg70 mg/kg投与しても大丈夫なのかもしれませんが、安全側に振って、40 mg/kgを「基準値」に定めるのです。

 

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.12  マウスは、哺乳類の中でもサイズが小さく、繁殖力も高いため、実験用動物として汎用される

 

しかし、動物と人間では、体の仕組みが違いますから、動物で安全な量が、人間でも安全であるとは限りません。そこで、念には念を入れ、10倍の「安全係数」を掛けます。すなわち、動物で40 mg/kgの基準値となったら、念のため、人間では4 mg/kgまでに制限しようということです。また、同じ人間同士でも、体の大きさや人種、性別、体質などの差異がありますから、ここでも念のため、10倍の「安全係数」を掛けます。つまり、実験動物での「無毒性量」の100分の1の値である0.4 mg/kgまでなら、人間が摂ってもまず大丈夫だろうという考え方です。こうして算出した数値が、「ADI」になります。何だかややこしいようですが、要するに、私たちの口に入っても良いと決められた「化学物質」の量は、「実験動物が一生の間、毎日食べ続けても大丈夫であった数値の数百分の1のレベル」になっているのです。

 

.13  ADI」は、実験動物での無毒性量の100分の1の数値である

 

このように、「ADI」は極めて厳しい判定基準の下に定められてはいるものの、ほとんどの場合において、その値は全くのゼロではありません。「食品添加物」や「農薬」などの多くは、体に入れてもいいことは何もありませんから、摂取量をゼロにしてしまいたいのは人情です。しかし、これら「有害物質」の摂取量をゼロに持っていくことは難しいし、そうしても費用がかかるばかりで、安全の向上には、ほとんどつながらないのです。

 

(ii)「ゼロリスク」の幻想

「ベンゼン」という化学物質は、石油などに含まれる成分で、かつては強力な「有機溶剤」として利用され、特に金属部品からグリースを除くのに使われていました。ペンキ剥がし、染み抜き、ゴム糊などの家庭用製品にも広く使われてた物質です。しかし、「発ガン性」などの強い毒性があることが判明して、現在では使用が減っています。日本では、「労働安全衛生法」により、「溶剤」としての利用は原則禁止されています。このような経緯があり、「清涼飲料水」に含まれるベンゼンの割合は、10 ppb(0.000001%)以下と法律で規制されています。ところが、2006年にイギリスなどの諸外国で、この基準値を超えていたいくつかの清涼飲料水が回収されるという一件がありました。これを受けて日本でも、厚生労働省医薬食品局食品安全部が、市販の清涼飲料水をいくつか調査し、1つの製品で70 ppbを超える濃度が検出され、自主回収を要請しました。もちろん、それが健康に大きな影響がない量であったとしても、法規則を守っていなかったメーカーに対して、処罰がなされるのは当然のことです。

 

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.14  「ベンゼン」には、「発ガン性」などの強い毒性がある

 

そこで、「子供や病人の方も飲むものにベンゼンが含まれるなど、あってはならないことだ。たとえ微量であったとしても、メーカーはもっとベンゼンを取り除く努力をするべきだ」という人がいます。例えば、ある清涼飲料水に「1 ppb」のベンゼンが含まれていると分かった場合、あなたはこの清涼飲料水を購入したいと思いますか?ベンゼンの含有量を0にしないのは、メーカー側の怠慢だと思うのではないでしょうか?これは一見すると、至極まっとうな意見のように思えます。しかし、これこそが「ゼロリスクの罠」なのです。まず、「1 ppbのベンゼン含有」という場合、これは1 tの飲料に対して、耳かき1杯にもならない量のベンゼンが混じっているということになります。これがどれほどの量なのかイメージできますか?別の言い方をすれば、今の全世界人口のうちの67人、あるいは約32年のうちの1秒という割合が「1 ppb」です。これだけの「微量成分」を取り除くのが、いかに技術的に困難であるのか、またそれができたとしても、いかに高額なコストを要することになるが、想像に難くありません。そのコストは、当然「価格上昇」として反映されるのですが、それでも「1 ppbのベンゼンを取り除け」という人はいるのでしょうか?飲料のベンゼンを絶無にしたとしても、ベンゼンは空気中にも微量含まれているので、呼吸によって空気中からベンゼンを取り込んでしまい、発ガン性の「リスク」はほとんど下がらないのですが。

 

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.15  プール一杯の水に対して、たった7滴ほどの水滴が「1ppb」に相当する

 

 こうした事情は、他の多くの化学物質や、あらゆる事象でも同様で、どんなものにも必ず「リスク」があります。例えば、「都市ガス」には爆発の危険性が、「自動車」には交通事故の危険性が、「餅」には窒息死する危険性が、「スポーツ」には怪我や心臓発作などの危険性がある訳で、どれだけ気を付けていても、私たちの身の回りの「リスク」はゼロになりません。しかし、身の回りのものに「リスク」があるのと同様、それによってもたらされる「利益」も何かしらあるものです。本来、物事というのは、「利益」と「リスク」の両面から見る必要があります。この両者のバランスをきちんと評価し、「利益」が「リスク」を十分に上回る場合にのみ、それを使う――というのが、本来の正しい「化学物質」との付き合い方だと思います。

 

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.16  私たちが生きていくために必要不可欠な「水」ですら、一度に大量摂取すれば「水中毒」になって死亡することもある

 

特に日本では、「何が何でもリスクをゼロに」という、やや感情的な主張がまかり通りがちですが、実際には、どんなものであろうと、「ゼロリスク」ということはあり得ません。「ゼロリスク」を追い求めていると、「化学物質」による被害を受けたときに、「化学物質は危険だ」という考えを抱くようになってしまいます。しかし、「化学物質」による被害を受けたとしても、「化学物質」がそれよりも遥かに多くの「利益」をもたらしている事実にも、目を向ける必要があります。これを踏まえた上で、「化学物質による被害が現れたときにどのような対処をするか」を、考えなければならないと思います。

参考になる考え方があるので紹介しましょう。ケンブリッジ大学の有機化学者であるジョン・エムズリーは、「1万分の1以下のリスクなら、受け入れるのが現代人の姿勢だろう」と述べています。これがどのくらいの確率かというと、「三つ子が産まれる確率」や「母親が出産時に亡くなる確率」が、いずれも1万分の1のレベルであることが知られています。身の回りに三つ子がいるかどうかを考えれば、この確率はある程度、誰でも受け入れられるものなのではないでしょうか。また、「自動車事故で死亡する確率」もほぼ1万分の1前後ですが、皆それを理解した上で、自動車に乗っています。つまり、我々は、すでに無意識的にこのレベルの「リスク」を許容して、この車社会に生きているともいえます。1万分の1の「リスク」を恐れるのなら、自動車事故に遭わないよう、引きこもりの生活を強いられることになります。どんなものにも「リスク」があることを理解し、ある程度の「リスク」は許容するという姿勢が、現代人に求められていることだと思います。

 

.1  身の回りの様々な確率(数値には諸説あり)

事象

確率

40人の中に同じ誕生日の人がいる

89/100(89%)

「お客様の中にお医者様はいらっしゃいますか?」で医者がいる

7/10(70%)

生まれてくる子供が男の子

51/100(51%)

生まれてくる子供が女の子

49/100(49%)

自分のパートナーに浮気される

1/4(25%)

自動販売機の下にお金が落ちている

1/10(10%)

ガリガリくんで当たりが出る

1/25(4%)

一生涯に救急車に乗る

1/25(4%)

初恋の人と結婚する

1/100(1%)

蚊に刺されて命を落とす

1/100(1%)

自動販売機で当たりが出る

1/100(1%)

東京大学に合格する

3/2,500(0.12%)

1年間に空き巣に遭う

1/1,000(0.1%)

日本人が刑務所に入っている

1/2,000(0.05%)

他人に殺される

3/10,000(0.03%)

野球場でホームランボールを掴む

9/25,000(0.026%)

ホームレスになる

1/5,000(0.02%)

四葉のクローバーができる

1/10,000(0.01%)

自動車事故で死亡する

1/10,000(0.01%)

ゴルフでホールインワンを出す

1/12,000(0.008%)

過労で命を落とす

1/30,000(0.003%)

洪水で命を落とす

1/30,000(0.003%)

オスの三毛猫が生まれる

1/30,000(0.003%)

日本で遭難する

1/50,000(0.002%)

スズメバチに刺されて命を落とす

3/250,000(0.0012%)

プロ野球選手と結婚する

1/100,000(0.001%)

東京23区でタヌキに出会う

1/100,000(0.001%)

地震で命を落とす

1/130,000(0.0008%)

クマに襲われて命を落とす

1/200,000(0.0005%)

毎日飛行機に乗って事故に遭う

1/200,000(0.0005%)

麻雀で天和が出る

3/1,000,000(0.0003%)

宝くじで一等当選

1/10,000,000(0.00001%)

雷に撃たれて命を落とす

1/10,000,000(0.00001%)

サメに襲われて命を落とす

1/110,000,000(0.0000009%)

隕石が頭に直撃して命を落とす

1/10,000,000,000(0.000000001%)

 


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・参考文献

1) 佐藤健太郎「化学物質はなぜ嫌われるのか」技術評論社(2008年発行)

2) 佐藤健太郎『「ゼロリスク社会」の罠』光文社(2012年発行)

3) 左巻健男「面白くて眠れなくなる化学」PHP研究所(2012年発行)

4) 志村幸雄「笑う科学 イグ・ノーベル賞」PHP研究所(2009年発行)

5) ジョーシュワルツ「シュワルツ博士の化学はこんなに面白い」主婦の友社(2002年発行)

6) 船山信次「こわくない有機化合物超入門」技術評論社(2014年発行)